成長は何のためにするのか。
大人達が子供たちに対し、「今、勉強を頑張れば成長できるよ」とか「ここで踏ん張れば成長できるよ」などという鼓舞するような言葉がしばし使われているように思える。
にもかかわらず、当の大人達が、「成長は何のためにするのか?」という問いに対し、みな、言葉を詰まらせるのである。
私からしてみると甚だおかしな話なのだが、多くの大人達はその本質を見ようともせず、感覚的にその言葉を使っていたというのが実情なのだろう。
しかしよく考えてもらいたい。成長=目標と捉えれば、目標の中身を知らされずに、一日腹筋3000回やることは不可能だろうし、素振りを1000回こなすのも無理だろう。
それには明白に、サッカー選手になってW杯に出たいとか、プロ野球選手になりたいとかいう夢や目標があるからこそ耐えられるのだ。
もちろん、そういった明白な目標があればともかくとして、ほとんどの人間には、具体的な目標などほとんどない。
だから安易に「成長」という言葉を使いたがるというのも背景にはあるように思えるのだが、それでも何のために成長しなければならないのか?という問題を解決しない限り、それらはただの虚言に終わってしまうだろう。
にもかかわらず、子供たちや今の若い者には目標がないとか、やりたい事が無いとか、言うわけだから言われた側としては困惑ものだ。
では、本来、成長とは何のためにするのか?という問いに私なりに答えてみたいと思う。
それは一言で言えば、「楽になるためである」
例えば、赤ん坊が1kmの道のりをハイハイして移動しようとすれば、大変な労力を有するだろう。
それに対し、歩けるようになれば、また自転車や自動車に乗れるようになれれば、赤ん坊が使う労力の何倍も、何十倍も楽に移動できるだろう。
また精神的にも、一ヶ月以上、いや死にたいと思うほどの問題が起きたとしても、成長することで、それを半減させることも、限りなくゼロに近づけることもできる。
言い換えればこれも「楽」に生きられるようになったことになる。
もちろん、仕事も同じだ。同じ労力、時間でも、成長すれば何倍もの収入を得られるだろうし、余った時間を違うものに充てる事も可能になる。
このように、肉体、精神、知能、技術など、様々な人間の持つポテンシャルが成長したとき、必ずその人間は「楽」を手にするのである。
なんだそんなことか? と拍子抜けした読者の方もいるだろう。
しかし、そこに気がついて成長しようと思っていただろうか?
それを意識して、自分に対し、また子供たちにも接していただろうか?
おそらくそれは無意識(本能は楽をしたい)でしかなかったはずだ。
私が何を言いたいか、と言えば、人は無意識レベルを意識レベルまで昇華させて認知しなければ、成長への道のりの努力が継続しないということなのだ(本能はより楽を求めるから)
先にも言ったように、何の目標もなく、一日何十時間も勉強などできやしない。それを強要すれば、それこそ精神を崩壊させるか投げ出すかのどちらかだろう。
人は明確な目標があってこそ、その精神を保ち、努力し続ける事ができるのである。
このように考えた時、「楽をするために成長するのだ」という明白なものがあれば、きっと子供たちもそれに向かって努力することが可能なのではないだろうかと思うのである。
もちろん、この「楽」には楽しいも内包されている。素振りを毎日1000回やってプロ野球選手になり、活躍できればきっとそれは楽しいだろうし、同時に収入面でも楽になるだろう。
また、成長の結果手にした楽は、様々な選択の自由も生み出すものだ。心で諭すと書く、「愉しい」もまた、楽になった結果に選択出来る一つだろう。
しかし、その楽や楽しいに個人差があるのも否めない。
「ここでもう楽だから努力は止めよう」というのは個人の資質であり自由であって、他者がそこに介在することは容易ではないだろう。
ただ同時に、楽は、これでいいんだと思った瞬間から、目標を失い、虚無に陥るということでもある。
所謂、楽はニヒリズムの元凶でもあるわけだ。
このように考えた時、成長は楽のためにし、楽になったらニヒリズムに陥るので、またさらに努力し、成長をし、楽になり、と人間は常に楽と努力と成長を繰り返し、ニヒリズムからの脱却に挑戦しつづければならない生き物であるということでもあるのだ。
ただし、それが同じ領域である必要はないだろう。ジェネラルに成長の幅を広げても良いだろうし、スペシャリストの道を極めると言うのもあるだろう。
もちろん、虚無に陥っても、努力し続けるより楽でいいと思う者も多くいるだろう。
それらは基本、個人の自由なのである。
しかし、私にはそのニヒリズムはどうやら成長する努力よりも遥かにキツいようである。
正直、これで良いと、歩みを止めてしまえる人間が羨ましくも思えるほどだ。
それでもこの歩みというものは、今まで積み上げてきた努力において、手にした成長後の「楽」という素晴らしさを知った者として、止める必要はまるで感じていない。
もちろん、これらには、時間軸という問題が絡んでくる。「楽」の中長期を考えた努力がそこにあるからである。
故に、これが老後であればまた違った考えになっているのかもしれないが、、、