真のindependent(独立)とは
独立という英語はご存知の通り、independentなわけですが、
これはinとdependentに分けて考えると、dependent(依存)in(否定)依存しないということを意味していることがわかります。
ではその定義において、現在、我が国は独立国なのだろうか?ということを検証してみたいと思います。
まずは独立国として必要なものを挙げて見ましょう。
第一に軍事
他国からの侵略に対し、対抗しうる根源はまぎれも無く軍事であります。ある平和ボケ学者が、「経済はグローバル化しているから、侵略などすれば、その国にもダメージがあるからしない。むしろ、もっと経済関係を密接にすることこそ安全保障だ」
と訴えていましたが、果たして本当にそうなのでしょうか。
ロシアのクリミア統合にせよ、中国の覇権主義にせよ、経済ごと奪い取ってしまえばいい。という考えの元に彼らが行動しているのは、明白ではないでしょうか。
要は、その方が長期的には彼らの国益になるということなのでしょう。
このことを踏まえれば、軍事力無くして、独立などあり得ないわけですが、残念ながら我が国の軍事力のほとんどはアメリカに依存している状態です。
アメリカが武器を日本には輸出しない、またはそういう軍事的な設備を使わせない、と言った時、私たち日本人はどのようにして我が国を守れるというのでしょうか。
次に食料もまた、独立には欠かせないものでしょう。
しかし我が国の食料自給率はカロリーベースで39%と低く、そのほとんどを海外に依存しています。
市場原理主義者達は、そんなものは海外から輸入して、日本は付加価値のあるものを海外に売れば良いと言いますが、あくまで海外は、自国の自給率を満たした上で、その余ったものを調整分として輸出しているに過ぎません。
言い換えれば、自国の自給率が干ばつなどで下がった場合、真っ先にその調整分はその国の国内に回されることになります。
例え我が国が買えたとしても、法外な値段を突きつけられるでしょう。
さらに付加価値のある農産物を海外に輸出すればいいという考えも、海外の経済事情、為替の変動に左右され、極めて不安定と言わざるを得ません。
あたかも日本政府は、そういった農業を強い農業などと言っていますが、私からしてみれば、脆弱な農業としか思えないのです。
さらにはエネルギーも大きな独立には欠かせない要素でしょう。
これは原発問題で取り沙汰されているのでご周知の方も多いと思いますが、我が国のエネルギー自給率は僅か6%しかありません。
残り94%は海外からの輸入に依存してしまっているわけです。
現在、中国がシーレーンを狙い、その上、もしもホルムズ海峡が不安定化するなどということが起きれば、それこそ我が国のエネルギー及び経済はいとも簡単に崩壊するでしょう。
さらに人口というものも独立には欠かせません。当然ながら民族の減少は国家存続の危機であり、最終的には吸収される運命にあるからです(事実、ウィグルやチベットなど少数民族は吸収、迫害されている)
しかしながら、その人口減少に歯止めをかけるために政府が検討しているのが、なんと移民政策なのです。
これまた外国人に依存してしまおうとしているわけです。
このように我が国は、軍事、食料、エネルギー、人口(まだ大丈夫ですが)と、国家の根幹である部分のほとんどを他国に依存した状態になっていることがおわかりいただけたかと思います。
果たしてこんな状態で、independentと胸を張って言えるでしょうか?
明らかdependentと言わざるを得ません。
追加で言えば、我が国の憲法条文(平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、、、)そのものが、他国に依存していることは言うまでもなく、我が国は他国に左右されまくる依存国家であることは、これらの事実を踏まえれば明白ではないでしょうか。
そしてその依存は、ちょっとしたきっかけで簡単に崩壊する脆弱性をもっているという事実を我々国民は理解しなければならないと思うのです。
でなければ、我が国民の子孫の繁栄はなく、我々の世代で「日本」という国家を終わらせてしまうことに繋がりかねません。
責任ある日本国民として、将来に対し、その責務を全うすべく、今こそ我々の世代で、真の独立を果たすべきではないかと私は考えています。
そのためには、自国の軍事産業及び核武装、真の農業の強化、原発増設やメタンハイドレートの開発促進、少子化対策(反フェミニズム)、地方再建(インフラ整備)が欠かせません。
これら発言をすると、過激な極右だとかのレッテルを貼る方もいるかと思います。
しかし私は右翼でもなんでもありません。日本国民としての責務を果たし、それを未来に繋いでいきたい、と願う一国民なのです。
そしてそのためには、それらを実行するしかない、と危機感を抱いているだけなのです。
戦後、アメリカに守られてきた日本人ですが、もはやアメリカは日本など絶対に助ける事はありません(アメリカの国益にならなくなった)
日本は日本人でしか守れない時代が今、ここに来ているのです。
どうか、皆さん真の独立と国家存続のために、目を覚まして頂きたく思います。
司法の欺瞞と傲慢
先ほど、大飯原発の差し止め裁判、全文を読ませて頂きました。
正直、開いた口が塞がらないという状況なのですが、感情的に話をしても意味が無いので、何がこの裁判の問題なのか、というのを判決要旨を基に反証していこうと思います。
まず冒頭ですが
「侵害形態が多数人の人格権を同時に侵害する性質を有するとき、その差止めの要請が強く働くのは理の当然である」としています。
確かに言うように、人格権を侵害するものを差し止めするのは当然のことであります(防衛などはまさにそれそのものです)
しかしここで問題なのは、それを止めることで将来に人格権が侵害されないのか、もしくはされる可能性が高まるのではないか、ということを懸念、配慮しなければなりません。
原発というのは、エネルギー自給率が僅か6%の我が国においては、経済活動、エネルギー安全保障の中核を担うものであり、それが差し止められるという弊害を無視はできないのです。
例えば、シーレーンやホルムズ海峡の安全が担保出来ないなどの危機が訪れた場合において、そのリスクは、判決要旨で散々述べられている原発同様の人格権を脅かすリスクであり、ここで判断しなければならないことは、原発の危険性だけではなく、原発の危険性と、原発を止めた時の危険性のどちらが我が国において、高いリスクとなりうるのか、という論点でなければなりません。
そこが欠落した判決文は、まさに木を見て森を見ずであり、その差し止めによるリスクを無視したものに過ぎません。
さらに
「新しい技術が潜在的に有する危険性を許さないとすれば社会の発展はなくなるから、新しい技術の有する危険性の性質やもたらす被害の大きさが明確でない場合には、その技術の実施の差止めの可否を裁判所において判断することは困難を極める」
とした上で、
「原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通じて十分に明らかになったといえる。本件訴訟においては、本件原発において、かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる」としている。
これは言い換えれば、原発の技術はこれ以上は変わらない(むしろチェルノブイリから変わっていない)、もしくは、安全性はこれ以上、上がらない、と言っているに等しく、まさに、社会の発展は必要ではない、と断言するものであって文明の否定である。
やや感情論も混ざってしまうが、この裁判官は、我々に原始時代に戻れと言っているようにも聞こえてしまうのだ。
続いて、
「国民の安全が何よりも優先されるべきであるとの見識に立つのではなく、深刻な事故はめったに起きないだろうという見通しのもとにかような対応が成り立っているといわざるを得ない」と関西電力を露骨に批判している。
このこともまさに安全保障という観点を加え私が反証するのならば、
「たとえ電力の安定供給が困難となり、経済、国力が衰退し、外的圧力(侵略)や国内の経済事情によって、国民の安全が担保出来なくなったとしても、原発は危ないから止めなさい」という、極めて短絡的な見通しのもとにたった判決と揶揄せざるを得ない。
最後に、
「コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている」
安全保障のあの字すら出てこないこの裁判官には、どうやら再稼働賛成派が、電気代が高い低いという問題意識だけで原発を動かすことに賛成しているとでも思っているのだろうか、と疑わざるを得ないのだが、仮に、電気代が上がれば経済的困窮によって自殺者が出る可能性もあり、「人の生存そのものに関わる権利」を犯すわけであって、並べて論じられない根拠などどこにもない。
また、そもそもインフラというものの本質が「人の生存そのものに関わるもの」であるという認識が著しく欠落している。
そして、続けて
「このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている」としている。
もう呆れるばかりなのだが、これが長い年月続いたら、また、突如として有事が起きたら、という時間軸や危機管理という観点が決定的にこの裁判官にはないということがよくわかる。
ここまで来ると、もはや傲慢という言葉を通り過ぎ、恣意的に国民を欺こうとしているとしか思えない。
そもそも国家というものは、「経済力、軍事力、価値観」で保たれているものであって、経済、軍事(この場合エネルギー安全保障)を無視して安全など担保できないのである。
賢明な読者の皆さんには、ぜひ、この司法の欺瞞を見抜いて頂きたいと切に願います。



