全体主義と政治の混沌 | ひより

全体主義と政治の混沌


政治、とりわけ民主主義政治について考えれば考えるほど、「全体主義」に行き着いてしまう今日この頃の私。



藤井聡先生は、その社会の混沌とともに生まれる全体主義を皮肉を込め、「イデオロギーの浸透というプロパガンダとそれを完遂させるテロル!」(正確には、アンナ・アーレント)と言っておられました。


しかしながら全体主義というものをすべて一律で考えてよいものなのだろうか?というのが、私の抱いた全体主義への疑念であり、その疑念を解くために、私は今回、様々な視点から考察するにあたった。



まず手始めに、全体主義を、利己的な全体主義と、利他的な全体主義に分け、考えることにした。



これは、マクロミクロの合成の誤謬の問題であったり、主観と客観というものであったりを同列で見ることを避けるためである。



さて、まずは利己的な全体主義だが、ある個人の自己主張に対し、善と悪を明確化し、その主張(イデオロギー)の正当性をプロパガンダという形で浸透させ、それをテロルという形(ときに戦争)で完遂する、まさにアンナ・アーレントの言うままの、全体主義そのものの本質であることは、日本で現在行われている、脱原発活動や平和憲法維持活動などを見れば明白である。


では、なぜこれを私は利己的と断言するに至ったか、と言えば、それは国家(国民)というマクロの利益に相反するものであり、その国家というものは、国民の家であり、その自らの家を破壊する行為に他ならないからである(その国家(政府)が無能で国益を損ねる場合は別だが)


これはときに国境を超え、他国の侵略(破壊)などにも同様な手段が取られ(例えばパールハーバーや、イラク戦争)、そのプロパガンダによって全体主義は一気に大規模なテロルへと形を変えてきたのである。



これは当然、一部の利己、利益によるもので、恣意的に操作された(プロパガンダ)結果に生まれた事象と言わざるを得ないのだ。




それに対し、利他的な全体主義とはどういったものなのだろうか。これはその個人の利己利益ではなく、他者(親族や国家などを含め)のためという前提において、その個人が主張(イデオロギー)を完遂しようとするものである。


これは例え恣意的なものが働いていたとしても、その個人の根幹にあるものは、あくまで利他であるという意味において、利己的な全体主義とは一線を画すのではないか、と私は当初考えたのである。



例えば、神風特攻隊というものが、果たして利己的な全体主義において行われたのか、ということについて、私は疑念を抱いたからである。


当然、そこに私的な感傷が無いとは言わない。同じ日本人の、そして先祖の行為を正当化したいという私の思いが介在しているのは事実なのだ。



しかしながら、それと同時に、それら利他的な個人の思いをプロパガンダという形で一部の権力者が利用していたのではないか、という疑念もまた生じてしまうのだ。



また国家間においては、一方は正義、一方は悪という状況が起きてしまう。



日本にとって、先の戦争は、「善であり、諸悪の根源の排除」であったのだろうが、アメリカからしてみれば、「プロパガンダによって日本国民を洗脳し、その完遂としてのテロル」でしかなかったというわけだ。



こうみると、利他と利己というのは、実は全体主義には必ずその両方が混在し、また実行する側とされる側で真逆の結果を招くのである。




こうしたとき、私はやはり、全体主義には、利他も利己もなく、その本質はまぎれも無く、プロパガンダとテロルを生むと結論づけざるを得なくなった。




もちろん、私の感情的には、神風特攻隊とそれを応援していた日本国民を利己の全体主義と位置づけることはしたくはない。



しかしながら、その本質というものは、どんな善であろうとも、どんな悪であろうとも、変わりはなく、その善悪を誰かしらの意図によって決められ、その他大勢がそのプロパガンダによって思考停止してしまうこと自体に、全体主義の恐ろしさを感じるのである。



このように考えると、全体主義の本質と、表象とは別次元であると同時に、やはり根幹は一緒であると言う事になる。




と同時に、そういった全体主義を避けるためには何が必要なのか、というものもしっかり考えていかなければならない。



もちろん、個々人がしっかり正しい情報と分析によって自らの答えを明確に見いだすことと同時に、それらの考えについて必ず1人ディベートできるような「可能性の肯定」をしなければならない。



しかしながら現実問題として、それを民主主義に繋げられるほどのマジョリティーにするのは困難なことである。



言い換えると、それは理想論であって、非現実的であるということだ。



では、現実的にはどうしたら良いのか。ここで一つの可能性として教育と多様性の認可ということが出て来るのではないだろうか。



教育は文字通り、一人一人の思考能力の向上である。そして多様性の認可は、小選挙区制度の廃止である。



現在の小選挙区制度の最大なるデメリットは、一位が10万票、二位が9万9千票でも、一位の民意しか政治に生かせないことである。言い換えると、多様性を無視できる選挙制度といえるだろう。



もちろん、メリットとしては決められる政治であったり、スピード感であったりはあると思う。しかし同時に、そのデメリットがあまりにも左右上下に振りすぎることから、私は民主主義の危うさを感じ、また全体主義へと走る基盤になるとすら感じてしまうのだ。



それを止められる手段は、まさに教育と選挙制度を変える事しかないだろうと私は思うのだが、残念ながら、その両方とも現在は叶っていない。




おそらく政治の混沌、民主主義の混沌、そして全体主義は、今後も続いていくだろう。