歪んだ日本国憲法
憲法というのは国家の最高法規であり、国家の根本規範です。
にも関わらず、その我が国の憲法はご承知の通り、我が国民の手ではなく、GHQというアメリカの手によって作られたという、まさに出自からしておかしな憲法なのです。
ちなみに、我が国独自の憲法と言えば、大日本帝国憲法です。
その勅語は以下の通りです。
意訳
(私は国家の隆昌と臣民の喜び幸せとを以て、一番の喜びと光栄とし、私が歴代の先祖から受け継いだ大権によって、現在及び将来の臣民に対してこの不磨の大典を宣布します。
思うに我が歴代の祖先は、わが臣民の祖先の協力と助けによって、我が帝国を創造され、永遠に後世の者に示されました。
これは私の神聖なる歴代先祖の威徳と、並びに臣民の忠実勇武によって、国を愛し公にしたがい、それによってこの光輝ある国史の実績を遺されました。
私は、我が臣民はすなわち歴代先祖の忠良なる臣民の子孫であることを思い起こしましたが、其の私の思いを承けて心に留めて私の事をよく助け従い、相共に心を同じくして力を合わせ、益々我が帝国の光栄を国内外に宣揚し、歴代先祖の偉業を永久に固く強くする希望を一緒に持ち、この責任の負担を分かち持つことに堪え得ることを疑いません。)
多少、現代に相応しない文章ではありますが、その内容に関して私は、異議がございません。
このような憲法勅語に対し、現在の我が国の憲法前文は、以下の通りです。
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、 われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、 この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
比較すれば一目瞭然で、前者は、伝統精神を明確に表し、後者はアメリカニズムとアメリカ従属そのものであり、我が国独自のナショナリズムに基づくものは一切ありません。
むしろ、アメリカによる人工的秩序の構築、言い換えればアメリカの理想主義と、隷属の押し付けに他なりません。
本来ならば、2700年という歴史に基づき継承されてきた伝統精神が、我が国の憲法の根幹にならなければなりません。
それは、憲法=根本規範であるということは、その根本規範は伝統や慣習といったものからしか生じないからです。
その本来在るべき形から逸脱し、取ってツケたようなアメリカニズム的憲法を押し付けられた私たちは、先人達の叡智(伝統)を受け継ぐ事が出来ずに、まるで戦後に突如としてこの地球に誕生したかの如く、位置づけられているのです。
このような状況は、まさに「宙ぶらり」状態であり、規範、基軸無き国家という極めて脆弱な体質になってしまっているのです。
しかしながら、それはまだ70年の歴史しかありません。2700年という歳月からすれば、まだ戻れる範疇であると私は思うのです。
もちろん、急激に70年前の伝統精神に戻すことは不可能でしょう。しかし、漸次的にでも、そういった伝統精神に基づく方向に舵を切らなければならないと私は強く感じています。
ちなみに、西部邁氏も、「憲法という国民の根本規範は元来、国民の歴史的常識の在り方、つまり伝統精神を表すものであるから、重要なのは国民の国家観を正すことのほうである」
このように、話しており、まさに国民の国家観を微調整しながら正し、それを後世に伝え残して行くことこそ、私たち現代人の責務であると思うのです。
まだまだ、書ききれないほどに、現憲法は問題だらけなのですが、少なくとも、こうした問題点を少しは国民が意識しても良いのではないか、そう感じてなりません。