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比較の愚かしさ


隣のご主人は年収1000万なのに、うちはぜんぜんだとか、近所の次男坊が東大に受かったから、うちはどうなのか?とか、そういったミクロ的な比較から、



国会議員の歳費が日本は世界一で高過ぎるとか、女性の社会進出が欧米に比べて低過ぎるとか、所謂マクロ的な問題まで、なんとまあ、人は比較が好きなのだろうか。



私は正直、このような比較というものには一切興味が無い。



いや、正確に言わせてもらえば、そんな比較は当てにならないから、気にしない。と言った方がいいかもしれない。



例えば、ミクロ的な話でも、1000万円稼いでる夫は、家にはほとんど帰らず、仕事ばかりしてるかもしれないし、逆に500万円でも、家族にとって有意義な時間を与えてるかもしれない。



また、国会議員の歳費にしても、日本とアメリカでは、そもそもシステムがまるで違えば、当然、国会議員の役目や権限もまるっきり違う。



さらに人口構成、物価、伝統、歴史などを踏まえれば、尚更、比較など出来るわけがない。



言い換えれば、一概に数字だけを比較したところで、何の意味もないということだ。



しかし、逆に言えば、そういった複雑な事をすっ飛ばし、数字だけで比較するのは、極めて簡単でわかりやすく、訴えやすい。




それだけにメディアは、国民にこの「比較」という武器を使って訴えかけてくるわけだ。




当然、各国の細かな事情などまるで知らない人々にとってみれば、これほど納得できる材料はないわけだから、あたかもそれが真実だと思い込む。




こんな愚かなことがあるだろうか。




私には全く理解できないことだ。





また、昨日、新宿駅で焼身自殺未遂が起きた。何でも集団的自衛権に反対で自らの身体に火を放ったと言う。




それに対し、YR氏が、「この日本で、チベットのような手段で訴えなければ、政治が変わらない!と思う人が出てしまったことを重く受け止めませんか?」



などという、馬鹿げたツイートをしている。




ちなみに、チベットは中国から侵略を受け、民権はもちろん、その主権すらない。言い換えれば、民主的に(選挙など)訴える事はできないのだ。




それに対し、日本はどうだろうか? 当然、自分の意志は選挙という形で示すことができる。




基本、私は民主主義には懐疑的なのだが、それはさておき、少なからずチベットと日本ではまるで状況が違うという事は事実であり、それを単純比較する彼女の思考回路を疑わざるを得ない。





ただ、彼女が特別なのか?と言えば、そんな事は無い。




主婦やサラリーマン、いや、大衆人全般の特徴として、この「比較」は常に行われているのが現状だ。




売上、給料、学歴などなど、言い出せばキリが無いほど、人々は比較によって、自分の立ち位置を確認し、安心し、また不安になり、嫉妬し、歓喜するのだ。




しかし、そのほとんどは、表面的比較でしかなく、その本質などどうでもいい、もしくは見るだけの能力も無く、それでいてその比較結果を信仰するという私からしてみれば、これほど愚かな行為はないと思ってしまうのだ。





今一度、単純比較をすることの無意味さを理解し、そして、もしも比較をするのであれば、様々な事情、状況などを踏まえた上で、比較、判断すべきであると思う。





権利と義務


都議会の「早く結婚すればいいんじゃないのか?」というヤジの問題が取り沙汰されていますが、私個人としては、以前までは、結婚否定派だっただけに、この問題は、色々と考えさせられるものがありました。



まず、なぜ以前まで私が結婚に否定的な立場であったかを簡単に説明したいと思います。



1、居る事が当たり前になり、相手を蔑ろにしやすくなる(又は感謝が薄れるや、わかったフリをしてしまう)


2、赤の他人である男女が、家族という関係にまで距離感を縮める事で、男女としての関係性を維持するのが困難となる。


3、そもそも結婚という制度は、その土地から人を縛るための制度であったが現代には適していない。



このような理由から、男女の関係(ミクロ)を考えた時、否定的立場になったわけです。



しかし、それでも私は、あえてそこに挑戦するというという覚悟で結婚したわけです(否定するならその立場に身を置かなければ説得力がありません)




しかしながら、これらの理由の根幹には、個はあっても集団という概念は一切ありませんでした。




そこが私が未熟であった一番の問題点ではなかったかなと反省する次第です。




では、個(ミクロ)ではなく、集団(マクロ)ということまで考えた時、結婚はどんな意味を持つのでしょうか?




これは至極当然ではあるのですが、私たちが今、美味しい食事を取り、仕事にありつけ、ビールや趣味に勤しめるのは、間違いなく、先人達が子どもを産み、育て、そういった環境を作ってくれたからに他なりません。



突然、道が出来、突然、人が現れ、突然、仕事が出来たわけではなく、過去からの積み重ねによって、現在があるということなのです。



言い換えれば、私たちの生活のほとんどは、過去からの恩恵を受けているだけに過ぎないのです。



そう考えた時、私たちが考えなければならないのは、このような恵まれた環境を次の世代にも受け継がせていかなければならないという「責任」だと思うのです。




その責任というのは、究極な所、「義務」とも置き換えられるかもしれません。




もちろん、義務というとずいぶん押し付けられる感があるのは否めないかもしれませんが、この私たちが今、受けている恩恵も言い換えれば「権利」に他ならないわけであり、その権利には必ず義務が生じるのだと、言いたいのです。



ということは、先人達が長年積み上げてきたものを修復、修繕しながら、また守りながら維持していくというのは、まさに現代人の一番の義務であり、その一つが(女性の場合はメイン)、結婚、出産、子育て、ということなのではないでしょうか。




ここ最近、よく「女性の権利」を主張するフェミニストの方々を目にしますが、彼女達はまず、その義務を果たしているのでしょうか?




貴方の仕事が成り立っているのは、人が居るからです。当たり前ですが、誰もいない場所では仕事は成り立たないからです。



その人は一体、誰が産んだのでしょうか? 誰が育てたのでしょうか? 貴方ですか?



当然、それをしてきたのは先人達であって、貴方ではないのです。



このように、過去からの恩恵(権利)を得るだけ得ておきながら、未来にはそれを残さない、自分は自分の好きなようにする!というのは、身勝手以外の何者でもないのではないでしょうか。



それでも「私は好き好んで恩恵を受けているわけではない」と主張される方もいらっしゃるいかもしれません。



そういう方は、きっと国家というものなど必要ないとでも思っているんでしょうかね?



正直、そういう考えの人間には何を言っても不毛なので止めておきますが、私たちは今、ここに生かされているのだ、という謙虚さを持って、それを未来に繋げていくんだ、という責任感をそれぞれ個人が思えば、きっと良い社会が構築出来るでしょうし、子供たちにも、良い未来を受け渡すことが出来ると思うのです。




「権利を主張するまえに、まずは義務を果たす」結局、それを抜きにして議論しても、上辺だけの薄っぺらいものになってしまいます。



もちろん、女性の生き方として、結婚、出産、育児をしなければ駄目だとは言いません。



子どもを産みたくとも、産めない女性もいますし、結婚したくとも出来ない女性もいるでしょう。そういった多様性はあってしかるべきだとは思います。



しかしながら、根底の部分に、「好き勝手していいんだ」というものがあるのは、明らかに自己中心的であり、傲慢と言わざるを得ません。



今、好き勝手自分が出来ているのも、先人達がそういう環境を苦しみながら、悩みながら構築してきたからであるという「想い」なくして、好き勝手な権利を主張するなと言いたいのです。




この話は、それぞれ言い分や考えはあるでしょう。以前の私なら、真っ向から対立していたかもしれません。



それでも、私は今、子どもが居る親として、その子どもが親になるとき、まともな環境であることを願い、そしてそれを構築するための努力はしなければならないと思うのです。



それが私たち現代人の義務(責任)であるのだから。



愛と限定と想像力


僕は嫁さんと結婚する前に、こんなことを彼女に告げました。


「結婚とは別れる前提に成り立つ」と。



えっ結婚って別れない約束をするものじゃないの?と一般的には思うでしょう。



そういう方には、別れる前提で結婚するなどというのは、ちょっと理解に苦しむ話かもしれません。



しかしこれは極当たり前の話で、明日どちらかが事故に遇い、また病気で他界することも確率としては決してゼロではありませんし、どちらか一方が相手を嫌になり、関係を解消することも十分考えられます。



さらに言えば、運良く互いに老後まで一緒に居れたとしても、結局はどちらかが先に旅立たなければならないという現実に背く事は何人たりとも出来ないわけです。



言い換えれば、結婚は、いや、人間はそもそも生命を限定された生き物ということなのです。



そんな当たり前のことですが、日常をすごしていると、生きていることが当たり前になり、相手が居る事が当たり前になり、やがては訪れるであろう別れの瞬間を想像できなくなるのです。




その結果、何が生じるのか。安定、安寧などのメリットも当然あります。しかし、そこから派生するものは、不満であったり、怠惰であったり、怠慢であったりすることは多々あることでしょう。



それでも「喧嘩をするほど仲がいい」なんて言葉もあります。



たしかに、お互いの言いたい事を伝え合うことはとても大事なことだと僕も思います。しかし、同時に、そこには双方に想像力を欠いてはならないと思うのです。



その想像力を欠くと、それは単純な不満(そのときの感情のみ)だけとなってしまうからです。



よく、「愛と憎しみは隣り合わせ」と言います。しかし、その中間には、「不満」があるのではないか、と僕は思っているのです。



この不満の根源には、「居て当たり前」「やって当たり前」というものがあるのです。




ですから僕は、そう思わないためにも、よく、(最低でも月に一回くらいは)嫁さんが死んだことを想像しています。




そうすると、「ああ、子どもの世話はどうしよう」とか「仕事はどうしよう」とか、そういった現実的な問題から、「なんて惜しい、なんて哀しい」という感情的なものも心にこみ上げてきて胸が苦しくなるです。



死というものは、言い換えれば「限定された生でもあります。



後、何時間、僕は彼女と会話が出来るのだろうか? 後何回、彼女の肌に触れる事が出来るのだろうか?



そんなことを思うと、僕は喧嘩などする気にはさらさらなれないのです。




また、例え、お互いに長生き出来たとしても、この瞬間(例えば20代、30代など)は、その時にしかあり得ません。



その触れる肌の艶感、滑らかさも、その瞬間であり、30年後には望めないものなのです。




また、会話もそうでしょう。若かりし頃の会話と、老熟した頃の会話では、まるで違うでしょう。



それはその時々でしか、決して感じ得ないものであり、瞬間瞬間が限定的なのです。




こういったことに目を向けた時、その想像は、最後は死というものに、及んでしまうのはむしろ必然であって、僕はそこにいかに向き合うか、ということを常々意識しているのです。




余談ですが、以前、西部先生が、「愛と哀」は語源が一緒であるといったお話をされていました。




それは「愛」=「愛しい」=「いと、惜しい」=「大変惜しい」=「失って、大変惜しい」という意味であり、愛は哀しみを内包するというのです。




それを聞いて、なるほどと頷いたのを思い出します。




初めに戻るようですが、結局、愛は別れを前提にしているということなのです。




そして、その別れをいかに想像し、限られた二人の時間を大事にすごしていけるか、というのが、僕の人生のテーマでもあります。



愛は限定的であるからこそ、愛であり、それをいかに想像しうるか、というのが、愛の本質ではないか、などと青臭いことを少々照れながら(羞恥しながら)、最後に言わせて頂き、文章を締めたいと思います(笑)