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親子のジレンマ

社会の構成や国家の構成というマクロを考える上で、その根底となる家族間の関係性というものを真剣に考えざるをえなくなる。


まず健全な社会というものはどういった物か、私なりの答えは、より多くの協力者が集合体を作ることであると定義している。



例えば、私利私欲の為に、みんなの協力行動を無視し、自己中心的な行動に走れば、その行動において社会は何らかの新たな対応を協力して行わなければならなくなる。またその人数が増えれば増えるほど、社会は混乱し、行き着く所は社会の瓦解となるわけである。


その良い例が犯罪である。犯罪と言う裏切り行為によって、社会はそれを取り締まる警察という組織の運営に金を出さなければならなくなる。



本来、裏切り者が誰一人もいなければ、そういった警察も、犯罪者を収監する刑務所も不要であり、それは社会に対する裏切り者が存在する故に、必要となった金であるわけだ。



もちろん、その社会の規模が大きくなればなるほど、裏切り者は必ず存在し、それに対して対処する必要性はより高くなるのは致し方ないことではある。



しかしながら、それが家族であったり、小さなコニュニティーであった場合、そういった裏切り行為に対処する経費によって、そのコニュニティーに参加する協力者達の利益を著しく毀損させ、更なる裏切りを生むという悪循環を生みかねないのである。



言い換えると、その組織が小さくなればなるほど、その裏切りによる被害は甚大になるというわけだ。



このように考えた時、やはり家族というものがいかにその関係性において協力的であり、また裏切りのないことが、その家族全体の利益に繋がっていくかということわかる。



しかしながら、そもそも協力というのは、自己利益を少なからず制約させるものであることは事実である。



例えば子育てや親の介護をすれば必ず自己利益(己の自由な時間)を制約せざるをえないし、金銭的負担もせざるを得ないわけだ。



逆に、子育てを放棄し、自分の好きなように働き、それによって得た所得を好きなものに使えば、それは確実に前者よりも自己利益が大きくなるだろう。



言い換えると、協力よりも裏切りの方が、一見、自己利益が大きいことになる。




しかしその自己利益に、時間軸というものを取り入れたらどうなるだろうか。




所謂、長期的に蓄積された利益という観点を持ち込むわけだ。




そうすると、協力することは一時的には自己利益を毀損するものの、それによって自分の老後に子供が介護負担してくれたり、また健全で優秀な子供であれば金銭的負担もしてくれるかもしれない。



逆に裏切り行為は、一時的な自己利益は上がる物の、その裏切り行為によって自分の老後に対し、一切の協力が得られず、それによって長期的には多大なる負担を強いられる事に繋がるであろう。



このように考えた時、親子間における相互の協力関係というのは、その瞬間というよりも、時間軸のズレというものをまず理解することから始めなければならない。



ではその時間軸を親の立場、子の立場、双方から考えてみたいと思う。


まず親の立場からすれば、子育ては間違いなくその子供が成長するにあたっての協力である。またその子供が成長し、更なる子供(孫)を産めば、その協力度合いは低くなるものの、同じように協力することになる(裏を返せば自己制約が続く)


一方、子の立場からすると、まずは自立するまでは親の協力は不可欠であり、子自身はその親に対し、精神的協力以外は、なかなかできることはない。



またその子が子を産んだ後も同様に、たとえ親の協力があったとしても、自分が親に協力することは、その相互の協力関係の比率からしてみても低いであろう。


しかし親が老いていき、自立が困難になっていくにしたがい、その協力関係は逆転し、場合によってはそれまでの親の協力以上に、子は親に協力しなければならなくなる。


では、そのような協力関係において、親、子が裏切り行為(又は非協力)をした場合はどうなるだろうか。



例えば親が育児を放棄する、又は孫の世話を放棄する、といった場合、子はその親の裏切り行為の報復として一切の介護を放棄するであろう。


また逆に、それまで親の協力があったにも関わらず、親の介護を子が放棄すれば、それもまた自分の子によって報復されるのである。


結果、時間軸において、どこでの裏切り(又は非協力)が起きても、長期的には双方の自己利益を著しく毀損するのである。




当然、このことを互いに理解しているのであれば、良好な親子関係を長期的に継続し、互いに自己利益を得る事ができるわけであるが、それは先に述べたように一時的な自己利益が協力よりも裏切り(又は非協力)の方が上回ると言う問題が立ちはだかり、それを克服するには想像力をもってするほか方法はないのである。



そしてこのような親子間の協力関係を基軸とし、地域、国家というマクロへと繋がっていくわけだが、本質的には、今述べたことは、マクロでも一致しているわけである。


これを社会のジレンマなどと表現する場合があるが、まさに社会のジレンマの原点は家族、とりわけ親子のジレンマから生じているのではないか、と私は推測し、その関係性をいかに良好に保つか、という点において留意せざるをえなくなったということを私の私的状況(環境)において指摘するのである。







全体主義と政治の混沌


政治、とりわけ民主主義政治について考えれば考えるほど、「全体主義」に行き着いてしまう今日この頃の私。



藤井聡先生は、その社会の混沌とともに生まれる全体主義を皮肉を込め、「イデオロギーの浸透というプロパガンダとそれを完遂させるテロル!」(正確には、アンナ・アーレント)と言っておられました。


しかしながら全体主義というものをすべて一律で考えてよいものなのだろうか?というのが、私の抱いた全体主義への疑念であり、その疑念を解くために、私は今回、様々な視点から考察するにあたった。



まず手始めに、全体主義を、利己的な全体主義と、利他的な全体主義に分け、考えることにした。



これは、マクロミクロの合成の誤謬の問題であったり、主観と客観というものであったりを同列で見ることを避けるためである。



さて、まずは利己的な全体主義だが、ある個人の自己主張に対し、善と悪を明確化し、その主張(イデオロギー)の正当性をプロパガンダという形で浸透させ、それをテロルという形(ときに戦争)で完遂する、まさにアンナ・アーレントの言うままの、全体主義そのものの本質であることは、日本で現在行われている、脱原発活動や平和憲法維持活動などを見れば明白である。


では、なぜこれを私は利己的と断言するに至ったか、と言えば、それは国家(国民)というマクロの利益に相反するものであり、その国家というものは、国民の家であり、その自らの家を破壊する行為に他ならないからである(その国家(政府)が無能で国益を損ねる場合は別だが)


これはときに国境を超え、他国の侵略(破壊)などにも同様な手段が取られ(例えばパールハーバーや、イラク戦争)、そのプロパガンダによって全体主義は一気に大規模なテロルへと形を変えてきたのである。



これは当然、一部の利己、利益によるもので、恣意的に操作された(プロパガンダ)結果に生まれた事象と言わざるを得ないのだ。




それに対し、利他的な全体主義とはどういったものなのだろうか。これはその個人の利己利益ではなく、他者(親族や国家などを含め)のためという前提において、その個人が主張(イデオロギー)を完遂しようとするものである。


これは例え恣意的なものが働いていたとしても、その個人の根幹にあるものは、あくまで利他であるという意味において、利己的な全体主義とは一線を画すのではないか、と私は当初考えたのである。



例えば、神風特攻隊というものが、果たして利己的な全体主義において行われたのか、ということについて、私は疑念を抱いたからである。


当然、そこに私的な感傷が無いとは言わない。同じ日本人の、そして先祖の行為を正当化したいという私の思いが介在しているのは事実なのだ。



しかしながら、それと同時に、それら利他的な個人の思いをプロパガンダという形で一部の権力者が利用していたのではないか、という疑念もまた生じてしまうのだ。



また国家間においては、一方は正義、一方は悪という状況が起きてしまう。



日本にとって、先の戦争は、「善であり、諸悪の根源の排除」であったのだろうが、アメリカからしてみれば、「プロパガンダによって日本国民を洗脳し、その完遂としてのテロル」でしかなかったというわけだ。



こうみると、利他と利己というのは、実は全体主義には必ずその両方が混在し、また実行する側とされる側で真逆の結果を招くのである。




こうしたとき、私はやはり、全体主義には、利他も利己もなく、その本質はまぎれも無く、プロパガンダとテロルを生むと結論づけざるを得なくなった。




もちろん、私の感情的には、神風特攻隊とそれを応援していた日本国民を利己の全体主義と位置づけることはしたくはない。



しかしながら、その本質というものは、どんな善であろうとも、どんな悪であろうとも、変わりはなく、その善悪を誰かしらの意図によって決められ、その他大勢がそのプロパガンダによって思考停止してしまうこと自体に、全体主義の恐ろしさを感じるのである。



このように考えると、全体主義の本質と、表象とは別次元であると同時に、やはり根幹は一緒であると言う事になる。




と同時に、そういった全体主義を避けるためには何が必要なのか、というものもしっかり考えていかなければならない。



もちろん、個々人がしっかり正しい情報と分析によって自らの答えを明確に見いだすことと同時に、それらの考えについて必ず1人ディベートできるような「可能性の肯定」をしなければならない。



しかしながら現実問題として、それを民主主義に繋げられるほどのマジョリティーにするのは困難なことである。



言い換えると、それは理想論であって、非現実的であるということだ。



では、現実的にはどうしたら良いのか。ここで一つの可能性として教育と多様性の認可ということが出て来るのではないだろうか。



教育は文字通り、一人一人の思考能力の向上である。そして多様性の認可は、小選挙区制度の廃止である。



現在の小選挙区制度の最大なるデメリットは、一位が10万票、二位が9万9千票でも、一位の民意しか政治に生かせないことである。言い換えると、多様性を無視できる選挙制度といえるだろう。



もちろん、メリットとしては決められる政治であったり、スピード感であったりはあると思う。しかし同時に、そのデメリットがあまりにも左右上下に振りすぎることから、私は民主主義の危うさを感じ、また全体主義へと走る基盤になるとすら感じてしまうのだ。



それを止められる手段は、まさに教育と選挙制度を変える事しかないだろうと私は思うのだが、残念ながら、その両方とも現在は叶っていない。




おそらく政治の混沌、民主主義の混沌、そして全体主義は、今後も続いていくだろう。



アベノミクスが成功する唯一の道



現在、アベノミクスが直面する大きな問題は二つ。そのどちらもアベノミクスにとって致命傷となる問題です。



一つは言うまでもなく、消費税増税。これは強制インフレなので、需要の拡大云々、否応無しにも物価が上がります。当然、そうなればデフレ圧力が掛かりますから、インフレターゲット2%を目指すアベノミクスとしては、逆行政策と言えるでしょう。



それを避けるためには、財政出動&金融緩和が絶対不可欠でありますが、残念ながら、財政出動は極度の供給不足によって、大規模公共事業などが行えず、今年度はむしろ削減の方向へと向いてしまっています。



そうなると、頼みの綱は金融緩和となるのですが、これもまた円安によって物価のみが上昇し、給与が変わらない、もしくは下がるという、いわゆるスタグフレーションへの流れを生むもので、過度に金融緩和のみに頼る政策は危険だと思われます。



さらに金融緩和のみの政策は、その他の政策でデフレ圧力がかかっていると、当然、設備投資先が無くなってしまい、金融市場のみにその資金が流れ、ある種のバブルを生む可能性すらあるでしょう。



結果、物価が上がり、給与が平行又は下がり、金融市場だけがバブル化するわけです。



そうなると、現段階でやれる政策は何か?



まず第一に、即時原発再稼働をしなければなりません。



もちろん、原発を再稼働させたところで、スタグフレーションの流れを健全なインフレへと戻すことが出来るとは言いませんが、少なからず、消費税増税&財政出動の縮小+金融緩和&原発停止という完全なるスタグフレーションの流れを現段階では唯一反することができる政策です。




しかし、もし、それが民主主義的に危ういとなれば、アベノミクスは危機的状況に陥り、また金融市場に金あまり現象を生み、バブル化した経済は脆さを露呈することになるでしょう。




また、原発を動かしても一時しのぎの時間稼ぎでしかありません。当然、その他の問題が解決出来なければ、意味が無いのです。


それにはまず、土建屋を含めた供給側の安定供給(競争入札の見直しや談合)を中長期的に行っていく必要があります。



また成長戦略はあってないような物ですが、もしある程度の効果が生まれるとしても数年後先の話ですが、長い目でみてやるべき政策は実行していくべきでしょう。



さらに、自国のエネルギーであるメタンハイドレートの開発も急がなければなりません(ただ石油メジャーなどの諸外国の抵抗はそれは凄まじいものになることが予測されますが)



このような難しい問題全てをクリアしなければ、アベノミクスの成功はないのではないか、というのが拙者の推測で、なんとしてもそういったものをクリアし、強い日本を取り戻してほしいものです。