大人とは何かの研究
前回、大人とは何かについて、縦軸に時間軸、横軸に公私と図式を示したが、それを適菜収氏が示したような、ABCD層に分け、その形状を表してみた。
ABCD層の図式

これを基に私が作った図式を当てはめたものがこちら
A層の特徴

グラフが示すように、A層の特徴は、縦軸では現在、未来に突出する一方で、過去を軽視する傾向にある。
また横軸においては、グローバリズムに代表されるように、国家観が薄く、公への配慮が少ない傾向にあると同時に、自己における追求はかなり高い次元で行われている。
B層の特徴

中心部である大衆人そのものであるバランスを取りながらも、縦軸ではA層同様に、過去を軽視し、現在、未来に重きを置くが、A層とは違い、目先中心でその幅は極めて小さい。
また横軸に関しても、自己閉鎖性、傲慢性を持つ特徴から、当然公へそのベクトルが伸びる事は無く、また私に対しても、自己追求が低く弱くなる。
C層の特徴

4方向、全てにおいてバランスがいいとも言えるが、逆に考えれば、全てが連動しているということを明確に理解していることを示す一方で、大衆人をも内包しているということを示している。
D層の特徴

保守性が高いことから、過去、公へのベクトルが伸びる一方で、私に対する自己の追求をするだけの資質は弱く、また遠い未来を想像する力も弱いことから、未来軸、私軸の伸びが弱い傾向にある。
※縦軸、横軸において、その点を結び、面積、形状で示すことで、それらの特性、又は内包されたものを映し出すことができると筆者は考えている。
ABCD層の図式

これを基に私が作った図式を当てはめたものがこちら
A層の特徴

グラフが示すように、A層の特徴は、縦軸では現在、未来に突出する一方で、過去を軽視する傾向にある。
また横軸においては、グローバリズムに代表されるように、国家観が薄く、公への配慮が少ない傾向にあると同時に、自己における追求はかなり高い次元で行われている。
B層の特徴

中心部である大衆人そのものであるバランスを取りながらも、縦軸ではA層同様に、過去を軽視し、現在、未来に重きを置くが、A層とは違い、目先中心でその幅は極めて小さい。
また横軸に関しても、自己閉鎖性、傲慢性を持つ特徴から、当然公へそのベクトルが伸びる事は無く、また私に対しても、自己追求が低く弱くなる。
C層の特徴

4方向、全てにおいてバランスがいいとも言えるが、逆に考えれば、全てが連動しているということを明確に理解していることを示す一方で、大衆人をも内包しているということを示している。
D層の特徴

保守性が高いことから、過去、公へのベクトルが伸びる一方で、私に対する自己の追求をするだけの資質は弱く、また遠い未来を想像する力も弱いことから、未来軸、私軸の伸びが弱い傾向にある。
※縦軸、横軸において、その点を結び、面積、形状で示すことで、それらの特性、又は内包されたものを映し出すことができると筆者は考えている。
大人とは何かについて考える
大人とは何か、について考える時、相対的に「子供とは何か」についてまず定義しなければならない。
子供とは何か?
佐藤健志に言わせれば「キッチュ」であり、ニーチェ曰く「俗悪」であり、適菜収風に言えば「B層」となるだろうし、またオルテガ風に言えば、「大衆人」だ。
これをまとめるのならば、視野が狭く安直で、過去への敬意も無ければ、未来への想像力もない、また自己閉鎖性と傲慢性でもって、利己的であると表現できるだろう。

ここに、稚拙ながら私が図式を考えてみた。
縦軸が過去と未来、いわゆる時間軸であり、横軸が公私である。
そしてこの図の中心である「大衆人」が子供であると定義し、4方向にベクトルを向けてみた。
まず縦軸、時間軸の説明だが、過去というのは、現在の存在の正統性を証明する根拠(信憑性)であり、その過去(文化、伝統、歴史、出生、先祖)に対する理解、配慮、敬意こそが、現在の自分への理解と配慮と敬意である、ということだ。
そして未来はその過去の継承と存続に対する責任(義務)であり、個人においては子孫の繁栄と自らの死に対する覚悟と責任(義務)であり、また同時に、それらを想像しうる力である。
注釈(当然、未来は、現在と過去によって成り立ち、その連続性というものがある。中心から遠ざかるほど、その連続性が失われるという解釈がこの図式においてなされることは、私の考えとは真逆であって、むしろ、双方に遠ざかっていくことで、過去も未来も同時に深化しうるものだという解釈こそ、私が望む形である)
次に横軸であるが、わかりやすく公私という言葉を用いた。
簡単に説明すれば、中心が利己であり、公に向かえば利他、私に向かえば、生の存続であり、「自己の生に対する真剣さ」ということになる。
注釈(この場合の公私は、なにも公私を左右に分裂させようとするものではなく、むしろその逆であって、中心(大衆人)から両方向にベクトルが向かうことで成熟(非大衆人化)していく、という意味であり、言い換えると、双方に向かえば向かうほど、私は公に内包され、同化していくものであるという意味を持つものである。これは時間軸においての注釈と同じ意味合いである。またそもそも、人間は孤独(私)と私の存在を認知しうる社会(公)が混在するものであり、その意味においても、公私という横軸に意味があるのではないか、と私は考えるのである)
そしてこの縦軸(過去と未来)と横軸(公と私)とを結んだもの(内側の面積、形状)がその個人であると私は示したいわけで、その面積が広く(4方向に広がりを持つ)、またバランスが取れている人間ほど、大人(非大衆人)であり、尚かつ強靱性を持つ、と私は定義したのである。
まだまだ、この図式の整合性も説明も不十分であるだろうし、詰めも甘いのは重々承知した上で、私はあえて、皆様に、この4方向の視点というものを自己検証するにあたり、その機会を持って頂ければという思いで発表させていただいたことをご理解いただければと思う。
補足
あくまでその示された面積は、自らもその大衆性を(どれほど非大衆人であっても)内包しているということを示した上で、非大衆人はそれが点ではなく、面として認識しているということであるのだという考えである。
また、その4方向を結ぶことで、それらに連動性があるということを示したいのである。
子供とは何か?
佐藤健志に言わせれば「キッチュ」であり、ニーチェ曰く「俗悪」であり、適菜収風に言えば「B層」となるだろうし、またオルテガ風に言えば、「大衆人」だ。
これをまとめるのならば、視野が狭く安直で、過去への敬意も無ければ、未来への想像力もない、また自己閉鎖性と傲慢性でもって、利己的であると表現できるだろう。

ここに、稚拙ながら私が図式を考えてみた。
縦軸が過去と未来、いわゆる時間軸であり、横軸が公私である。
そしてこの図の中心である「大衆人」が子供であると定義し、4方向にベクトルを向けてみた。
まず縦軸、時間軸の説明だが、過去というのは、現在の存在の正統性を証明する根拠(信憑性)であり、その過去(文化、伝統、歴史、出生、先祖)に対する理解、配慮、敬意こそが、現在の自分への理解と配慮と敬意である、ということだ。
そして未来はその過去の継承と存続に対する責任(義務)であり、個人においては子孫の繁栄と自らの死に対する覚悟と責任(義務)であり、また同時に、それらを想像しうる力である。
注釈(当然、未来は、現在と過去によって成り立ち、その連続性というものがある。中心から遠ざかるほど、その連続性が失われるという解釈がこの図式においてなされることは、私の考えとは真逆であって、むしろ、双方に遠ざかっていくことで、過去も未来も同時に深化しうるものだという解釈こそ、私が望む形である)
次に横軸であるが、わかりやすく公私という言葉を用いた。
簡単に説明すれば、中心が利己であり、公に向かえば利他、私に向かえば、生の存続であり、「自己の生に対する真剣さ」ということになる。
注釈(この場合の公私は、なにも公私を左右に分裂させようとするものではなく、むしろその逆であって、中心(大衆人)から両方向にベクトルが向かうことで成熟(非大衆人化)していく、という意味であり、言い換えると、双方に向かえば向かうほど、私は公に内包され、同化していくものであるという意味を持つものである。これは時間軸においての注釈と同じ意味合いである。またそもそも、人間は孤独(私)と私の存在を認知しうる社会(公)が混在するものであり、その意味においても、公私という横軸に意味があるのではないか、と私は考えるのである)
そしてこの縦軸(過去と未来)と横軸(公と私)とを結んだもの(内側の面積、形状)がその個人であると私は示したいわけで、その面積が広く(4方向に広がりを持つ)、またバランスが取れている人間ほど、大人(非大衆人)であり、尚かつ強靱性を持つ、と私は定義したのである。
まだまだ、この図式の整合性も説明も不十分であるだろうし、詰めも甘いのは重々承知した上で、私はあえて、皆様に、この4方向の視点というものを自己検証するにあたり、その機会を持って頂ければという思いで発表させていただいたことをご理解いただければと思う。
補足
あくまでその示された面積は、自らもその大衆性を(どれほど非大衆人であっても)内包しているということを示した上で、非大衆人はそれが点ではなく、面として認識しているということであるのだという考えである。
また、その4方向を結ぶことで、それらに連動性があるということを示したいのである。
集団的自衛権を巡ってのおバカ論議
今朝のサンデーモーニングを見ていても、もう辟易するくらいの脳みそお花畑に、呆れる次第ですが、そもそも彼らの根底には、憲法9条絶対化があるように思えてならないんですよね。
よく考えてみればわかる事ですが、戦後、日本が戦争をしなかった理由は、なにも憲法9条があったからでは全くないんですね。
ざっくりと言いますが、世界的なパワーバランスの中で、アメリカという軍事強国に頼り、また利用された結果に、敵から攻められなかった、というだけに過ぎないわけです。
言い換えるとこれ、必然というには脆弱で、むしろ偶然だった、といった方がしっくりくるほどです。
そして、ここ最近では中国の軍事力が強大となり、それと合わせ、米ソの冷戦の終わりとともに、アメリカの軍事力が落ち、覇権国家としての地位が脆弱化しはじめているわけです。
そこに来て、日本はどうかと言えば、現憲法などによって、手足を縛られ、またアメリカの軍事に弱みを握られたまま。
さらにはサンデーモーニングのような戦後左翼の、もはや憲法9条絶対化という宗教じみた連中によって、集団的自衛権の行使すらもまともに出来ない状態。
こんなことをいつまで続けるのでしょうか?中国に攻められて、多くの国民が死んで、初めて気づくのでしょうか?
補足ですが、現憲法では自衛権が認められています。これは国連憲章に乗っ取って作られたという背景を考えれば、国連憲章では、自衛権として、個別、集団共に認めていますから、集団的自衛権の行使などというのは、憲法解釈の変更など本来は必要なかったんですよね。
しかしながら、過去の自民党政権下において、勝手に?自ら集団的自衛権は行使できない、といった解釈をしてしまったが故に、今回のような歪んだ論争になってしまったわけです。
ここは原点に立ち返り、まともな自衛権を行使できる国、そして他国に頼らなくても良い国、それを並行してやっていくべきではないでしょうか。
そういう意味においては、武器の輸出三原則が緩和されたことは、一つ評価されることではありますが。
よく考えてみればわかる事ですが、戦後、日本が戦争をしなかった理由は、なにも憲法9条があったからでは全くないんですね。
ざっくりと言いますが、世界的なパワーバランスの中で、アメリカという軍事強国に頼り、また利用された結果に、敵から攻められなかった、というだけに過ぎないわけです。
言い換えるとこれ、必然というには脆弱で、むしろ偶然だった、といった方がしっくりくるほどです。
そして、ここ最近では中国の軍事力が強大となり、それと合わせ、米ソの冷戦の終わりとともに、アメリカの軍事力が落ち、覇権国家としての地位が脆弱化しはじめているわけです。
そこに来て、日本はどうかと言えば、現憲法などによって、手足を縛られ、またアメリカの軍事に弱みを握られたまま。
さらにはサンデーモーニングのような戦後左翼の、もはや憲法9条絶対化という宗教じみた連中によって、集団的自衛権の行使すらもまともに出来ない状態。
こんなことをいつまで続けるのでしょうか?中国に攻められて、多くの国民が死んで、初めて気づくのでしょうか?
補足ですが、現憲法では自衛権が認められています。これは国連憲章に乗っ取って作られたという背景を考えれば、国連憲章では、自衛権として、個別、集団共に認めていますから、集団的自衛権の行使などというのは、憲法解釈の変更など本来は必要なかったんですよね。
しかしながら、過去の自民党政権下において、勝手に?自ら集団的自衛権は行使できない、といった解釈をしてしまったが故に、今回のような歪んだ論争になってしまったわけです。
ここは原点に立ち返り、まともな自衛権を行使できる国、そして他国に頼らなくても良い国、それを並行してやっていくべきではないでしょうか。
そういう意味においては、武器の輸出三原則が緩和されたことは、一つ評価されることではありますが。