ひより -36ページ目

岩盤規制とは一体何なのか?



「私はこれからの3年を、集中的な改革の期間と位置付け、持てる政治力を、投入します。 固い、岩盤のような日本の規制を、私自身をドリルの刃(やいば)として、突き破ろうと思っています」



安倍総理は以前、講演にて、このように発言なされていますが、そもそもこの岩盤のような日本に規制とは、一体何のことなのでしょうか?



それをひも解くにはまず、民主主義経済とは、「経世済民」(人々の暮らしを豊かにするため)が根幹であることを理解しなければなりません。



そう考えた時、規制というのは、当然必要になります。



なぜならば、ボクシングに喩えれば、ミニマム級と、ヘビー級のボクサーを同じリングに上げれば、どんなに強いミニマム級ボクサーでも、ヘビー級ボクサーには勝ち目がありませんから、そこをルール化(規制)しなければ、ヘビー級のボクサーだけしかチャンピオンになれなくなるからです。



これは、言い換えれば、規制を壊す=ルールを無くすわけで、一部の強い者だけが勝ち、その他は敗者になることを意味しているわけです。



ですから、ミニマム級のボクサーを守るためにルール化されているということは、ミニマム級という階級自体が規制ということになります。



ここまで言えば勘の良い読者の方にはお分かりでしょうが、岩盤規制の正体は、「ほとんどの国民」ということになるのです。




その「ほとんどの国民」を多数で決める民主主義で選ばれた政権のトップである安倍総理が、私自身のドリルの刃で突き破ると発言しているのですから、これこそ、民主主義経済を真っ向から否定しているということに他なりません。



にも関わらず、安倍政権の経済政策を賛美する人々が絶えないのですから、ワタクシとして意味不明なわけです。



もちろん、彼らに思慮深さがなく、言い換えれば自分はミニマム級に属しているにも関わらず、ヘビー級ボクサーの言い分が正論(実際に正論ですが、正論が社会において正論であるというのがそもそも間違い)に聞こえてしまっているというのが大きいのでしょう。



しかし、それはまさに自分で自分の首を絞めている自殺行為なのです。(きっと本人達は自分がヘビー級以外に属しているとは思っていない。ある種、他人事になってる)



そもそも、このように規制改革をする思想=新自由主義は、民主主義とは極めて相性が悪く、むしろ相反するものであります。



先に述べたように、ヘビー級のボクサーは国民の一部の一部だからです。(民主主義経済においては、多くの人の幸せを構築することが目的ですから、新自由主義がいかに民主主義とは考えが異なるかは、おわかりいただけると思います)



また、安倍総理のことをファシストと名指しで批判する方も居ますが(たぶん、この人たちは集団的自衛権や秘密保護法で言ってるがこれは間違い)、正しくは反民主主義者と言った方が良いのかもしれません。



しかしながらこのように反民主主義的な政策を取っているにも関わらず、国民からはそこを指摘する声はほとんど聞かれません(集団的自衛権ではあれだけ騒ぐのに・・・・)




なぜでしょうか? その根幹には無関心と想像力の欠如があると言わざるを得ません。



日本人の多くが、国のこと=どうでもいいという自己閉鎖的かつ自己中心的な考えが主流となってしまったからではないでしょうか?



本来ならば自分たちが当事者なのですが、その当事者意識がまるでないわけです。




ですから、一人でも多くの日本人が、想像力と思慮深さ、他者への配慮と公共への関心を持ち、当事者意識を持てるようにならなければ、この国の未来は明るいものにはならなはずです。



もし、多くの国民がそのように考えれるようになれば、民主主義で選ばれた政権がこのような国民経済を破壊するような暴挙を取れるはずがないのですから。






集団的自衛権だけでは不十分


ようやくなのか、はたまた勇み足なのか、先日、集団的自衛権の閣議決定が行われました。



個人的には、以前にも述べた通り、集団的自衛権には賛成です。



しかしながら、これが出来るようになったから、万事OK的な話では一切ありませんし、ましてやこれでアメリカと対等になれるなどということは一切ありません。



まず、そもそも集団的自衛権の前に、本当はやらなければならなかったことがあります。




みなさんもお分かりでしょうが、憲法九条第二項の改正及び、自衛隊法の改正です。



現在の自衛隊は軍隊ではなく、ただの公務員であり、軍隊に必要な軍法会議すら無いわけです。



例えば、戦地で自衛隊員が人を殺したとしましょう。すると、本来ならばその正当性や不当性を軍法会議なりで判断されます。しかし、それがない日本では、普通の裁判所で、それこそ「殺人罪」として扱われるわけです。


また逆に、自衛隊員が戦地で戦死したとしましょう。この場合でも、警察官の殉職同様の扱いになるのです(当然、靖国神社にも祀られない)




さらに、自衛隊員が、戦地に行きたくないと言ったらどうでしょうか?(ほとんどの自衛隊員はそんな事は言わないが、一部ならあり得る)



その場合も、軍法会議がありませんから、まともな対処のしようがありません。せいぜい国家公務員法か何かを適応させて処分するというのがおちでしょう。



このように、そもそも軍隊としての整備がなされていない自衛隊を海外に派遣させるというのは、様々な問題が生じてくるのです。



しかしながら、それらを一つ一つを正常な形に整備してから(憲法改正も含め)集団的自衛権となれば、おそらく途方もない時間が掛かるでしょう(もしかしたらずっと出来ないかもしれない)



そんな悠長なことを言っているほど世界(特に中国)は甘くありません。



ですから、正直、今回の集団的自衛権というのは、止むに終えない状況だった、と言わざるを得ないのです。




しかしだからといって、このままで良いのか?といえば、そんなことはありません。しっかりと軍法会議が出来るような法整備は今後、絶対に必要になりますし、憲法改正も当然、必要でしょう。




まあ、こういう話をすると、私は戦争したがってる!と思われるかもしれませんが、私は断固戦争には反対です。大反対の大反対です。



二度と悲惨な戦争を起こさず、子供たちに安全な未来を残してやりたい、そう心から願っているだけなのです。




しかし、それには力(軍事力)が不可欠になります。弱き者は、強き者に支配されていくというのは、歴史の教えです。



まして中国はアメリカのような正義感や倫理観は一切ありません(偽善だけど)



どこまでも残酷で、どこまでもしつこいでしょう。



また、中国には人権もへったくりもありません。ウィグル人やチベット人を戦地に送り、彼らの人口を減らしたいとすら思っているかもしれないのです。



核兵器についても、彼らはアメリカほどの抑制があるとは思えません。最悪、それを使うということもあり得なくはないと思うのです(倫理観や人権が無い国ですから当然です)



ですから、例えその戦争によって日本が勝ったとしても、日本が失う物は勝ったことによる利益以上に、計り知れない大きなものになるはずです。




このように考えた時、二度と戦争など起こしてはならない!と強く願うのは当然なことなのです。




では、そのために、どうするべきか、という現実的な方策を取らなければなりません(話し合いでというのは単なるロマンチストです。外交の背後には必ず軍事力があります)



また、私が懸念している最大の問題点は、現在の自衛隊の戦力のほとんどが、アメリカのシステムに依存しているという点です。



例えばGPSなどに使われる人工衛星などは良い例でしょう。敵の位置やミサイルの飛んでくる位置、それらを正確に把握し、対処するにはこれらは欠かせません。



もしもアメリカが、それを使わせないと言ってきたらどうでしょうか?



どんなに優れた地対空ミサイルや、イージス艦を保有しても、ただの鉄の塊になってしまうのです。



これはアメリカが兵器を日本に売らないと言うよりも遥かに、そして一瞬にして日本の戦力を奪える手段なのです。



これらシステムをアメリカに依存しているうちは、対等などは、あり得ないわけです。




このように、まずは自国で賄えるシステム構築こそ、喫緊の課題であるのですが、どうやら日本国政府はそこは真剣にどうこうしようという意図が全くみられません。




一体、なぜなのでしょうか?




まあ、このような最大のボトルネックをアメリカに握らせたままなわけですから、やはり日本は、アメリカの属国ということなのでしょうか?




哀しいですが、それが今に日本という国の現状なのです。




ですから、今回の集団的自衛権の行使容認は、それらがきちっと整備出来てこそ、本来の意味があるのです(逆を言えば、それらをしなければ、全く意味がありません)




このような議論を踏まえた上で、詭弁を使わずに済む、そして全うな自立国としての国民意識、法、インフラが構築できることを私は願います。




成長は何のためにするのか。



大人達が子供たちに対し、「今、勉強を頑張れば成長できるよ」とか「ここで踏ん張れば成長できるよ」などという鼓舞するような言葉がしばし使われているように思える。



にもかかわらず、当の大人達が、「成長は何のためにするのか?」という問いに対し、みな、言葉を詰まらせるのである。



私からしてみると甚だおかしな話なのだが、多くの大人達はその本質を見ようともせず、感覚的にその言葉を使っていたというのが実情なのだろう。



しかしよく考えてもらいたい。成長=目標と捉えれば、目標の中身を知らされずに、一日腹筋3000回やることは不可能だろうし、素振りを1000回こなすのも無理だろう。



それには明白に、サッカー選手になってW杯に出たいとか、プロ野球選手になりたいとかいう夢や目標があるからこそ耐えられるのだ。



もちろん、そういった明白な目標があればともかくとして、ほとんどの人間には、具体的な目標などほとんどない。



だから安易に「成長」という言葉を使いたがるというのも背景にはあるように思えるのだが、それでも何のために成長しなければならないのか?という問題を解決しない限り、それらはただの虚言に終わってしまうだろう。



にもかかわらず、子供たちや今の若い者には目標がないとか、やりたい事が無いとか、言うわけだから言われた側としては困惑ものだ。



では、本来、成長とは何のためにするのか?という問いに私なりに答えてみたいと思う。




それは一言で言えば、「楽になるためである」



例えば、赤ん坊が1kmの道のりをハイハイして移動しようとすれば、大変な労力を有するだろう。



それに対し、歩けるようになれば、また自転車や自動車に乗れるようになれれば、赤ん坊が使う労力の何倍も、何十倍も楽に移動できるだろう。



また精神的にも、一ヶ月以上、いや死にたいと思うほどの問題が起きたとしても、成長することで、それを半減させることも、限りなくゼロに近づけることもできる。



言い換えればこれも「楽」に生きられるようになったことになる。



もちろん、仕事も同じだ。同じ労力、時間でも、成長すれば何倍もの収入を得られるだろうし、余った時間を違うものに充てる事も可能になる。



このように、肉体、精神、知能、技術など、様々な人間の持つポテンシャルが成長したとき、必ずその人間は「楽」を手にするのである。



なんだそんなことか? と拍子抜けした読者の方もいるだろう。




しかし、そこに気がついて成長しようと思っていただろうか? 



それを意識して、自分に対し、また子供たちにも接していただろうか?



おそらくそれは無意識(本能は楽をしたい)でしかなかったはずだ。




私が何を言いたいか、と言えば、人は無意識レベルを意識レベルまで昇華させて認知しなければ、成長への道のりの努力が継続しないということなのだ(本能はより楽を求めるから)



先にも言ったように、何の目標もなく、一日何十時間も勉強などできやしない。それを強要すれば、それこそ精神を崩壊させるか投げ出すかのどちらかだろう。



人は明確な目標があってこそ、その精神を保ち、努力し続ける事ができるのである。




このように考えた時、「楽をするために成長するのだ」という明白なものがあれば、きっと子供たちもそれに向かって努力することが可能なのではないだろうかと思うのである。



もちろん、この「楽」には楽しいも内包されている。素振りを毎日1000回やってプロ野球選手になり、活躍できればきっとそれは楽しいだろうし、同時に収入面でも楽になるだろう。



また、成長の結果手にした楽は、様々な選択の自由も生み出すものだ。心で諭すと書く、「愉しい」もまた、楽になった結果に選択出来る一つだろう。





しかし、その楽や楽しいに個人差があるのも否めない。




「ここでもう楽だから努力は止めよう」というのは個人の資質であり自由であって、他者がそこに介在することは容易ではないだろう。



ただ同時に、楽は、これでいいんだと思った瞬間から、目標を失い、虚無に陥るということでもある。



所謂、楽はニヒリズムの元凶でもあるわけだ。




このように考えた時、成長は楽のためにし、楽になったらニヒリズムに陥るので、またさらに努力し、成長をし、楽になり、と人間は常に楽と努力と成長を繰り返し、ニヒリズムからの脱却に挑戦しつづければならない生き物であるということでもあるのだ。


ただし、それが同じ領域である必要はないだろう。ジェネラルに成長の幅を広げても良いだろうし、スペシャリストの道を極めると言うのもあるだろう。


もちろん、虚無に陥っても、努力し続けるより楽でいいと思う者も多くいるだろう。



それらは基本、個人の自由なのである。




しかし、私にはそのニヒリズムはどうやら成長する努力よりも遥かにキツいようである。



正直、これで良いと、歩みを止めてしまえる人間が羨ましくも思えるほどだ。



それでもこの歩みというものは、今まで積み上げてきた努力において、手にした成長後の「楽」という素晴らしさを知った者として、止める必要はまるで感じていない。



もちろん、これらには、時間軸という問題が絡んでくる。「楽」の中長期を考えた努力がそこにあるからである。



故に、これが老後であればまた違った考えになっているのかもしれないが、、、