平衡を取れなくなった日本人
ここ数年の国民世論を眺めていると、とにもかくにも、両極端に振っているように思える。
郵政民営化「賛成ですか?反対ですか?」に始まり、秘密保護法、原発、安保法制etc
そのどれもが、賛成派、反対派が激しくぶつかり合っている。
もちろん、民主主義は異なる意見をぶつけ合う事は決して間違いではない。むしろ、健全な民主主義とはそういうものだ。
しかし、ぶつけあった結果に、平衡(中庸とも言うかもしれないが)を取る、というのがそもそも民主主義であって、互いが相手を論破しようと試みたり、自分の意見を一切曲げずに、相手をキチガイ扱いしたり、人格攻撃をしたりする事とはまったく違う。
この民主主義の前提がここ最近は、著しく崩壊し、賛成か反対かが常に平行線となり、議論できない状態に陥っているように私の目には映る。
では、なぜ日本人は議論ができなくなったのか?
一言で言えば「歴史の分断と個人主義」に集約されるだろう。
そもそも人一人の人生経験や知識、思考などは、たかが知れている。
そんな不完全な人間だからこそ、過去の叡智というもの参考にせざるをえないのだが、それを切り離し、現代人だけの経験、知識で行動すれば、より不完全、不安定になるのは必然だ。
にも関わらず、現代人が過去を切り離すというのは、「想像力」の欠如と個人主義的「傲慢さ」と言わざるをえない。
自分の意見は正しい!その思い込みが、議論を妨げているわけだ。
本来、先に述べたように、人間は不完全だ。そこを認識すれば、自らに「懐疑」を抱かざるをえない。
そしてまた、メディアの意見、社会の流れ、国民感情、民主主義,それらも同様に「懐疑」しなければならない。
そして、その懐疑は、過去との比較というものが重要になってくる。ただ懐疑するだけでは虚無に陥るからだ。
言い換えると過去こそ、その「基準」であるということであり、その基準を無くした現代においては、自己妄信か虚無かの二元論なってしまうわけだ。
その結果が昨今の賛成か反対の二元分裂の根源であるように私は思う。
また言語力(コミュニケーション能力)の著しい低下もそれに拍車を掛けている事もあるだろう。
言葉を正しく使えなければ、誤解も生じるだろうし、言葉が簡潔化されれば思考力も想像力も落ちるのだから、議論のレベルも当然下がってしまうだろう。
いまこそ、「過去を参考にし、平衡を取る」
それこそ私は健全な民主主義であり、多くの国民がそういった感覚を持たなければ、ナショナリズム(助け合い)は崩壊し、国家もまた脆弱になって行くだろう。
国営と民営の違いも分からない大衆人
新国立競技場を巡って、政府は人気取りのためか、大衆に媚びて「ザハ案」を白紙にしました。
では、なぜ大衆はザハ案に反対だったのでしょうか。
大きく分けると、イニシャルコスト(初期投資費)の増大と、ランニングコスト(運営費)が収益に対し、割に合わない(もしくは赤字になる)ということなのでしょう。
まずイニシャルコストの増大ですが、背景には「日本の財政難」というのがあるのでしょう。
これだけ日本は借金まみれなのに、そんな巨額な費用を掛ける必要があるのか、そういうことなのだと思います。(私はそれほど日本は財政難だとは思っていませんが)
(ここは正確を記するため、日本の借金ではなく、日本政府の借金であると訂正しなければなりません)
ちなみに民間と政府の関係において、基本、民間は倒産を避けるため、非合理な事業を行うことはほぼありません。(NPOやNGOは除く)言い換えると、合理的に動く傾向にあるのです。
しかし、世の中全体は合理的だけでは動きません。安全保障などはその最たるもので、自衛隊などは、敵国が攻めて来なければ、金を垂れ流すだけで非合理ですが、自衛隊があることで、抑止力や防衛ができ、安全に国民が経済活動に励めるわけです。
また、リニア新幹線などの長期的な開発なども同じように、民間だけの力ではなかなか難しいでしょうし、長期にわたる研究開発なども同じ事が言えているでしょう。
しかし、当然ながらそれらの投資を怠れば、国家はいずれ衰退してしまうでしょう。
そこで政府が介入し、長期的ビジョンに基づく投資や、安全保障などの非合理的なものに財政出動しなければならないのです。
言い換えると、民間は合理に基づき、短期で収益を上げ、国家(政府)は、非合理的なことを請負い、長期的に国家全体の収益が上がるようなインフラを作り上げるといった役割分担が必要になるわけです。
これは、経済学者のケインズが、合理に基づく市場(民間)が不安定ゆえに、それをリカバリーするのが政府の役目であると指摘していることからもわかるように、互いに強い相互性を持ちながら、しっかりとした役割分担があることを示しているわけです。
しかし現在は、政府を民間と同じように合理化させようという流れです。
新国立競技場撤回問題もまさに、その発想ではないでしょうか。
そうなると、誰が非合理的なことをするのでしょうか?市場が暴走したり、衰退したときには、誰がその負担をするのでしょうか?
当然、政府がそれを負担しなければ、市場の暴走や衰退を止められず、社会は不安定化してしまうでしょう。
さらにランニングコストの問題にも触れておきます。
まず、民間の競技場であれば、彼ら反対派が主張するように、赤字を垂れ流すような施設は、決して造るべきではありません。(そんなことをしたら倒産します)
しかし、国家(政府)は違います。なぜならば、新国立競技場も、その周辺(千駄ヶ谷)の飲食店や商店など利益も、全てが国家の収入(税収)に繋がるからです。
例えば新国立競技場目当てに来た客が、帰りに千駄ヶ谷の蕎麦屋に立ち寄ったとしましょう。
そうすると、千駄ヶ谷の蕎麦屋の収益は、GDPに計上され、税収として国家に一部還元されるわけで、千駄ヶ谷、いや東京全体として、今回の新国立競技場ができたことでの収益(税収)も換算できる(する)というわけです。
ここをはき違え、その施設だけで赤字だ黒字だと言っているのは、完全に合成の誤謬です。
また、イニシャルコストやランニングコストの行き先はどこでしょうか?
材料費など一部は海外からの輸入でしょうが、労働力のほとんどは日本国民が賄うことになるでしょう。いうならば、これもまた国民の収益に繋がって行くわけです。
このように、政府が建てる建造物が赤字だとしても、それに見合う以上の周囲(国民)の利益が上がれば、国家としては、決して損にはならないのです。
例を出せば,父親(政府)が息子(国民)の支援に徹して、年間100万円の赤字になったとしても、息子がその支援によって、200万円の黒字が出せれば、その家計は100万円の黒字であるというわけです。
それを父親(政府)だけの借金が増える事だけに焦点を当てる事は間違いなのです。
政府と民間には非合理と合理の役割分担がある!
政府と民間の支出はどちらもGDP!
まさに、これらこそ私たちが正しく理解しなければならない問題だと思います。
最高裁の愚
先般、一票の格差問題を解決すべく、参議院の選挙区分けが行われました。
その結果、鳥取、島根と、高知、徳島が合併区となり、選挙結果次第では、県から一人も参議院議員を出せない、そんな事態も想定されることとなりました。
では、なぜ、この地方再生が謳われる中で、このような反地方再生の選挙制度が可決されてしまったのでしょうか。
それはいうまでもなく、最高裁の「一票の格差は違憲」であるとの判決に則ったものです。
確かに、憲法では平等、権利を謳っています。しかし、そもそも世の中に平等などありえるでしょうか?当然、一定の格差が存在します。
もちろん、その格差を放置してしまえば、差別と化し、混沌殺伐とした社会になってしまうでしょう。
しかし同時に、平等の理想を追い求めすぎれば、画一、均一に陥り、これもまた、おかしな社会に成り下がってしまいます。
では、そんな現実と理想の平衡とは、一体、どうやって謀っていけば良いのでしょうか。
それには、節度、公正、良識に基づき、判断されなければなりません。
言い換えれば、歴史を顧みながら、判断していく、ということが必要不可欠になるのです。
しかしながら、近年の最高裁の判決は明らかに、そうではありません。
憲法に基づく平等を振りかざし、憲法至上主義と化した結果、地方を切り捨て、安全保障(一極都市集中)を脆弱にさせようとしているのです。
では、なぜこのような判決をスペシャリスト(専門家)である裁判官達が決定したのでしょうか。
それには二つの大きな問題があるのではないでしょうか。
一つ目は法律、憲法のスペシャリスト故に、国家や国体の在り方よりも、むしろ、憲法を遵守することのほうに、プライオリティーを置いたこと。
二つ目は、スペシャリスト故に、ジェネラル(一般的)及び、インティグリティ(総合的)な観点を持ち合わせておらず、その判断を世間に委ねるようになってしまったこと。
まず、一つ目ですが、国の在り方ということについては、憲法の視点及び遵守では、どうしても限界があることは否めません。
例えば国防問題などは、その最たる例の一つでしょう。もしも憲法遵守であれば、自衛隊すらも我が国は持てなくなります。ですから、最高裁はこれまで、そのことについて、明確に判断したことはありません。(砂川裁判では一定程度触れましたが、基本的に明言は避けてきました)
このように、国の在り方や、国体維持という根源的なことについて、司法では判断できない問題というのが多く存在するわけです。
また、そもそも法律、憲法のスペシャリストである彼らには、そのような判断ができるだけのインティグリティはありません。あくまで、法律ありきの矮小な結論しか出せないのです。
もちろん、本来ならば、今までのように、出せないなら出さない、そうあるべきなのですが、近年、そこに二つ目の問題点である、世論が入り込み、最高裁が踏み込んだ判決を下すようになってしまいました。
もちろん、その世論自体が、風などに流される事無く、インティグリティ(この場合は一貫性も含む)を持ち合わせてさえいれば、それほどおかしなことは起きないはずですし、そもそも最高裁もそのような踏み込んだ判決は避けたでしょう。
しかし、残念ながら、大衆の多数派を占めているのが、このインティグリティが欠落した人々です。
そもそもインティグリティ(総合性)とは、様々な見地、多々の角度を持ち合わせることです。
例えば、10通りの見地を持ち合わせることで、イノベーションや、風(モード)が吹いたとしても、それが11通りになるだけで、大きな現状変更は起きません。
言い換えればそこに一定の一貫性と強靱性が生まれるのです。(ちなみにインティグリティには、総合性という意味の他に、一貫性、誠実という意味もあります)
では、そのインティグリティが欠如すると、どのような弊害があるでしょうか。
例えば、一方向の視点しか持ち合わせていない人間に、もう一方から強い風が吹くとしましょう。そうなると、今度は真逆に流されてしまいます。
(小泉郵政改革を支持したと思えば、今度は民主党の政権交代を支持し、さらに今の安倍政権へ、そして今度は安保反対で反安倍へ、、、と平気で二転三転していることを鑑みれば、相当深刻なことがわかります)
このように、インティグリティの欠落は、極めて脆弱な思想(思想とはいえないが)を作り上げることになり、また一貫性のない、不誠実で稚拙な世論形成になってしまうということです。
さて、このように不誠実で稚拙な世論の風を、スペシャリストである裁判官が加味し、判決を下したとしたらどうでしょうか。
当然、歴史を顧み、国体を考えた総合的な判断の元、下されるような、良識的な判決にはなりえません。
そして、その結果が、一票の格差が違憲であるだとか、集団的自衛権が違憲であるだとか、婚外子の権利が平等であるべきであるだとか、そういった根本的な国柄や国体維持というべきものまで干渉してくることになったのです。
そして、その判決に、立法や行政も引っ張られるようにして、愚策を行うようになり、結果、我が国は2000年以上の歴史を捨てた、バカ国家へと成り下がるわけです。
オルテガが、大衆に支配された国家は、弱力化し、国家そのものの没落すると述べました。
まさに我が国は、その道を邁進しているようです。