大塚家具の問題に何を見るか。
ここ最近、泥沼化の様相を呈している大塚家具の問題だが、この問題には、ある種、日本の縮図に近いものが見えてくると私は思う。
まず会長である父親側の考えはこうだ。(カッコ内はマクロ的観点)
1)大塚家具のアイデンティティーでもある会員制の継続(伝統重視の日本的経営)
2)高級家具に特化した販売形態(日本の高い技術力の特化)
3)株主優先よりも社員優先(営利は社会のためという日本的経営)
そして社長である娘側の考えはこうだ。
1)大塚家具の伝統だけでは経営困難であり、その会員制の廃止(改革、革新主義)
2)中価格帯も充実させ、カジュアルな形態へ(大衆迎合)
3)社員よりも株主優先(アメリカ的グローバルキャピタライズ・自己利益)
大きく分けるとこういったことではないだろうか。
これらを上げてみると、そもそもイデオロギーがまったく相反することがわかると思う。
父親側は伝統と人材を重んじる保守で日本的
娘側は改革と利潤を重んじるリベラルで欧米的
これらが真っ向からぶつかり合って、双方譲らないまま、株主(民主的)にその選択が迫られているというわけだ。
まさにこれは日本が直面している問題そのものではないか、そう私には思えたのである。
そして現在の日本は、ここ十数年、娘側であるリベラリストがその主導権を民主的、政治的に握ってきた。
経済学的に言えば新古典派経済学に基づく、グローバリズムだ。(当然、現在の安倍政権もそれを継承しているのは言うまでもない)
しかし、そのグローバリズムは近年、世界金融危機を頻発させ、また、企業の所有と経営を分離した短期的利益のための投資による、経済停滞とデフレを招いている。
言い換えれば、グローバルキャピタライズそのものの限界を世界は目の当たりにしているのである。
このような観点から考えれば、娘のやり方で、娘が言う「将来に大塚家具を残す」というのは、むしろ逆効果であることがわかるだろう。
グローバルキャピタライズの崩壊と共に共倒れするということである。
また、そういった長期的観点以外にも、娘側には大きな問題点がある。
それは大塚家具が今まで行ってきた形態を大幅に変えるということだ。
国家レベルでもその国が今まで行ってきた(ある種の伝統や慣習)を大幅に変えるというのは、革命であり、革命の結果にどのような悲惨な結末になったのかは、歴史を顧みれば一目瞭然である。
レジティマシーを失った国家や企業ほど、脆弱なものはない、そういうことである。
また現実的にも、大塚家具のような高級路線(本当は1.5流だが)の顧客と、IKEAやニトリへ行くような顧客はそもそもマーケティング的に相見えない。
今更、大塚家具が中途半端にそれら、中低価格帯の企業の土俵に乗れば、確実に、今までの顧客は離れていくだろうし、なによりも、プライドを持って働いていた有能な社員たちは、退社していくことだろう。
それに対し、父親は「社員は子ども」「このままでは有能な社員が辞めて行ってしまう」と危惧している。
それが本心かはさておき、少なくとも、娘のように「株主配当金を上げる」などと、株主に媚びるような考えはないだろう。
このことからも、父親側は、企業は社員があってのもの、という経営と所有の一致を前提としていることがわかる。
それに対し、娘側は、経営と所有を分離させ、全てを数字化させている。
確かに、そのように数字化させると、極めて合理的に見え、一見すると正論のように感じがちだが、これはある種のレトリックにすぎない。
資本主義の本質と問題が正しく理解できているのであれば、この経営と所有が分離が、如何に問題で破滅を呼ぶものなのか、すぐに分かるはずである。
そこが理解出来ない娘側は、株主を味方にし、そして株主に手足を縛られ、自らその首を絞めて行くことになるだろう。
当然、そこを父親も危惧しているに違いない。そして、それをなんとか阻止しようと必死なのだ。
しかし現実は残酷だろう。
株主がどう判断するのか、結果は私には断言出来ないが、おそらく株主配当金を上げ、利潤が得られる娘側に付くはずだ。
その後の結果は、先に述べた通りである。
そして、これが日本の未来であるような気がしてならない、と思うのは私だけだろうか。
資本主義の破滅
ここ数年、世界的に極めて不安定となり、資本主義そのものへの懐疑心が渦巻いている。
そこで、資本主義はこのままいくとどうなってしまうのか、稚拙ではあるが、様々な資本主義における懐疑的な意見を参考にしながら考えてみることにする。
まず1970年前後から、徐々に資本主義による弊害が生まれ始めていた。
この頃から金融市場と実体経済が分離しはじめ、株主資本主義が台頭することで、株主が優先されるような経営やそれに伴う政府の改革(規制緩和)が行われるようになっていった。
これらの改革を是としたのは、言うまでもなく新古典派経済学者とそこに迎合する政治家達や株主であったことは言うまでもないが、それら市場原理主義者によって、実体経済は長期的展望や、長期的投資を行う事を避け、短期的利益と株価ばかりを気にするようになる。
また、政府は極力、市場への介入を避け、財政出動も減らして行くという方向へと進んでいった。
そして、その弊害が顕著に現れたのが記憶に新しいサブプライムローン問題に端を発するリーマンショックだ。
このリーマンショックによって、金融市場の脆弱さと、さらに実体経済への悪影響が顕著となったわけだが、それ以上に、資本主義経済そのものの終焉を予期する事になる。
その予期をした筆頭に上げられるのがミンスキーだろう。
彼は資本主義が発展して行く過程で必ず、政府のコントロールがなければ、金融市場が暴走し、実体経済をも巻き込んだ恐慌になると警鐘をならしている。
特にサブプライム問題は、過度に進んだ金融技術とそれを可能とした規制緩和によって齎された。
ポンジー金融という極めて不確実性の高い商品が世界中に出回り、市場が暴走を始めたのである。
本来、株価や金融商品は、極力、実態に近い形での価格が望ましいのは言うまでもない。
しかし、実態と将来への期待(不確実性)が、あまりにも乖離したこれらの商品は、裏を返せば、暴落の危険性をもった極めて脆弱なものだ。
にも関わらずそれらが肥大していった背景には、資本主義の原理に基づけば、市場は理性的判断の元に、拡大するという神話があったのかもしれない。
しかし、現実はピケティが指摘するように、資本収益率が、経済成長率を上回るという現象、言い換えれば格差が拡大し、社会が不安定化し、いずれは資本主義そのものが崩壊してしまうという方向にひた走っていたのである。
このような指摘や警鐘があったにも関わらず、リーマンショック後もなお、新古典派経済学(グローバリズム)の波が収まる事がなかったのは、アメリカの覇権主義の終焉も大きな要因の一つだろう。
なぜならば、これだけグローバル化された経済の中で、リーダーシップを取る国が無ければ、方向転換など出来ないからである。
またユーロ圏も、EUというグローバリズム体制から脱却するには、あまりにもリスクが高過ぎる。
これら現状を考えると、資本主義が崖に落ちる前に世界がそれを阻止するのは極めて難しいのではないか、そう思えてならない。
言い換えれば、資本主義は崖から落ちて始めてその崩壊を世界が知るということだ。
しかしそれはあまりにも危険で弊害が多過ぎる。場合によっては世界戦争さえも免れないかもしれない。
本来、そうなる前に、何らかの対策と方向転換が行われなければならない。
それについてもミンスキーは財政赤字など気にせず、政府の投資規模を拡大させ、過度な金融市場への規制、そしてそもそもの株主資本主義からの脱却を上げている。
現在、安倍政権でも、ケインズ主義的政策が少なからず取られ、また一部の学者の中でも、ケインズ主義こそ、デフレ脱却には必要だと訴える者もいるが、それについても私は最近、疑念を感じてならない。
先に述べたように、政府主導で大胆な金融緩和と財政出動をした所で、金融が膨れ上がり、さらなる不安定化を起こすだけであるし、政府による財政出動も、いずれは限界が来るからだ。
これらを踏まえると、ミンスキーが言うように、まずは構造的に過度な金融市場依存を無くし、また株主資本主義からの脱却を行わない限り、ケインズ主義は活きてこないのではないか、そう思うのである。
民間企業が株価(株主配当など)を気にせず、長期的展望で投資を行える地盤と、短期的な投資への課税強化など、企業経営の安定化と、金融市場の安定化が不可欠というわけだ。
また、中小零細企業に対しても、細やかな融資を行えるような地方銀行の強化も必要となる。
これらの構造がしっかり構築できた上で、政府は思いきった財政出動を行えば、ピケティやスティングリッツが指摘するような格差は広がらなくなるだろう。
しかし、残念なのは、日本政府は逆進性の高い消費税を増税し、また法人税を下げようとしている。さらに致命的なのは、この期に及んで財政再建を目指し、また規制強化とは真逆なことを行っているわけだから笑うに笑えない。
これでは、格差が縮まるどころか、彼らが懸念する通りの格差拡大と社会の不安定化、そして資本主義の崩壊へと歩んでしまうだろう。
いち早く、このような誤ったビジョンを転換し、実態経済の活力を促さなければ資本主義は危うい、そう私は思うのだが、、、
そこで、資本主義はこのままいくとどうなってしまうのか、稚拙ではあるが、様々な資本主義における懐疑的な意見を参考にしながら考えてみることにする。
まず1970年前後から、徐々に資本主義による弊害が生まれ始めていた。
この頃から金融市場と実体経済が分離しはじめ、株主資本主義が台頭することで、株主が優先されるような経営やそれに伴う政府の改革(規制緩和)が行われるようになっていった。
これらの改革を是としたのは、言うまでもなく新古典派経済学者とそこに迎合する政治家達や株主であったことは言うまでもないが、それら市場原理主義者によって、実体経済は長期的展望や、長期的投資を行う事を避け、短期的利益と株価ばかりを気にするようになる。
また、政府は極力、市場への介入を避け、財政出動も減らして行くという方向へと進んでいった。
そして、その弊害が顕著に現れたのが記憶に新しいサブプライムローン問題に端を発するリーマンショックだ。
このリーマンショックによって、金融市場の脆弱さと、さらに実体経済への悪影響が顕著となったわけだが、それ以上に、資本主義経済そのものの終焉を予期する事になる。
その予期をした筆頭に上げられるのがミンスキーだろう。
彼は資本主義が発展して行く過程で必ず、政府のコントロールがなければ、金融市場が暴走し、実体経済をも巻き込んだ恐慌になると警鐘をならしている。
特にサブプライム問題は、過度に進んだ金融技術とそれを可能とした規制緩和によって齎された。
ポンジー金融という極めて不確実性の高い商品が世界中に出回り、市場が暴走を始めたのである。
本来、株価や金融商品は、極力、実態に近い形での価格が望ましいのは言うまでもない。
しかし、実態と将来への期待(不確実性)が、あまりにも乖離したこれらの商品は、裏を返せば、暴落の危険性をもった極めて脆弱なものだ。
にも関わらずそれらが肥大していった背景には、資本主義の原理に基づけば、市場は理性的判断の元に、拡大するという神話があったのかもしれない。
しかし、現実はピケティが指摘するように、資本収益率が、経済成長率を上回るという現象、言い換えれば格差が拡大し、社会が不安定化し、いずれは資本主義そのものが崩壊してしまうという方向にひた走っていたのである。
このような指摘や警鐘があったにも関わらず、リーマンショック後もなお、新古典派経済学(グローバリズム)の波が収まる事がなかったのは、アメリカの覇権主義の終焉も大きな要因の一つだろう。
なぜならば、これだけグローバル化された経済の中で、リーダーシップを取る国が無ければ、方向転換など出来ないからである。
またユーロ圏も、EUというグローバリズム体制から脱却するには、あまりにもリスクが高過ぎる。
これら現状を考えると、資本主義が崖に落ちる前に世界がそれを阻止するのは極めて難しいのではないか、そう思えてならない。
言い換えれば、資本主義は崖から落ちて始めてその崩壊を世界が知るということだ。
しかしそれはあまりにも危険で弊害が多過ぎる。場合によっては世界戦争さえも免れないかもしれない。
本来、そうなる前に、何らかの対策と方向転換が行われなければならない。
それについてもミンスキーは財政赤字など気にせず、政府の投資規模を拡大させ、過度な金融市場への規制、そしてそもそもの株主資本主義からの脱却を上げている。
現在、安倍政権でも、ケインズ主義的政策が少なからず取られ、また一部の学者の中でも、ケインズ主義こそ、デフレ脱却には必要だと訴える者もいるが、それについても私は最近、疑念を感じてならない。
先に述べたように、政府主導で大胆な金融緩和と財政出動をした所で、金融が膨れ上がり、さらなる不安定化を起こすだけであるし、政府による財政出動も、いずれは限界が来るからだ。
これらを踏まえると、ミンスキーが言うように、まずは構造的に過度な金融市場依存を無くし、また株主資本主義からの脱却を行わない限り、ケインズ主義は活きてこないのではないか、そう思うのである。
民間企業が株価(株主配当など)を気にせず、長期的展望で投資を行える地盤と、短期的な投資への課税強化など、企業経営の安定化と、金融市場の安定化が不可欠というわけだ。
また、中小零細企業に対しても、細やかな融資を行えるような地方銀行の強化も必要となる。
これらの構造がしっかり構築できた上で、政府は思いきった財政出動を行えば、ピケティやスティングリッツが指摘するような格差は広がらなくなるだろう。
しかし、残念なのは、日本政府は逆進性の高い消費税を増税し、また法人税を下げようとしている。さらに致命的なのは、この期に及んで財政再建を目指し、また規制強化とは真逆なことを行っているわけだから笑うに笑えない。
これでは、格差が縮まるどころか、彼らが懸念する通りの格差拡大と社会の不安定化、そして資本主義の崩壊へと歩んでしまうだろう。
いち早く、このような誤ったビジョンを転換し、実態経済の活力を促さなければ資本主義は危うい、そう私は思うのだが、、、
