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愛とは能力?



正直、愛について語るには、あまりにも羞恥というものがある。


そもそも愛などというのは、あまりにも観念的であって、実体というものが曖昧であり、拙者もそれがどういったものか、明確に答えを出せないからである。


故に、フロイトのように、愛=リビトー(性愛)に集約させ結論づけるのは、性愛さえ満たされていれば愛は満たされいるなどというのはあり得ないことから、正直、乱暴と言わざる得ない。



また、ある種の合理的思考でそれらを理解しようとするのも無理があるだろう。


それでも、経済の発展や進歩と共に、この合理的思考というものが、愛の領域さえも侵しているのが、現代社会ではないのか? とも思えてしまう。



それは個人の理性を重んじた利己主義ということに、愛が成り下がってしまった、と言う風にも言い換えられるのかもしれないが、私は正直、このような愛を、愛だと思う事自体が、愛を失った社会、世界の証拠ではないだろうか、とさえ思うのである。



では愛とは何なのだろうか? 先にも述べたように私にはその明白な答えをだす能力は正直ない。



しかしながら、その側面において、愛とは能力である!とは言い切れる。



一般的な合理的思考の元では、愛は能力ではなく、その対象とされている傾向にあると思う。


例えば、私が誰も愛せないのは、愛せる対象がいないからだ、だとか、私がこの人を愛しているのは、この人が私に愛されるような対象だからだ、ということだ。



しかし、それは完全なる利己に他ならず、愛とはむしろと遠縁であると私は思うのである。



もちろん、配偶者や恋人を世界中の人々と同じレベルで愛せるか、と言われればそれは不可能なことである。


しかしながら、恋人や配偶者以外の人を愛せない人間に、本当に恋人や配偶者を愛する事など可能だろうか?



裏を返せば「この人は私だけを愛してくれる」は、この人はそもそも愛する能力が欠如しているにも関わらず、孤独を紛らわすための共生的愛着や、自己中心的思考によって、私を愛しているフリをしているだけに過ぎない、ということである。



しかし人々はこれに酔いしれるのである。その根幹は、所有欲であり、これもまた孤独から回避するための自己中心的思考なのである。



ただ、こういう言い方をするとある誤解も生じる。



それは自己愛=真実の愛ではない、といった考えだ。



しかし、それも間違いである。自己愛であれ、他者に対する愛であれ、根幹部分である、能力というものに大きな差異は無い。



自分を真剣に愛せない人間に、まして他者を真剣に愛せるのか?ということである。




しかし現代社会では、地域の繋がりが希薄になりつつあり、また経済的、科学的進歩によって、人の欲望は止めども無く拡張し、個人主義の名の元に、家族関係すら希薄になっている。



その結果、自らを真剣に顧みることもせず、物事の問題の責任は社会や他者に押し付けることが当たり前のように行われるようになってしまったのだが、これは、本来の自己沈潜による自己愛ではなく、単なる自己疎外的利己主義者になっているだけなのである。



まさに、このような状況は、そもそもの「愛の能力」を著しく低下させる要因や結果であり、今後の、いやまさに現代は、「愛のない世の中」へと変化してしまった証なのである。



それを証明するかのように、現代では他者に対する関心というものが極めて薄く、また、そこに踏み込まれることも嫌悪する。



その一方で表面的なSNSなどによって他者からの評価や繋がりを異常なまでも気にする。



自分が誰かから愛されないことに不安感や疎外感を覚えているというわけだ。



そもそも人間は他者との共生によって不安を解消したり、精神的安寧を得たりできる生き物なだけでに、そういった感覚が本能的であり、否定するものでもない。



しかしながら、本来の愛とは「愛されることを望むのではなく、愛することが前提」であり、まさに愛する能力そのものが現代では問われているわけである。



では、どのようにして愛が育まれるのだろうか?



それはまさに、健全な家庭環境が育むと私は考えるのである。



母親からの無償で寛大な愛(決して所有欲などの甘やかしではない)と、父親からの秩序や規律と言った社会的適応を教える愛の調和こそが、愛の能力を育てるのである。



そしてそこがベースとなり、先祖、兄弟や親戚、地域、社会、国家や伝統へと繋がりを見せるであって、その根幹部分が欠落することこそが、最大の問題であると私は考えるのである。



しかしながら、先にも述べたように、現代社会はそういった物を極めて希薄にする数々の環境があり、これらは人間の本能や理性と相まって、極めてたちの悪い病魔と化しているのである。



これに歯止めを掛けるには、家族のあり方、歴史や伝統の大切さを今一度見直すしか他に方法は無いだろう。





正直、愛は何なのか、このように書き終わってもまったく私の中では解決できない問題ではあるのだが、少なくとも、愛とは能力であり、与えるものである、ということは現段階の考察の中で見えてきたものであることを確信しつつ、今回は終わらさせてもらう事にする。










理解したフリ


ずいぶん前に、ある方からこんな話を聞いた。


「一人の人間が一人の人間を理解するには、一生かかっても無理だ」と


まあ、至極当たり前の言葉なのだが、その後、私は、その当たり前を理解している人にほとんど出会った事が無い。



特に、長年連れ添った夫婦や結婚を決めた夫婦など、多くの男女は、互いに理解していると思い込んでいるようにしかみえなかった。それは、ある意味、「理解したフリ」をしているだけに過ぎないのではないか、と。(裏を返せば私自身も彼らのことを理解したフリをしてるだけに過ぎない)




しかし、なぜ人は人を理解しようとし、また理解したフリをするのだろうか? 




そこをひも解くと、人間の根幹部分である孤独からの回避というものが見えてくる。



当然だが、人は一人では生きてゆけない。また、例え社会的な関わりがあったとしても、心の関わりがなければ、それもまた多くの不安の元凶となり、生きてゆくことが困難になるだろう。



それ故に人は、誰かと自分を同一化し、共有したいという強い願望を抱くのだ。



そしてそれは結婚や長期的な付き合いの中で、より強固になったと感じるわけだ。



しかしそれは錯覚にすぎないのではないだろうか。所詮、人は自分自身のことさえも、正しく理解することは不可能であり、まして他者のことを理解するなど、表象部分を除いて、決して出来る事ではないと思うのだ。


では、その表象というのは、一体何なのだろうか。それはある種のパターンに過ぎないのではないか?というのが私の見解である。


例えば、以前、この人はこのような状況のときには、こういう風に考え、こういう風に行動したという記憶に基づく推測であり、パターン化されたものから抽出しただけではないだろうか、と思うわけだ。



しかし、その推測は確率論的に、またその一側面においては間違いではない。いや、だからこそそこに理解したフリという錯覚が生じるのだろう。



それでも、それはあくまで過去からのデータによる推測に過ぎず、それがその状況で100%そうなることなどはあり得ないはずだ。


むしろ、人間は状況や環境によって日々変化する生き物であり、過去のデータほど当てにならないものはないだろう(逆に成長しなければしないほど当たる確率は上がる)



もちろん、これはマクロ的に歴史を否定するものではなく、むしろそこは極めて重要なデータであることは言うまでもない(歴史を否定できないのは、人間という生物自体が、産業、技術、科学的進歩とは別に、全くもって成長していない証でもあるだろう)



私が言いたい事は、そういったことではなく、その個人の過去によって何事も推測し、決めつけることこそ、一番危険なことではないか?という話なのだ。



やや話が逸れるが、犯罪を犯した者の過去の生い立ちを取り上げ、こういう育て方をされ、こういう考えや趣味趣向になったから、こういうことをしたんだ。と人々は決めつけ、その者の犯罪行動を理解したフリをし、不安を取り除こうとしているのだ。




もしも、その者が、その他大勢と全く同列であり、同一であった場合、それはむしろ、その他大勢の中の自分自身も同じ犯罪を犯すことを意味し、それを否定し、安心するための材料としてこのような手法を使いたがるとも言い換えられるだろう。




このように人は人を理解したがる生き物であり、理解したフリをすることで不安から逃れようとするのである。




こうして考えた時、そのほとんどの人間関係において、理解したフリをしていることになるだろう。



もちろん、それが社会であり、だからこそ社会は円滑に流れるのだ、という主張は最もである。



しかし、それは決して健全な人間同士の関係性だとは私には思えないのである。



なぜならば、理解したフリからは、本当に理解しようとする意志がそもそも欠落しまうからである。




当たり前だが、理解しているものを理解しようとはしないのであり、また、そもそもその個人において必要ではないと判断すれば、理解するという意識すらも不要だ。




そして、そのある種の妄想の中で、長い年月を積み上げ、それは漠然とした自信へと繋がるのだが、それはあくまで脆弱な虚構でしかなく、何かの瞬間に、その関係性はいとも簡単に崩壊するのである。



また、その崩壊後も、彼らは同じ事を繰り返しながら、瞬間的な快楽や不安からの回避を続けるのであり、全くもって、「一人の人間が一人の人間を理解するには、一生かかっても無理だ」と言う本質に触れさえもできないのだ。




では、どうすれば、例え不可能であっても、そこに近づけるだろうか?



その一番は自覚と意識であると私は思うのである。



自覚はもちろん、「一人の人間が一人の人間を理解するには、一生かかっても無理だ」ということを常に自覚することである。



そして意識は、どうすれば、相手のことを理解できるだろうか?と意識し続けることである。



この意識には、前提として意志が在り、その意志の前提には愛があるのは言うまでもない。



この場で意志や愛について語ることは避けるが、少なからず、「与える」という能動的な感情無くして、また、その関係性をより強い物にしようと試みる意志なくして、互いの理解を深める事は不可能である。



また同時に、「愛とはコミュニュケーション」という側面もあるだろう。



肉体的な繋がりや行動による愛情表現ももちろんある。しかしそれはコミュニケーションと一体となることでより強固になると思うのだ(例えば肉体的な繋がりだけであれば、それは愛ではなく、性への隷属である)



また、目を見ていればわかる、だとか、長い間一緒にいれば、阿吽の呼吸で理解できる、というのは一つの日本的美学で素晴らしいのだが、そういった感覚も、あくまで今まで述べてきたことが無ければ、それこそ過去のデータをパターン化しただけに過ぎず、表象を理解したフリに成り下がるだろう。



このように、長い時間をかけた結果がそれでは、あまりにも虚しいのではないだろうか。



それ故に私は、たった一度の人生において、そういった脆弱な関係性を作りたいとは全く思わないのである。



当然、それは他者を介在してるわけで、とても難解であるし、不可能かもしれない。



しかし、それこそ、人生最大の挑戦なのではないだろうか。



「一人の人間が一人の人間を理解するには、一生かかっても無理かもしれない。それでも挑戦する価値がある」





現段階の私の答えはこれである。





リスクの分析とプライオリティー



個々人であっても、企業であっても、国家であっても、つねに何かをするとき、また何かをしないときでさえも、リスクというのはつきまといます。



そのときに、私たちはまず何をするでしょうか?




そのリスクについて、デメリット、メリットを考え、その損得勘定においてそれを受け入れるか否かを決めるはずです。



もしも、そのときの分析が甘く、リスクを過小評価したらどうでしょうか?
また逆に過大評価したらどうでしょうか?



当然、この分析結果が、生きる上で受け入れなければならない様々なリスクに対処するためのプライオリティー(優先順位)を決定付けますから、ここで分析を間違えてしまうと、全てが狂ってしまいます。




もちろん、その見誤りは個人レベルでは、大した失敗にならないかもしれませんし、最悪その個人がその責任を全て負えば済むでしょう。



しかし、企業になればそうは行きません。従業員はもちろんのこと、その家族の将来設計にも大きな影響を与えてしまうからです。



さらに国家レベルになれば、それこそミスは許されなくなります。もしも、その分析を見誤り、プライオリティーを間違えてしまえば、国益を大きく損ない、場合によっては国家の存続すら危うくなるからです。



では、今の日本におけるリスクを書き出してみましょう。



1)東南海地震、首都直下型地震などの災害リスク



2)デフレの悪化による経済リスク



3)エネルギー自給率が低いリスク




4)世界的気候変動による食料不足のリスク




5)国家財政リスク




6)中国などの軍事的リスク




7)グローバリズムによる世界同時不況リスク




8)地方の衰退によるリスク





9)少子高齢化のリスク





10)民主主義のリスク




11)男女平等リスク




12)原発リスク





13)歴史伝統の崩壊リスク





ざっと上げただけでもこれだけの国益を大きく損なうようなリスクが我が国にはあります。








※細かな説明は中野剛志「日本防衛論」をお読みください。





現実的には、これらのリスクが複合的に絡み合い、よりリスク分析を複雑化させています。




また原発のように、どちらかを選べば、どちらかを失うというトレードオフの問題もあります。





さらにデフレ脱却や防災は、財政健全化とトレードオフの関係にあると言えるかもしれません。




このように、リスク同士でどちらかを選ばなければならない状況も多くあるわけです。






個人的見解は、中野剛志氏が著書で述べている通りであるので、あえてここでは申し上げませんが、現在の政府は戦後最大の、大変難しい舵取りを迫られていることは間違いありません(状況的には戦前以上ではないかとも思います)




ですから、このリスクの分析とプライオリティーが正確でなければ、それこそ、中野氏が言うような、大変な損害を被る事になるでしょう。





ちなみに、安倍政権の中でプライオリティーが高いのは、何でしょうか?




どんなリスク分析をして、どんプライオリティーで進んでいるでしょうか?




その設計図を想像すると、末恐ろしくなります、、、




まあ、それも民主主義リスクであることは否めないのですが。