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増税前の駆け込み&買い控えは合成の誤謬


増税前にと、必死になって駆け込みで買いあさったり、はたまた増税後には、買い控えをする人たちを見ていると、なんとも言えぬ感慨があります。


さてさてそんな私の個人的な感慨はおいておいて、そういった行為がどのようにして社会的に影響を及ぼすのか、という点について、少なからず理解しておく必要はあるかと思いいます。


まず当然ですが、駆け込み需要は、未来の需要を食いつぶします。言い換えると、供給側の心理としては、未来に投資しようとするマインドが減少します。


同様に、買い控えも同じ原理で未来への投資マインドが減少します。



当然、供給側の投資が減少すると、連動して未来の総需要が減少します。



そうなれば、そこで働く人間の給与もいずれ下がり、余計に総需要は減ります。



これが繰り返されたのがデフレなのですが、まさに増税はデフレマインドそのものなのです。


しかしここで大事なのは、今回の増税に関しては、あくまでデフレマインド=デフレ心理なのであって、心理さえ改善できれば、デフレになる可能性は低いということです。

(デフレ=貨幣現象とするリフレの方もいらっしゃいますが、現状、金融緩和をしていることからこれはあたらない)



そう考えたとき、私たちは自らの短期的な利益を求めるがあまり、長期的には自分で自分の首を絞めている、ということに気がつくはずです。


いわゆる、今私たちはまさに、「時間軸というものを想像する力」が問われているのではないか、と私は考えています。



「社会とは、裏切り者が少なければ少ないほど、その利益を毀損せずに済む」、というオルテガの論理は、ここでも当てはまる訳ですが、逆に、裏切り者が多ければ多いほど、社会の利益は毀損され、将来的には自らの利益も毀損するということを踏まえた上で、自らの行動を顧みていくべきではないでしょうか。






正統性(レジティマシー)の重要性について


人間の生ということを考えた時、その生の存在が、どこから生じ、どこに帰結するのか、という点について、私たちは考察せざるを得ない。


なぜならば、私たちは神から突如として生まれたのではなく、両親から、またその両親はその両親から生まれたという連続性があって初めて、現在の生へと繋がっていくからである。


当然、それは未来へと繋がっていく訳で、現在が現在であり得る唯一の正統性は、過去、いわゆる歴史というものが前提となっている。


ただし、その歴史というものは、ある種の妄想とでも言えばよいのか、私たち現在に生きる者としては、現在の存在ではないのであり、それゆえに時に、その存在と重要性が曖昧となるのである。


しかしながら確かにその歴史は存在し(伝わっていないことも含め)、その歴史は言語というものを通じ、我々にその正統性を示していると言える。



また歴史同様に、言語というのは、言い換えると語源という形でその連続性というものを示しているのであって、歴史=言語=正統性とも言い換えられるのである。



私たちはその言語を用い、自らの表現としてだけでなく、歴史の一ページとしての役割というものを、意識無意識に関わらず、担っているわけである。



と同時に、私たちはそれを時に粗末に扱い、時にねつ造し、時に自分の都合に合わせ解釈しようとするものである。


しかしそれらの行為は、自らの正統性(レジティマシー)を自ら破棄する行為に他ならず、ある人の言葉を借りるのであれば、「正統性を失った民族に未来は無い」又は「歴史を忘れた民族に未来は無い」ということであり、それは国家、国民というマクロに限らず、我々個人の未来をも失うのである。



例えば革新などという言葉がある。革命的に新しい物を生む、という意味なのだろうが、先に記した通り、過去と現在と未来という連続性において、革新などというのは、極めて不自然な言葉のように思えてならないのである。



むしろそれらは正統性を無視し、あたかも自分たちがそれを新たに生んだがのごとく、自己満悦するのであって、言い換えると傲慢性と極めて視野が狭いということを、自ら露呈しているようなものであるが、どうやらそれが妙に世間ではウケるという側面も持っている。



私にはそれら世間の賛美が全く理解できないのだが、人間と言うのは、自らに懐疑的になり、自己改革を行うという行為を放棄し、象徴や仮想社会や、はたまた直接的関わりを持たないものに対し、その欲求を代替したがるという性質を持っているようである。


そうすることである種の精神的バランスを取っている、とも言えるのだろうが、それらは単なる現実逃避に他ならないのではないか。


仮に、仮想世界と現実世界を足したものを10とするのならば、人が現実社会を蔑ろにすればするほど、仮想世界の比率を高め、またその逆もあるということなのだろう。


言い換えれば現実社会に充実し、自らを懐疑し、改革せんとする意志を持って日常をすごすのであれば、仮想世界などは不要である。


またそのときに自らの存在たる所以に懐疑するのならば、それは過去を重視するという結果に落ち着くはずである。


それがまさに正統性であり、その正統性なくして、その存在を明確化できないのが、人間である、とも言えるのかもしれない。


しかしながら言語は表面的言葉遊びに終止し、歴史はただの教科書の一ページという表象となり、私たちの正統性は日々失われる一方であるように思えてならない。


それが齎すものが何であるのか、私は見たくもないのだが、多くの国民がそこに気がつかぬのならば、その病魔は確実に我々を蝕んでいくだろう。


新し物嫌い

私は基本的に、新しい物が嫌いだ。それは物に限らず、「新」とか「NEW」とか「革新」とかが付くもの全てが嫌いと言って良い。



いや、正確に言うと嫌いと言うより、かなり懐疑的に見ていると言った方が正しいかもしれない。



現に自分の身の回りの物(自分が選択したもの)を顧みても、一部の電化製品を除いて、全てが古いものだ。


ではなぜ新しいものが嫌いなのか、それは一つに「新しい」というだけで、色眼鏡がついてしまうことにある。



例えば新製品を見たとき、純粋にそのものの価値を見抜けるだけの客観的視点を持っている者がいかほど居るだろうか。



人は「新」というだけで、何となく新しいというイメージが先入観として入り、そのもの自体の本質的価値をあやふやにしてしまうものだ。



車などはその最たる例だろう。なぜか不思議と一番新しいものが一番格好良くみえてしまう。と同時に、次の新たな物が発売されれば、それまでの車は妙にダサく見えてしまう。


あれほど、そのときはカッコいいと思い込んだものが、次の新車が出た途端にそう風に感じてしまうわけだ。


そこから見える物は、「新」は「新」で無くなった地点でその価値を失うとも言い換えられる(思い込みが消える)


そう考えると、物の本質的価値という観点からして、新しいは「無いに等しい」と断言せざるを得ない。



もちろん、中にはマニアが居て、それでも好きだと言うかもしれない。しかし、ほとんどの人たちはそうは言わず、ただ単に新しいものに群がり、またそれを繰り返しているだけなのだ。



経済を否定する訳ではないが、これほど不毛な循環は無いのではないか、と私は思う。




次に新しいものの問題点は、過去から受け継いだ価値というものに「新」を付ける事であたかも別の何か価値を生んでいるという錯覚を起こさせているという点だ。



しかしながら世の中というのは、そんなに多くの「新」例えばイノベーションなどは起きていない。多くの「新」は、所詮、過去から受け継いだもののデフォルメにすぎないのだ。


そう考えた時、なぜ過去から受け継いだものが、その形態のままではいけないのか、という点について、少なからず私たちは考慮しなければならないのだが、その考察なくして、デフォルメされたものを無条件で賞賛するという行為は、私から見れば、単なる思考停止にしか映らないのである。



当然それは「革新、改革」であったり「変化」であったりも同じ事が言えている。



なぜ、変える必要があるのか、なぜ新しくなる必要があったのか、そこをまずは考察すべきであって、無条件の変化願望など、私から見れば「現状に満足がいかない子供の駄々」と同等である。


このように考えた時、「新」という物が「真の新」であるか否か、ということを懐疑的に見た上で、それがただ単に、広告や宣伝の材料であったりすることを見抜く力というものが、現代人には極めて重要になるのではないか、と私は考えている。



きっとそれは保守、という概念に繋がっていくのだと思うが、過去から受け継いだ物を、きちっと守っていく、という本質的価値的概念というものを私たちは忘れてはいけないのだろうと思う。