心理と環境について
昨今、フィリピンのレイテ島で起きたスーパー台風による災害によって、レイテ島の島民たちは、略奪、強姦、強盗という二次的かつ人工的災害に見舞われた。
そのことについて、多くの人々は、日本人とは違い、彼らに倫理観、道徳観が欠落していたからではないか、と思っているに違いない。
その根拠は先の東日本大震災における、東北の方々の毅然とした対応を目の当たりにしたことからくるのだろう。
しかしながら、それらは本当に倫理観や道徳観によって左右されたものなのだろうか。
もちろん、そういった側面があったことは否定しない。それでもそれ以前に、彼らと私たち日本人の間に決定的違いがあったことを忘れてはならない。
それは環境である。
環境と言っても、自然環境や生活環境やインフラに至まで、その環境は多岐に渡るが、ここで重要だったのが、日本がこれまで築き上げてきた生活環境というハード面と、それを支える経済環境、政府が主導する安全保障環境、政策、法律というソフト面への信頼だ。
残念ながらレイテ島の方々には、それらは正直、充実していたとは言えないだろう。むしろ、明日の生活すら見えないような生活をしていた方々が多く、また政府による安全保障環境も、劣悪で信頼に値しなかったと言わざるを得ない。
明日の生活にも困窮し、政府も助けに来るという保障が無い中、彼らはどうやってあの大災害に立ち向かえというのだろうか。当然、生きるためにありとあらゆる手段を取らざるを得なくなったわけだ。
それが略奪行為という形に反映されたに過ぎないというわけだ。
一方、東北では生活基盤がしっかりとあり、また政府の安全保障環境に信頼があったが故に、数日も耐えれば助けが来る、援助物資が届くという心理的安心があったからこそ、暴動、略奪行為がほとんど見られなかったというわけだ。
仮に東北でも、そういった環境が無ければ、むしろ、戦後の日本のような劣悪な環境であったとするならば、日本人とはいえ、彼らは生き抜くために略奪をいとわなかったであろう。
これは言い換えると環境というものが、いかに市民、国民の心理に多大な影響を及ぼしているか、ということでもある。
これは解釈学的循環というもので、双方が相関関係にあることを意味し、環境が良ければ心理も良くなり、また逆に心理が良ければ環境もまた良くなり、またその裏返しもあるというわけだ。
これがマクロ的に起きたのがレイテ島と東北の大震災だったわけだが、ミクロ的にそれらを考えた場合、我々にとって住環境というものが非常に大事な意味を持って来ることになるであろう。
なぜならば、人は間接的な環境(例えば電気が誰の手によってどのように発電されているか、ということについて人々が想像して電気を毎日使っているわけではない)に対し、実感は薄く、直接的環境に関心と想像を働かせられるからである。
その究極が住環境であり、そこを充実させることこそ、精神、心理の安寧へと繋がるというわけだ。
わかりやすいたとえ話をするのであれば、ゴミにまみれた劣悪な環境で生きている人と、整然と清潔な環境で生きている人では、当然、心のゆとりは大きく異なってくる訳である。
当然、その先には地域があり、国家があるのだが、その環境も、ソフト面(制度や法)とハード面(インフラなど)が充実しているからこそ、そこに住む国民の精神、心理に安寧があり、マクロとミクロの間にもそういった相関関係が見られることもまた事実である。
このように、心理と環境は相互に密接に絡み合いながら循環し、人を成長させていっていることは明白であろう。
少子化の原因とは
一般的には、少子化の原因とされてるのは、女性が働きながら子育てをする環境が希薄だとか、はたまたそれに関連して経済的に余裕が無いだとか、さらにその反対側の立場として、女性の社会進出が進みすぎた結果に、出産高齢化が進んだ、とかそういったことが根本的原因のようにされている。
もちろん、それらの理由が全て当てはまらない、とは言わない。特に私が以前から指摘しているように、女性の社会進出による、出産の高齢化という問題は、経済云々の重要なポイントであることは間違いない。
しかし今回はそういった視点を少しずらし、社会学的にそれらを検証していくと、都市と地方という関係性と少子化が緻密に絡み合っているのではないか、という問題が浮き彫りになっていく。
例えば人口が増えている発展途上国の中でも、その主要都市では少子化が進んでいたり、また停滞したりしているという現象が見られる。
これは人口が密集した都市部の環境においては、子育てが非常に不向きであり、またその環境ゆえに、子供を多く産もうという心理状態にならないのではないか、ということだ。
逆に地方都市においては、その逆の現象が起き、自然が豊かな環境ほど、少子化にはなっていないのである。
では全体的に少子化が進んでいる日本においてはどうだろうか。

これは都道府県別の出生率だが、明らかに都市部が低く、逆に地方、特に自然の多い地域ほど高いことがわかる。
もちろん、都市部は娯楽施設などが多く、また物価が高い(経済的問題が生じやすい)という問題も絡んでいるがゆえに、一概に自然環境が少子化と関連があるとは断言出来ない部分もあるが、少なくとも環境が与える影響というものは、確実にあるとは言い切れるはずである。
このように考えた場合、いかに環境というものが、国民の意識や感覚、心理に多大なる影響を与えているか、ということがわかると思う。
例えばこれは少子化とは直接の関係性はないが、ゴミ屋敷のような場所で生活する者と、整然とした清潔な環境で育つ人間とは明確にその心理状況は異なるのである。
言い換えると心理的に余裕があるない、に環境は大きく関係しているのである。
当然、精神的ゆとりがあれば、子育てをする、子供を産む、という点においても有効で、それがしいては少子化とは逆行するわけである。
しかしながら現在の日本を顧みると、地方分権や市場原理主義、合理主義によって、地方が切り離され、そこで生計を立てられなくなった者達が都市部へ流れ込み、都市部はより人口過密状態へと陥り、結果、さらに子供を産み育てるという環境から遠ざかっていくのである。
こういった現象に歯止めをかけることこそが、実は少子化を食い止める上で、上記に記したことと同等か、またはそれ以上に大事なことであると私は考えるのである。
もちろん、それらの理由が全て当てはまらない、とは言わない。特に私が以前から指摘しているように、女性の社会進出による、出産の高齢化という問題は、経済云々の重要なポイントであることは間違いない。
しかし今回はそういった視点を少しずらし、社会学的にそれらを検証していくと、都市と地方という関係性と少子化が緻密に絡み合っているのではないか、という問題が浮き彫りになっていく。
例えば人口が増えている発展途上国の中でも、その主要都市では少子化が進んでいたり、また停滞したりしているという現象が見られる。
これは人口が密集した都市部の環境においては、子育てが非常に不向きであり、またその環境ゆえに、子供を多く産もうという心理状態にならないのではないか、ということだ。
逆に地方都市においては、その逆の現象が起き、自然が豊かな環境ほど、少子化にはなっていないのである。
では全体的に少子化が進んでいる日本においてはどうだろうか。

これは都道府県別の出生率だが、明らかに都市部が低く、逆に地方、特に自然の多い地域ほど高いことがわかる。
もちろん、都市部は娯楽施設などが多く、また物価が高い(経済的問題が生じやすい)という問題も絡んでいるがゆえに、一概に自然環境が少子化と関連があるとは断言出来ない部分もあるが、少なくとも環境が与える影響というものは、確実にあるとは言い切れるはずである。
このように考えた場合、いかに環境というものが、国民の意識や感覚、心理に多大なる影響を与えているか、ということがわかると思う。
例えばこれは少子化とは直接の関係性はないが、ゴミ屋敷のような場所で生活する者と、整然とした清潔な環境で育つ人間とは明確にその心理状況は異なるのである。
言い換えると心理的に余裕があるない、に環境は大きく関係しているのである。
当然、精神的ゆとりがあれば、子育てをする、子供を産む、という点においても有効で、それがしいては少子化とは逆行するわけである。
しかしながら現在の日本を顧みると、地方分権や市場原理主義、合理主義によって、地方が切り離され、そこで生計を立てられなくなった者達が都市部へ流れ込み、都市部はより人口過密状態へと陥り、結果、さらに子供を産み育てるという環境から遠ざかっていくのである。
こういった現象に歯止めをかけることこそが、実は少子化を食い止める上で、上記に記したことと同等か、またはそれ以上に大事なことであると私は考えるのである。
大衆人vs政府
大衆人の定義とは何か、オルテガによると、自己閉鎖性と傲慢性を持った、私利私欲(又は感情)に優先順位を置き、公を軽視、または敵対、または無関心といった態度を取る人々というわけだが、そういった大衆人がなぜ、公を軽視し、または敵視し、無関心になるのか、という点について、京都大学の藤井聡教授が「大衆社会の処方箋」という著書の中で明らかにしている。
さて、その内容について稚拙ではあるが私なりの見解を交え、紹介していきたいと思う。
まず、先に出た大衆人の特徴とも取れる傲慢性と自己閉鎖性だが、傲慢性は自分の意見、好みに社会がそぐわない場合、選挙などのルールと段階を踏まず、直接的にその主張を行使しようとする(裏切り)傾向にあり、対して自己閉鎖性はその内向きな思想によって、他者に興味を持たず、自分の世界観に閉じこもり、当然政治や社会には協力しない(非協力)と言った傾向を持つ。
一見、相反するように見えても、この二つの特徴の共通点は、「過去の軽視」、「公の軽視」、「現在の否定」、「利己的」という意味においてまったく重なるのである。
例えば公共事業に対する人々の理解と反応はどうだろうか。
ある程度の想像力と客観性(公衆度)を持っている者であれば、道路などのインフラは、過去に生きた国民(又は現在も生きている)が払った税金によって構築され、そのインフラの恩恵を現在得ている事は明白に理解できるであろう。それ故に、自分もまた、未来(未来では過去)に対し、その義務を負うのは当然と考えるのである。
一方、大衆人は、その恩恵を現在得ているにも関わらず、未来に対する投資に対し、消極的(自己閉鎖性)、又は否定、批判的(傲慢性)な立場を取る。
言い換えると、彼らは自分は損をしたくないという利己主義者であって、それは今まで先人が継続してきた過去の否定となり、またその過去からの恩恵を預かっている現在の自分の立場すらも否定しているという矛盾を抱えている事に気がつかないのである。
ではなぜ彼ら大衆人がそのような傾向に陥ってしまったか、という根本的問題についてオルテガは、
「新しい世界は、ほとんど無限の可能性をもった安全で、しかもそこでは人は誰にも隷属しないような世界のようにみえるのである」と論じ、
それによって、「甘やかされた子供」「慢心しきったお坊ちゃん」が生まれたと皮肉を込め、喩えている。
現代社会の利便性、科学の進歩などによる生活の向上などによって、人々の生に対する困難、苦悩が排除され、人々は豊かな暮らしに安住、慢心し、その結果、怠惰な「生」に支配され、本来人間が持ち合わせていた協力意識、共同意識、公衆性(昔は困難は一人では立ち向かえなかったが故に、生きるために共同体を形成し、協力するという意識が自然と皆にあった)が削がれていった結果、個々人の疎外とコミュニティーの崩壊を齎し、甘やかされた子供が生まれたというわけである。
そしてその甘やかされた子供は、自己中心的に己の欲求(又は一時的感情)を満たそうと、過去から積み上げてきた合意形成(議会制民主主義やモラールなど)を無視し、直接的に行政に自らの主張を通そうと尽力し(デモ、テロなど)、さらにはそれが上手く行かないとなると、政府や相手を露骨に批判し、まるで無能だと言わんばかりの態度やプロパガンダを行うのである。
もちろん、彼らにとって自らの利益(又はイデオロギー)が最優先であるが故に、公(政府)が公(マクロ)として正しいことをすればするほど逆に反発を強めるのである。
当然、現代社会のジレンマ「協力」か「裏切り(非協力)」のいずれかを選択しなければならない状況化において、彼らはためらいもなく、裏切りを選ぶはずである。
もちろん、そういった裏切り者が増えれば増えるほど社会は不安定化し、最後は崩壊していくと前回も話してきたが、彼らこそ、その元凶であり、その大衆人を少しでも減らす事こそが、社会の安寧へと繋がっていくというわけである。
しかしながら現在のメディアや社会を観察していると、明らかにオルテガが指摘する大衆による専制政治という懸念にまさに当てはまっていると言えよう。
人々の多くは政治に無関心(投票率の低さや所謂、無党派層の増大)で、興味を持っているかと思えば、それは公の利益を無視した私利私欲の自己主張と、己の能力を過信した傲慢的な主張と批判である。
その結果、小泉フィーバーだ!政権交代だ!原発反対だ!と大衆の戯言に政治が右往左往し、公の利益を著しく毀損させている。
それはまさしく、「自己閉鎖性性」と「傲慢性」を持った大衆人という低俗が、我が国の多数派を占めてしまったということに他ならないのではないだろうか、と拙者は危機感を抱いている。
まだまだ自分の中でまとまりきらない部分もあるが、これ以上の長文は控える事にする。
さて、その内容について稚拙ではあるが私なりの見解を交え、紹介していきたいと思う。
まず、先に出た大衆人の特徴とも取れる傲慢性と自己閉鎖性だが、傲慢性は自分の意見、好みに社会がそぐわない場合、選挙などのルールと段階を踏まず、直接的にその主張を行使しようとする(裏切り)傾向にあり、対して自己閉鎖性はその内向きな思想によって、他者に興味を持たず、自分の世界観に閉じこもり、当然政治や社会には協力しない(非協力)と言った傾向を持つ。
一見、相反するように見えても、この二つの特徴の共通点は、「過去の軽視」、「公の軽視」、「現在の否定」、「利己的」という意味においてまったく重なるのである。
例えば公共事業に対する人々の理解と反応はどうだろうか。
ある程度の想像力と客観性(公衆度)を持っている者であれば、道路などのインフラは、過去に生きた国民(又は現在も生きている)が払った税金によって構築され、そのインフラの恩恵を現在得ている事は明白に理解できるであろう。それ故に、自分もまた、未来(未来では過去)に対し、その義務を負うのは当然と考えるのである。
一方、大衆人は、その恩恵を現在得ているにも関わらず、未来に対する投資に対し、消極的(自己閉鎖性)、又は否定、批判的(傲慢性)な立場を取る。
言い換えると、彼らは自分は損をしたくないという利己主義者であって、それは今まで先人が継続してきた過去の否定となり、またその過去からの恩恵を預かっている現在の自分の立場すらも否定しているという矛盾を抱えている事に気がつかないのである。
ではなぜ彼ら大衆人がそのような傾向に陥ってしまったか、という根本的問題についてオルテガは、
「新しい世界は、ほとんど無限の可能性をもった安全で、しかもそこでは人は誰にも隷属しないような世界のようにみえるのである」と論じ、
それによって、「甘やかされた子供」「慢心しきったお坊ちゃん」が生まれたと皮肉を込め、喩えている。
現代社会の利便性、科学の進歩などによる生活の向上などによって、人々の生に対する困難、苦悩が排除され、人々は豊かな暮らしに安住、慢心し、その結果、怠惰な「生」に支配され、本来人間が持ち合わせていた協力意識、共同意識、公衆性(昔は困難は一人では立ち向かえなかったが故に、生きるために共同体を形成し、協力するという意識が自然と皆にあった)が削がれていった結果、個々人の疎外とコミュニティーの崩壊を齎し、甘やかされた子供が生まれたというわけである。
そしてその甘やかされた子供は、自己中心的に己の欲求(又は一時的感情)を満たそうと、過去から積み上げてきた合意形成(議会制民主主義やモラールなど)を無視し、直接的に行政に自らの主張を通そうと尽力し(デモ、テロなど)、さらにはそれが上手く行かないとなると、政府や相手を露骨に批判し、まるで無能だと言わんばかりの態度やプロパガンダを行うのである。
もちろん、彼らにとって自らの利益(又はイデオロギー)が最優先であるが故に、公(政府)が公(マクロ)として正しいことをすればするほど逆に反発を強めるのである。
当然、現代社会のジレンマ「協力」か「裏切り(非協力)」のいずれかを選択しなければならない状況化において、彼らはためらいもなく、裏切りを選ぶはずである。
もちろん、そういった裏切り者が増えれば増えるほど社会は不安定化し、最後は崩壊していくと前回も話してきたが、彼らこそ、その元凶であり、その大衆人を少しでも減らす事こそが、社会の安寧へと繋がっていくというわけである。
しかしながら現在のメディアや社会を観察していると、明らかにオルテガが指摘する大衆による専制政治という懸念にまさに当てはまっていると言えよう。
人々の多くは政治に無関心(投票率の低さや所謂、無党派層の増大)で、興味を持っているかと思えば、それは公の利益を無視した私利私欲の自己主張と、己の能力を過信した傲慢的な主張と批判である。
その結果、小泉フィーバーだ!政権交代だ!原発反対だ!と大衆の戯言に政治が右往左往し、公の利益を著しく毀損させている。
それはまさしく、「自己閉鎖性性」と「傲慢性」を持った大衆人という低俗が、我が国の多数派を占めてしまったということに他ならないのではないだろうか、と拙者は危機感を抱いている。
まだまだ自分の中でまとまりきらない部分もあるが、これ以上の長文は控える事にする。