イスラム国は加害者か被害者か
連日、自称イスラム国の残虐さ、過激さが増し、それがメディアに踊っています。
しかしながら、なぜ彼らがこのような行為に及んだか、その本質を報じるメディアは皆無と言って良いでしょう。
それだけに国民の知る自称イスラム国は単なるテロ集団として犯罪者扱いです。
もちろん、彼らのやっている行為を肯定する事は決して出来ません。それでもなぜ彼らがこのようなことを行うのか、その根本を知る事はとても大事なことのように思えるのです。
それをひも解くに当たって、まずは理想主義に基ずくアメリカのグローバリズム戦略と、イラク戦争の失敗を上げなければなりません。
そもそもアメリカがイラク戦争に踏み切ったのは大量破壊兵器を持っているというのが彼らの大義名分でした。
しかし、現実はその大量破壊兵器はなく、それによって一説に寄ると数十万人のイラク市民(軍人も含め)が、犠牲になったと言われているのです。
これだけ多くの人が亡くなると、第三者にとってみれば、ただの統計にしかすぎませんが、その一人一人には、人生があり、家族がいたことは事実です。
そんな彼らからしてみれば、アメリカの行為は、不条理な大量虐殺以外の何者でもなかったでしょう。
そしてそんな憎しみが彼らを過激な思想にしていったと考えられるのです。
また、自称イスラム国には多くの外国人が参加しています。
ではなぜ彼らがそんな過激な組織に身を置くのか、それもまた、アメリカのグローバリズムによるものが大きいと私は思います。
フリードマンに代表される新古典派経済学に則って、世界を同じルールで同じ土俵で資本主義を行えば、当然、弱者はより弱者となり、強者はより強者になって行くのは必然です。
厄介なのは、そこに基督教的、自由平等博愛というものが資本主義に入り込んで、よりそれが顕著になったことです。
そしてその被害者は、移民の二世や三世であったり、ギリシャなど、長期にわたって失業しているような若者達です。
彼らは、そんなグローバリズムのせいで、冷遇を受け、差別され、排他されてきたわけですから、その恨みや憎しみ、不安や不満は私たちには計り知れないものがあったと思います。
このように考えたたとき、自称イスラム国を作った人々は、グローバリズムの被害者であったのではないか、そんな風に思ってしまうのです。
また、現在彼らは、欧米の「テロとの戦い」という大義名分で空爆され、油田という金を奪われ、相当追い込まれているはずです。
もはや大した武器を持たない彼らに出来ることと言えば、メディアを使い、恐怖(テラー)を世界に発信し、自分たちの存在を見せつける他ありません。
言い換えれば、後藤氏のように、残虐な処刑を行うことや、自爆テロ以外に、彼らはできることが無くなったとも言えるのです。
そしてそこまで追い込んだのもまた、アメリカです。
私はアメリカに対し、特別な感情があるわけではありませんし、極端な反米でもありません。
しかし、このように、事実を並べれば、本当の加害者は明らかにアメリカ側にあると言わざるを得ないのです。
そして、その被害者こそ、彼らであって、そのルサンチマンとして、このような行為をしていると考えるのが自然ではないか、そう思うのです。
もちろん、これ以上、彼らに残虐な行為をさせてはなりません。
しかし同時に、「テロとの戦い」も止めなければなりません。
この二律背反したことをアメリカを中心にできるかどうかはわかりませんが、少なからず、「テロとの戦い」を続ける以上、世界は混沌を極めることは確かなように私には思えます。
最後に後藤氏について少しだけ触れておきます。
彼はシリアに入る前、「全ての責任は私にあります」と自己責任を強調していました。
しかし同時に「必ず生きて帰ってきます」とも言っているのです。
私はこのことにやや違和感を覚えました。
なぜならば、このような危険地帯に入る自己責任というのは、死ぬ覚悟なくしては言ってはならない言葉だと思ったからです。
ちなみに衆議院議員の長尾たかし氏が以下のようなことを言っています。
「これまでに尖閣諸島漁業活動に5回参加し、おそらくこれからも機会を得れば行く筈です。
もしも中国公船に日本の領海内で拿捕されたら?といつも考えています。
おそらく我々は中国大陸へ連れて行かれ、裁判らしい裁判も受けることなく、即刻極刑かもしれません。
この際、我々が命を落とすことが問題なのではありません。
「日本の領海内で中国の施政権を行使した」という前例を中国に与えてしまうことが問題なのです。
仮に拿捕されたならば、自害し死体というモノになる覚悟を、妻と共有しています。
少なくもそのくらいの覚悟は持って行動してきましたし、これからも行動していきます。」
彼の言うように、このような場合においての自己責任には、死の覚悟が無くしては駄目なのではないでしょうか。
そしてまた、このように死ぬ覚悟があるからこそ、生きて帰れるのかもしれないな、そうとも思えるのです。
さがみビールのペールエール
今回は黄金井酒造さんが作る、さがみビールのペールエール。

基本さがみビールさんは上面発酵(エールビール)なだけに、結構本格派。
※店員さんに聞いたところ、エールビールはペールエールしか無いと言ってましたが、これ大きな間違い。
さがみビールさんは、アルト、ケルシュ、スタウト、ヴァイツェン、ペールエールと、ラインナップは全てエールビールです。
まあ、若干突っ込ませてもらいましたが。。。笑
余談はさておき、感想ですが、ペールエールの中でも、どちらかと言えばIPA系で、ホップが強く、フルーティーな香りとホップの苦みが結構ある。
本格的なIPAじゃないけれど、初心者向けのIPAって感じで、なかなかの出来映え。
欲を言えば、麦芽のコクがもう少しあると、全体のバランスが良いように思えるけど、ライトな焙煎で、あえてすっきりとした飲み口にしているんだろうなと思う。
今回はヴァイツェンも呑んだのだけど、これもホワイトビールが苦手な人でも、甘すぎず、それでいて芳醇。小麦の香りが存分に愉しました。
次回はアルトあたりを呑んでみたいと思う。
過去に学ぶ
人は自分が今生きている、この瞬間を生と認識するでしょう。
もちろん、それは間違いではありません。純粋な意味では、人は過去には生きられないからです。
しかしながら、同時に私たちは過去から押し出されたこの瞬間を生きていると考えれば、接しているのは今ではなく、実は過去なのです。
むしろ、その過去をどう理解し、どう乗り越え、どう自分の身にして行くか、それこそが極めて大事であって、その学びこそが未来へと繋がって行くのです。
かつてオルテガは「過去は我々になにをしたら良いかは教えてくれないが、何を避けるべきかは教えてくれる」と述べています。
また、ドイツの哲学者ショーペン・ハウエルは「真の意味で我々が知れる事は、既に考え抜かられたことである」と言い、所詮「現在」は「過去」のデフォルメやコピーにすぎないと説いています。
その上でハウエルは古典(過去の叡智)を読むべきだとも薦めています。
また西田幾多郎は「我々は日常時々刻々に瞬間に接して居ると考へて居る。併しその実、我々はいつも唯、過去に接して居るのである。瞬間に接して居るのではない」と述べています。
しかし、残念ながら今、この瞬間にみる我が国や国民の多くに、その感覚や自覚が極めて乏しいように思えてなりません。
過去からの連続性というものを断ち切り、「現在」が孤立している、そんな風にみえるのです。
その結果、過去からの遺産を無視し、自分が時代の頂点にいるかの如く振る舞い、「改革」を訴えたり、現状打破を訴えたり、またイノベーション(革新)という言葉を安易に用いて、進歩主義を絶賛したりしています。
それらは全て現代人の傲慢そのものであり、先人達が残してくれた大事な遺言を破り捨てる背信行為に他ならないのです。
オルテガの言うように、過去には長きに渡って人々が考えた「叡智」が詰まっているのです。
生活でいえば「知恵」とも言い換えられるでしょう。
そういった知恵こそが、生まれてから僅か数十年で死んで行く私たちの活動には極めて大事であり、また限られた生命だからこそ、先人達から受け継いだものをしっかりと学ぶ必要があるのです。
でなければ、私たちは寿命である数十年の中で、ほとんどのことが行えず、原始的な生活を強いられ死んで行くでしょう。
箸の持ち方から、言語、生活様式と様々なものを知らず知らずに過去から得ていることで、無駄が排除され、近代的な生活が営めるのです。
このように、私たちは過去と接して今を生きていることは明白でありながら、それを自覚できないというのは、なぜなのでしょうか?
それは個人主義という究極の分断が、戦後行われたことが大きな要因ではないか、そう私は思います。
それによって、過去に対する敬意、そして未来に対する責任、それらが欠如してしまったのでしょう。
かつて岡本太郎は「自分が死んだ後までは責任が持てない」と言いました。
もちろん、岡本太郎のその言葉の真意は別の所にありましたが、その本来の意味を理解せず、「まさに自分だけ良ければ良い」といった考えに国民が陥れば、未来は散々たるものになるでしょう。
私たちには過去から沢山の権利を受け継ぎ、それを次世代にも引き渡す義務があり、私たちの「生きる」とは、過去と未来の間でしかないという認識こそ、大事であると私は思います。