生の孤独と選択
人は孤独だというと、生まれた時と、死ぬときは一人だからだ、と言うものもいるかもしれない。
もちろん、それも一つの正解なのかもしれないが、私はあえて、人の生は常に孤独であると断言する。
まず、すべてのその主体が費やす時間は、自分の判断でのみ左右し、例えそれが他人の意志によるものだとしても、最終的にその判断を下すのは自分自身である。
また極論を述べるとすれば、ナチスのホロコーストの犠牲になったユダヤ人ですら、その絶望の淵の中で、死に対し、どう死ぬのか、どう殺されるのかということを選択できたのである。
我々のこの瞬間も絶えず、その選択は迫られ、こうして私が文章を書いているこの時間もまた、私自身の選択に他ならないのであって、他者がそこに介在することは間接的にはあっても直接的には不可能なのだ。
さらにそれが強制的であれどうであれ、それはその瞬間、全く選択肢が無いなどというのは無く、無いと思った貴方の判断、選択に他ならないのである。
これは他者の歯痛が、どれだけ具体的に説明されようとも、その痛みを自分で感じられないのと同様に、その主体個人と他者の間には絶対的な壁が存在しているからであろう。
このように考えた時、人間の生は、絶対的に孤独であり、根本的に孤独である、と言い切れるのである。
と同時に、人は産まれた場所も時代も一切選ぶ権利というものが与えられていない。それは、絶対に変える事ができない環境なのだ。
しかしながら、その誕生の後、私たちは様々な選択を迫られ、常にこの瞬間も、何かをしなければ行けないという、ある種の強制的選択に迫られている。
それは例え、ぼうっとしてる=何もしないということではなく、自分の選択としてぼうっとしているというにすぎないのである。
さてそう考えた時、私たちの生は、根本的に自由であると言えるかもしれない。
その自由の中で何を選ぶのか、というのは、人間だけに選択しうるものであり、予め定められるものでは一切ないからである。
ということは、私たちが今この瞬間に選択しうるもの、また過去に選択してきたものが、現在及び、未来の自分を構築しているといっても過言ではないのであろう。
それはまるで、初めからコップに入るものが定められていた石ころや動物たちとは違い、その入るもの、量、質を自らの選択によって、絶対に選ばなければならない、という特殊な生き物が人間だと言えよう。
そしてその選択は微々たるものから、それなりに大きなものから、生死を分ける大きなものまで様々な選択が瞬間瞬間に訪れては、その人間のコップに水を注ぐのである。
もしも、今、自分が何もしていない、というのであれば、私は何もしない、という選択において、そのコップにほとんど無といってよい何かを注いだのかもしれないし、逆に人生の大きな決断をし、行動しているのならば、それが良い悪いに限らず、多くの水が注がれたに違いない。
空のコップに、何をどれほど注ぐのか、全ては自分自身でしか決められないのである。