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林真須美は無罪!?

初めに、私は林真須美とは何の関係もない人間であり、感情的に彼女を擁護するつもりは毛頭ない。



しかしながら、客観的事実に基づく検証をしていくうちに、明らかに彼女を死刑(有罪)にするには、無理があるという結論に至った。



言い換えれば、カレー毒物混入事件の犯人、林真須美は無罪だということだ。



では、その根拠を検察の状況証拠とその反証によって説明していく。


検察状況証拠1)カレーに混入されていた亜ヒ酸と林真須美の自宅の流し下にあった亜ヒ酸が同一であった。


反証)近年、京都大学の河合教授によって再検査された結果、林家にあった亜ヒ酸とカレー鍋に入れたとされる紙コップの中の亜ヒ酸とは別種であったという検査結果を出している。

また、当時検査した東京理科大の中井教授は、後に近隣家屋にあった5つの亜ヒ酸に加え、林家の亜ヒ酸、そしてカレー事件に使われた亜ヒ酸の計7個を検査した結果が、全てが同一であったとの証言をしている。この事から、どちらにせよ、この検察の根拠は完全に崩れている。



検察状況証拠2)林真須美がガレージの中で1人でカレーを見ており、鍋に亜ヒ酸を混入する機会があったと同時に、それ以外の人間は複数人でガレ-ジにいたことから、林真須美以外に亜ヒ酸を入れられる状況にはなかった。


反証)実際は林真須美1人ではなく、次女と当時4歳の息子が一緒にいたことがわかっている。また、それ以外の人間の中にも、亜ヒ酸を入れることは決して不可能ではなく(鍋をかき混ぜるのは一人でその他は雑談している可能性も十分あることから、小さな容器から亜ヒ酸を入れるなどさほど難しくはない)、検察の根拠としては極めて脆弱だ。


また、保険金詐欺によって亜ヒ酸の致死量を十分把握していたとみられる林真須美が、そんな危険な場所に自分の娘と息子を連れて行くとは到底思えない。




検察状況証拠3)林真須美と一緒に来ていた息子、娘が亜ヒ酸入りのカレーを食べていないこと


反証)証言によると、突如健二が予定を変更し、長女と三女を家に残し、夕食も用意せずにカラオケに行ったとされている。
これをアリバイ作りとして考えるのならば、林真須美は最初から子供たちにカレーを食べるなと指示していなければおかしい。
特に、夕食を用意していなかったことから、長女と三女がこのカレーを食べる可能性は否めなかったわけだから、尚更その指示は重要だ。(仮に間違って食べてしまったら、自分の子供が死ぬ)

まあ家族だけにその証言の信憑性が疑われなくもないが、事実として次女がカレーを味見をしたと証言していることから、食べるなと林真須美が娘たちに指示をしていたわけではないことが推測できる。



検察状況証拠4)隣に住んでいた女子高生が、窓から白いTシャツを着て首にタオルを巻き、髪の長い女性が、カレー鍋の周辺を歩き回った後、カレーの鍋の蓋を開け、その中に何かを入れたと証言。これを林真須美であると女子高生も検察も特定。


反証)林真須美は当日、黒いTシャツに茶髪のショートカットだったことから、この証言を基にすれば、そもそも犯人とは違う。
では、実際、そのような格好をした人間がいなかったのか?実は次女がまさにその容姿に当てはまる。また体重も70Kg前後と林真須美の体型と酷似しており、女子高生が林真須美と次女を見間違えた可能性が高い。

また女子高生の証言が、初めは一階のソファーで見たと言うものから、次の調書では2階からとその証言内容を変更している。他はかなり細かな証言をしているにも関わらず、その見た場所を(特に毎日いる場所で)間違えるだろうか。ここも不審点である。





検察状況証拠5)カレー事件以前、林真須美は、夫である健二と共謀し、亜ヒ酸を使った保険金詐欺事件を起こしている。



反証)この保険金詐欺を考案したのは健二であり、保険に詳しい真須美がそれに加担したことから、保険金詐欺の主犯は健二であると同時に、彼らはこの詐欺によって多額の金を手に入れている(自宅の金庫には2億円ほど入っていた)

また22件の亜ヒ酸を使った全ての詐欺によって誰かを殺害したこともない。


この事から林真須美の目的はあくまで金銭であり、このような無差別殺人をすれば自分たちの悪事がばれる可能性が高い事から、犯行に及ぶとは到底考えづらい。


また亡くなった4人の中の誰かしらに保険金を掛けていたという事実もなく、事実上、林真須美には損しかない。




さらにその事件を引き起こすに当たっての動機である。


検察は近隣住民とのトラブルで林真須美が孤立していて、その腹いせにというようなことも言っているようだが、これも無差別殺人をするには非常に無理のある動機だ。


もしも、そのようなことが動機であるのならば、林真須美は、それまでの緻密な保険金詐欺同様に、特定の人間をピンポイントで狙い、尚かつばれないように狡猾に行っていただろうと推測できる。

このように極めて感情的で稚拙な犯行を行うような動機は何一つないのだ。



またマスコミを含め、林真須美は奇怪で気性が荒い、という印象を付けたのも世論が林真須美が犯人であろうと思った要因の一つではないだろうか。

それは林真須美がマスコミに向かってホースで水を掛けたり、暴言を吐いていた映像などが繰り返し流された事によるものが大きいだろう。


しかしそれも健二の指示によって動いていただけであり、林真須美の意志として行ってはいなかったと後日健二の証言によってわかっている。



さらにこれだけの大きな悪質な事件であれば、検察、警察は威信を掛けて容疑者を特定し、死刑を求するだろう事は容易に想像はつくし、また、世論の注目度から言っても、早急に事件を収束させたかったに違いない。

言うならば、多少の強引さが捜査にあったことは推測であるが想像できるわけだ(現に亜ヒ酸の成分が覆っている)



これらを総合的に考えた場合、もしも林真須美が犯人であるとするならば、



悪事で稼いだ2億円もの大金を金庫に眠らせ、そこそこの豪邸に何不自由なく暮らし、金銭に異常に執着する計算高い女が、自分の悪事がばれる覚悟と、死刑になる覚悟、また娘達がその犠牲になる危険性を犯してまで無差別殺人をしたことになる。



現実はフィクションを超える、などということもあるのだろうが、それにしても、矛盾だらけではないだろうか。


この事から少なくとも林真須美が黒であるとは断定できないであろう。



言い換えれば真っ白ではないかもしれないが、真っ黒ではないわけだ。



それを法の大原則である「疑わしきは無罪」を適応させるのであれば、林真須美は確実に無罪である。






しかし、もしも彼女の死刑が執行されてしまったら、そして、その後に真犯人が名乗り出るか、もしくは見つかった場合、この国の死刑制度は根幹から揺らいでしまうだろう(死刑廃止論者の左翼弁護士たちの格好のターゲットだ)


私はむしろ、林真須美が犯人か否かよりも、実はここを懸念しているのだ。








最後に逮捕から16年間、一環して無罪を主張している林真須美が獄中で描いた絵を紹介したいと思う。



タイトル「国家と殺人」






決して絵心があるとは思えないが、その奥に林真須美の叫び声が聞こえないだろうか?


それは死刑になる恐怖からくるものなのか、それとも無罪の叫びなのか、はたまた国家権力への憎しみなのか、そのどれも全てなのか、私にはわからないが、少なからず、強烈な何かをこの絵が発しているように思えてならないのだ。






※調書に私が調べきれていない部分も多々あり、それらによってこれら反証がまた反証される可能性があることも否定しない。しかし、検察が林真須美を犯人だとする根拠は大筋この通りであろう。




三つの要素


人の生とは何か、ということについてここ最近、考察することが多いのだが、そんな中、三つのキーワードが私の中で浮かび上がっている。


一つ目は「解釈学的循環」


二つ目は「正統性(レジティマシー)と強靱性(レジリエンス)」


三つ目は「実用主義(プラグマティズム)」だ。



まず解釈学的循環だが、これをわかりやすく説明すれば、言葉には前後文脈があり、言葉の深意を読み解くには、まずその文脈を理解しなければならず、それによって、初めて言葉は活きた言葉となるということだ。


何を当たり前のことを言っているのだ!と思われるかもしれないが、これを実社会に当てはめて考えてみると、この解釈学的循環がいかに難しく、また必要不可欠であるかということがわかる。



例えば、ある皮膚の専門学者が私を見て、これは皮膚である。と答えたとする。確かに、私には皮膚がある。しかし、皮膚は私でも無ければ、私が皮膚でもない。


言い換えると、皮膚はある側面においては正解であっても、全体としての私ではなく、答えとしては不正解なのである。



しかしながら世の中では、意外とこうした話を良く耳にする。むしろそれが大多数ではないか、とすら思えるほどだ。



TPPしかり、労働規制緩和しかり、原発問題しかり、様々な国家的問題を議論するに当たり、明らかに、文脈(全体)を見ずに、その一側面のメリットデメリットで議論がなされているように思えてならないのだ。



森(マクロ)をしっかり見極め、その中でこの木はどうあるべきか、という議論がなされていかなければ、それこそ、私たちは大きな間違いを犯すこととなるだろう。






次に正統性と強靱性についてだが、これは先に一度述べたように、新たなものを生み出していく(イノベーション)こと、いわゆる進歩主義への懐疑から始まった。


もちろん、正統性(レジティマシー)というのは、持とうと思って持てるものではない。



歴史、伝統、文化に裏付けされて、初めて信憑性(オーセンティシティー)が生じ、それによって正統性は正統性たる所以となるのだ。


例えばベンチャー企業に正統性はあるのか。もちろんあるわけがない。言い換えると、ベンチャー企業は正統性の代わりに「新しい物」を生み続けることで、その価値を担保させるものである。


それに対し、歴史に裏付けされた正統性を持つ老舗の企業はどうだろうか。もちろん時代に合わせたある程度の変化は必要だろう。しかしながらそれは革新的である必要はなく、むしろ歴史を踏襲しながらの微妙な変化だけで存続できるのである。




新しい物を生み続けなければ存続できないベンチャー企業と、僅かの変化に対応させていけばいい老舗企業とどちらが強靱性(レジリエンス)があるだろうか。



答えは言うまでもないだろう。それほど、正統性と強靱性、またその逆も、リンクし合うわけである。




最後に実用主義(プラグマティズム)についてだが、現在の経済学の中心は、自然科学と合理主義に基づく新自由主義であるが、その新自由主義、合理主義に真っ向から対立するのが、このプラグマティズムである。


そもそも合理主義とは何か、「世界を支配する根本原理を発見できる理性の力を信じ、その理性が発見した原理に基づいて、理想の社会構築へと変革を行えると信じる思想」である。



これは言い換えるとある種の静観(悪い意味で)と、怠慢が浮かび上がっているとも言える。



そもそも人間を、このような自然科学的に自由にさせ、また合理によって、社会が健全な方向へと向くだろうか。私には甚だ疑問である。



これに異を唱えたものこそ、プラグマティズムであり、プラグマティズムの根幹は、実用を優先させることであって、また解釈学的循環と同様に、全体環境の中でどうその状況に合わせて政策を変えていくか、という極めて実践的な主義である。



当然、時代や状況が変わればそれにも対応させるわけであり、新自由主義的硬直とは真逆に、柔軟性をも内包しているわけだ。




またその思想は、社会と個を別々で捉えるのではなく、魚が水を必要とするのと同様に、個も他者(社会や国家)があって、初めて生の存在となるわけであって、個人主義のように、水から引き上げられた魚という個は、死んだ個でしかなく、言い換えればそれは「死んだ理」でしかなく、本来の活きた理は、水と魚を切り離して考えては駄目だ、とも説いているものである。



これら三つのキーワードはどれもマクロ(社会)、ミクロ(個人)ともに当てはまり、そもそも相互に循環し合うわけだから、合成の誤謬も起きない。それ故に、これらをしっかり理解することこそが、人が生きる上で、また成長する上で、極めて重要な要素であると私は考えるのである。

生の孤独と選択


人は孤独だというと、生まれた時と、死ぬときは一人だからだ、と言うものもいるかもしれない。


もちろん、それも一つの正解なのかもしれないが、私はあえて、人の生は常に孤独であると断言する。


まず、すべてのその主体が費やす時間は、自分の判断でのみ左右し、例えそれが他人の意志によるものだとしても、最終的にその判断を下すのは自分自身である。


また極論を述べるとすれば、ナチスのホロコーストの犠牲になったユダヤ人ですら、その絶望の淵の中で、死に対し、どう死ぬのか、どう殺されるのかということを選択できたのである。


我々のこの瞬間も絶えず、その選択は迫られ、こうして私が文章を書いているこの時間もまた、私自身の選択に他ならないのであって、他者がそこに介在することは間接的にはあっても直接的には不可能なのだ。


さらにそれが強制的であれどうであれ、それはその瞬間、全く選択肢が無いなどというのは無く、無いと思った貴方の判断、選択に他ならないのである。



これは他者の歯痛が、どれだけ具体的に説明されようとも、その痛みを自分で感じられないのと同様に、その主体個人と他者の間には絶対的な壁が存在しているからであろう。


このように考えた時、人間の生は、絶対的に孤独であり、根本的に孤独である、と言い切れるのである。



と同時に、人は産まれた場所も時代も一切選ぶ権利というものが与えられていない。それは、絶対に変える事ができない環境なのだ。


しかしながら、その誕生の後、私たちは様々な選択を迫られ、常にこの瞬間も、何かをしなければ行けないという、ある種の強制的選択に迫られている。



それは例え、ぼうっとしてる=何もしないということではなく、自分の選択としてぼうっとしているというにすぎないのである。



さてそう考えた時、私たちの生は、根本的に自由であると言えるかもしれない。



その自由の中で何を選ぶのか、というのは、人間だけに選択しうるものであり、予め定められるものでは一切ないからである。




ということは、私たちが今この瞬間に選択しうるもの、また過去に選択してきたものが、現在及び、未来の自分を構築しているといっても過言ではないのであろう。



それはまるで、初めからコップに入るものが定められていた石ころや動物たちとは違い、その入るもの、量、質を自らの選択によって、絶対に選ばなければならない、という特殊な生き物が人間だと言えよう。



そしてその選択は微々たるものから、それなりに大きなものから、生死を分ける大きなものまで様々な選択が瞬間瞬間に訪れては、その人間のコップに水を注ぐのである。



もしも、今、自分が何もしていない、というのであれば、私は何もしない、という選択において、そのコップにほとんど無といってよい何かを注いだのかもしれないし、逆に人生の大きな決断をし、行動しているのならば、それが良い悪いに限らず、多くの水が注がれたに違いない。


空のコップに、何をどれほど注ぐのか、全ては自分自身でしか決められないのである。