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ブリュードッグのストロングスタウト



今回は個性的なネーミングと味で勝負する、イギリスのブリュードッグさんが作るストロングスタウト。






呑んだ瞬間は、スタウト独特の風味と甘みが舌を通り、つづいてIPA並のホップの苦みとスタウトの苦みが混ざって襲ってくる。



そして最後に、胸を熱くさせるようなアルコールとアルコール臭が鼻を突き抜ける。




それもそのはず、このストロングスタウト、アルコール度数がなんと16.5%と規格外!



久々にたった一本で、酔いが回った(笑)



強烈な個性のスタウトだが、ビール単品よりも料理と合わせるのがポイントかもしれない。




ストーカーについて

近年増加するストーカー犯罪。それが発展し、殺人事件まで起きる世の中のなってしまいました。




もちろん、そんな犯罪者を擁護する気にはまったくなれません。未熟で自分勝手な行動であり、断じて許すわけにはいきません。




しかしながら、彼らがなぜストーカー行為に走り、また殺害までしてしまったのかを考えると、全ての責任を彼らに負わすというのも、違うのではないか、そうとも思います。



なぜならば、哲学者のハンナ・アーレントがアイヒマンの考察において、「悪の凡庸」と称したように、ストーカーもまた、ある意味、誰にでも起こす可能性が大なり小なり、あるのではないか、そんな風にも思えるからです。




では、なぜこのようなストーカーが生まれてしまうのでしょうか。



そこには、被害者側の問題と、加害者側の問題、この二つの問題が重なり合ったときに起きる可能性が極めて高いと私は思うのです。



言い換えれば、双方だけの問題では、そこまで深刻なストーカー事件へと発展しないとも言えます。




もちろん、全くの交友関係もない人間に対して行うストーカー行為に関しては、これらは当てはまらず、まさに情状酌量の余地は一切ありません。




しかしながらほとんどのストーカー事件は、元恋人であったり、元配偶者です。




これらの背景や心理を探って行くことは、ストーカー被害を今後増やさないためにも重要な考察ではないか、そう私は考えています。




さて、このような行為を起こす上で、背景を考えて行きましょう。



まず、第一に、IT技術やSNS、メールの発達と共に、直接顔を合わせた話し合いが少なくなり、コミニュケーションが希薄になったことが上げられます。



例えば、付き合うのも別れるのもメールやLINEですますようなことも最近ではあるようです。


確かに別れを切り出す側としては、直接会うのは気まずいので、こういった手法の方が面倒ではありませんし、なにより楽です。


しかしながら、別れを切り出された側からすれば、これほど嫌な媒体はないでしょう。



温度も何も無い、電子的な文字が羅列された批判的な内容ほど、辛い物はありません。



こうしたことを考えれば、やはり面倒でも、きちっと相手の目をみて話し合う、そんな原始的な手段こそ、必要なのではないか、そう私は思います。



次に、精神的な未熟さからくる自己中心的な思考が上げられます。



これは主に加害者側に焦点が当てられがちですが、当然、被害者にも同じような未熟さや自分勝手さがあることも十分に考えられます。



例えば、先に述べたように、一度は好きになった相手を、メールで切り捨てるというのは、あまりも配慮に欠けている行為です。



また会って直接話すにせよ、一度で納得するような相手ばかりではありません。相手によっては、何度も繰り返し、納得してもらうまで話し合う必要もあります。



しかし、それが面倒だったり、不愉快であったり、苦痛であったりするわけで、結局はそこまで真摯に対応する者はほぼ皆無でしょう。




要するに,相手が納得していないにも関わらず、話し合いを打ち切り、それ以降、一切の連絡手段を断ってしまったり、逃げたりというやり方をする人が多いのも事実なのです。



少なくとも、一度は好きになって付き合ったり、結婚したわけですから、その相手に対し、それなりの誠意をもって接するのが、大人の対応というものではないでしょうか。



それが出来ない者は、やはり自己中心的な考えそのものであると私は思うのです。(誤解しないでもらいたいのは、そういうことが通じない相手もいることを否定はしません)



また加害者側にも当然、その未熟さや自己中心性はあります。



普通に考えれば、相手から拒絶された地点で、相手のいやがる行為を行うことを躊躇うでしょう。



ある先輩が、本当の愛は「相手の幸せを一番に願う事である」と言っていましたが、まさに、例えその相手を自分が幸せにできないにしても、相手の幸せのためなら身を引くこともまた愛ではないか、そう私も思うのです。



しかしながら、相手を好きな自分が好きとなってしまえば、嫌がる相手の気持ちなど、考えられなくなってしまいます。



これこそ、加害者側の最大なる未熟さと自己中心性の表れではないでしょうか。




このように、IT技術とコミュニケーションの劣化、そしてそれを扱う側も、双方に精神的未熟さと、自己中心性がある、というのが背景にあるのではないか、そう私は考えています。




続いて、そこを前提にした心理を考えていきましょう。



まず、被害者側(別れを切り出した側)の心理からすると、一度自分の中で決断したことは、そうそう変わるものではないでしょう。


まして男女の仲となれば、それ相当の覚悟を持って決断するはずです(そうじゃない関係もあるでしょうが)




その時、被害者側の心理は、相手との過去を断絶する傾向にあると私は思えます。



その方がすっきりしますし、未来に向かって生きやすくなるからです。また別れを切り出した側ですから、既にそういう思いが強くなっているはずです。



しかしながら、西田幾多郎が言うように、現実はあくまで過去とより接点を強く持っているわけで、そこを断絶させることで、必ず歪みが生じます。



何よりも、相手にとってはその過去は現在進行形に他なりません。この双方の時間軸のズレと言いましょうか、そういった感覚のズレも大きな歪みの原因ではないか、そう思えるのです。




そして次に加害者の心理ですが、未熟さと自己中心性から、自分がなぜ振られたのかが、判断付かないはずです。



もちろん、ある程度の推測はできるでしょう。しかし、推測は所詮、推測でしかありません。



事実は何なのか、なぜ、自分は振られたのか、その真実を知りたいという衝動に駆られるはずです。



また、あくまで加害者側からすれば現在進行形ですから、もう一度やり直せるという思いも強いはずです。



このような心理になっていれば、当然、直接会って話したい、そう願うのは必然です。



しかし、先に述べたように、過去を断絶した相手と会う事は容易ではありませんし、例え会っても、加害者側の欲求が満たされる事など、ほぼありません。



冷静に考えれば、その程度の判断は誰にでも付くでしょうが、このような心理に陥った加害者が、そのような冷静な判断などできるわけもありません。



加害者にとってみれば、大好きだった自分の恋人(過去)が、別れた後の被害者(現在)によって殺されたも同然に感じるからです。



大げさな例かもしれませんが、突如として愛する者を他者の手によって命を奪われたとしたら、憎しみはもちろんのこと、その理由や真実を聞きたいと強く願うはずです。(ストーカーの場合、その相手がまさに、自分の元恋人なわけです)



ストーカー行為も、実はこれに近い感情が、加害者側に芽生えていると私は分析しているのです(前提が未熟なので、レベルは低いですが、心理としては似ている、そういうことです。またそれは元恋人であったり、元配偶者である場合の心理です)




このように愛する者を失った(もしくは失うかもしれない)、加害者側の心理を考えれば、相当精神的に辛い状況にあることは間違いありません。




これは、おそらく真剣に、また純粋に相手と交際したり、結婚生活を送っていた者であればあるほど、その辛さは増幅するでしょうし、真実を聞けず、拒絶されればされるほどに、感情が高ぶっていくでしょう。



これらはまさに、ごく凡庸な心理であり、誰にでも起こりうる話だと思うのです。




そして、その先に、ストーカー行為に至か、殺害まで至か、その辺りは、先に述べた要素が強く関わってくるわけですが、根底にこのような心理があるということを前提に考える必要があるように私には思えるのです。




※もちろん、これら考察は、すべてのストーカー行為に当てはまるものではありません。許し難い犯罪もあり、情状酌量の余地がない者もいることを前提にした考察であることをご理解ください。




日本に核武装は必要か?


田母神氏など、一部の保守派や右寄りの人から、核武装すべきだという話がしばしば聞かれます。




私も当初は、中国の脅威に対抗するには、核武装はすべきであると考えていました。




しかしながら、中国人民解放軍の将軍が「核は使える兵器」との見解を示したことで、その考えに懐疑心を抱きました。





そこで現実的に日本が核を持った場合、本当に中国の脅威に対抗できるのか、自分なりに検証してみたのです。




まず日本も中国と同じレベルの核を保有していたと仮定して、実際に打つ打たないの話になったとします。





そのとき我が国ではまず、議会で民主的手続きの元、打つか打たないかを決めます。




しかし、中国にはその民主的手続きは不要ですから、打つか打たないかは、中国共産党の独断と偏見で決めてよいわけです。



この地点で、政治的には、日本は圧倒的に不利な立場に立たされます。




通常、先進民主国家では、核はあくまで使えない兵器であって、そこが前提の抑止力なのです。



それは民主的手続きで国民が核を打ち返されるリスクを背負わないからに他なりません。




これは今後、日本で独裁政権が生まれない限り、まず優位に立つことはないでしょう。




そしてもう一つ、地政学的問題です。




ご存知の通り、日本は極めて人口密度が高く、東京に核を落とされればひとたまりもありません。



しかし中国やロシアなど広大な国土を持つ国にとってみれば、一発程度の核では、致命傷にはなりません。



同時に打ち合いをしたと仮定しても、先に国が無くなるのは、日本の方なのです。




このように、政治的にも地政学的にも、同じ核兵器を保有していたとしても、圧倒的に日本が不利であることは間違いありません。




また、我が国は原発さえも動かせない原子力アレルギー国家であり、唯一の被爆国でもあります。




このような背景や現実を踏まえると、日本が核武装をするというのは、机上の空論と言わざるを得ません。




また国際的にはIAEAなどの離脱や国際社会からの孤立など、リスクも伴います。




そこまでして核を持ったとしても、先に述べたように、政治的、地政学的な不利は変わりませんから、日本が核保有するというメリットはほとんど皆無なのかもしれません。




さらに現実に照らし合わせれば、中国が日本と全面戦争を行うというのも、考えづらく、現状では、中国は日本の島(尖閣など)や海域を抑えたいだけであって、いうならばシーレンと資源目当てなわけです。




当然、そこに対抗するためだけに、日本が核を使うことが出来ないのは明白であって、これもまたあまり意味が無いと言わざるをえないのです。




では今後、どうするべきか?




現実の擦り合わせをするのであれば、核議論をしながら(もちろん、核の研究もすすめ)、通常兵器をしっかりと強化することが先決ではないか、そう私は考えます。




また、それら通常兵器を活用できる法整備も必要になりますし、それに伴う憲法改正も必至でしょう。




当然、それら法整備の根幹は、ネガティブリストでなければなりません。




現在の安倍政権が進める、集団的自衛権のような、ポジティブリストでは、相手に全て手のうちを見せてしまうことになるからです。



このように、本来ならば安全保障はネガティブリストでなければならないわけで、そこをきちっと法整備できるかも大きな鍵になると思われます。



それらができてもなお、脅威があるとなれば、そこで始めて核保有という伝家の宝刀を抜くという選択も出てくるのかもしれませんが、そうなったときはどちらにしても末期であるでしょう。




これらを踏まえれば、核を持っていようが持っていなかろうが、大した差はないように思えるのです。




ただし、いずれはですが、「核は無いよりはまし」、くらいな効果が出る時がくるかもしれませんが。