過去に学ぶ
人は自分が今生きている、この瞬間を生と認識するでしょう。
もちろん、それは間違いではありません。純粋な意味では、人は過去には生きられないからです。
しかしながら、同時に私たちは過去から押し出されたこの瞬間を生きていると考えれば、接しているのは今ではなく、実は過去なのです。
むしろ、その過去をどう理解し、どう乗り越え、どう自分の身にして行くか、それこそが極めて大事であって、その学びこそが未来へと繋がって行くのです。
かつてオルテガは「過去は我々になにをしたら良いかは教えてくれないが、何を避けるべきかは教えてくれる」と述べています。
また、ドイツの哲学者ショーペン・ハウエルは「真の意味で我々が知れる事は、既に考え抜かられたことである」と言い、所詮「現在」は「過去」のデフォルメやコピーにすぎないと説いています。
その上でハウエルは古典(過去の叡智)を読むべきだとも薦めています。
また西田幾多郎は「我々は日常時々刻々に瞬間に接して居ると考へて居る。併しその実、我々はいつも唯、過去に接して居るのである。瞬間に接して居るのではない」と述べています。
しかし、残念ながら今、この瞬間にみる我が国や国民の多くに、その感覚や自覚が極めて乏しいように思えてなりません。
過去からの連続性というものを断ち切り、「現在」が孤立している、そんな風にみえるのです。
その結果、過去からの遺産を無視し、自分が時代の頂点にいるかの如く振る舞い、「改革」を訴えたり、現状打破を訴えたり、またイノベーション(革新)という言葉を安易に用いて、進歩主義を絶賛したりしています。
それらは全て現代人の傲慢そのものであり、先人達が残してくれた大事な遺言を破り捨てる背信行為に他ならないのです。
オルテガの言うように、過去には長きに渡って人々が考えた「叡智」が詰まっているのです。
生活でいえば「知恵」とも言い換えられるでしょう。
そういった知恵こそが、生まれてから僅か数十年で死んで行く私たちの活動には極めて大事であり、また限られた生命だからこそ、先人達から受け継いだものをしっかりと学ぶ必要があるのです。
でなければ、私たちは寿命である数十年の中で、ほとんどのことが行えず、原始的な生活を強いられ死んで行くでしょう。
箸の持ち方から、言語、生活様式と様々なものを知らず知らずに過去から得ていることで、無駄が排除され、近代的な生活が営めるのです。
このように、私たちは過去と接して今を生きていることは明白でありながら、それを自覚できないというのは、なぜなのでしょうか?
それは個人主義という究極の分断が、戦後行われたことが大きな要因ではないか、そう私は思います。
それによって、過去に対する敬意、そして未来に対する責任、それらが欠如してしまったのでしょう。
かつて岡本太郎は「自分が死んだ後までは責任が持てない」と言いました。
もちろん、岡本太郎のその言葉の真意は別の所にありましたが、その本来の意味を理解せず、「まさに自分だけ良ければ良い」といった考えに国民が陥れば、未来は散々たるものになるでしょう。
私たちには過去から沢山の権利を受け継ぎ、それを次世代にも引き渡す義務があり、私たちの「生きる」とは、過去と未来の間でしかないという認識こそ、大事であると私は思います。