理解したフリ
ずいぶん前に、ある方からこんな話を聞いた。
「一人の人間が一人の人間を理解するには、一生かかっても無理だ」と
まあ、至極当たり前の言葉なのだが、その後、私は、その当たり前を理解している人にほとんど出会った事が無い。
特に、長年連れ添った夫婦や結婚を決めた夫婦など、多くの男女は、互いに理解していると思い込んでいるようにしかみえなかった。それは、ある意味、「理解したフリ」をしているだけに過ぎないのではないか、と。(裏を返せば私自身も彼らのことを理解したフリをしてるだけに過ぎない)
しかし、なぜ人は人を理解しようとし、また理解したフリをするのだろうか?
そこをひも解くと、人間の根幹部分である孤独からの回避というものが見えてくる。
当然だが、人は一人では生きてゆけない。また、例え社会的な関わりがあったとしても、心の関わりがなければ、それもまた多くの不安の元凶となり、生きてゆくことが困難になるだろう。
それ故に人は、誰かと自分を同一化し、共有したいという強い願望を抱くのだ。
そしてそれは結婚や長期的な付き合いの中で、より強固になったと感じるわけだ。
しかしそれは錯覚にすぎないのではないだろうか。所詮、人は自分自身のことさえも、正しく理解することは不可能であり、まして他者のことを理解するなど、表象部分を除いて、決して出来る事ではないと思うのだ。
では、その表象というのは、一体何なのだろうか。それはある種のパターンに過ぎないのではないか?というのが私の見解である。
例えば、以前、この人はこのような状況のときには、こういう風に考え、こういう風に行動したという記憶に基づく推測であり、パターン化されたものから抽出しただけではないだろうか、と思うわけだ。
しかし、その推測は確率論的に、またその一側面においては間違いではない。いや、だからこそそこに理解したフリという錯覚が生じるのだろう。
それでも、それはあくまで過去からのデータによる推測に過ぎず、それがその状況で100%そうなることなどはあり得ないはずだ。
むしろ、人間は状況や環境によって日々変化する生き物であり、過去のデータほど当てにならないものはないだろう(逆に成長しなければしないほど当たる確率は上がる)
もちろん、これはマクロ的に歴史を否定するものではなく、むしろそこは極めて重要なデータであることは言うまでもない(歴史を否定できないのは、人間という生物自体が、産業、技術、科学的進歩とは別に、全くもって成長していない証でもあるだろう)
私が言いたい事は、そういったことではなく、その個人の過去によって何事も推測し、決めつけることこそ、一番危険なことではないか?という話なのだ。
やや話が逸れるが、犯罪を犯した者の過去の生い立ちを取り上げ、こういう育て方をされ、こういう考えや趣味趣向になったから、こういうことをしたんだ。と人々は決めつけ、その者の犯罪行動を理解したフリをし、不安を取り除こうとしているのだ。
もしも、その者が、その他大勢と全く同列であり、同一であった場合、それはむしろ、その他大勢の中の自分自身も同じ犯罪を犯すことを意味し、それを否定し、安心するための材料としてこのような手法を使いたがるとも言い換えられるだろう。
このように人は人を理解したがる生き物であり、理解したフリをすることで不安から逃れようとするのである。
こうして考えた時、そのほとんどの人間関係において、理解したフリをしていることになるだろう。
もちろん、それが社会であり、だからこそ社会は円滑に流れるのだ、という主張は最もである。
しかし、それは決して健全な人間同士の関係性だとは私には思えないのである。
なぜならば、理解したフリからは、本当に理解しようとする意志がそもそも欠落しまうからである。
当たり前だが、理解しているものを理解しようとはしないのであり、また、そもそもその個人において必要ではないと判断すれば、理解するという意識すらも不要だ。
そして、そのある種の妄想の中で、長い年月を積み上げ、それは漠然とした自信へと繋がるのだが、それはあくまで脆弱な虚構でしかなく、何かの瞬間に、その関係性はいとも簡単に崩壊するのである。
また、その崩壊後も、彼らは同じ事を繰り返しながら、瞬間的な快楽や不安からの回避を続けるのであり、全くもって、「一人の人間が一人の人間を理解するには、一生かかっても無理だ」と言う本質に触れさえもできないのだ。
では、どうすれば、例え不可能であっても、そこに近づけるだろうか?
その一番は自覚と意識であると私は思うのである。
自覚はもちろん、「一人の人間が一人の人間を理解するには、一生かかっても無理だ」ということを常に自覚することである。
そして意識は、どうすれば、相手のことを理解できるだろうか?と意識し続けることである。
この意識には、前提として意志が在り、その意志の前提には愛があるのは言うまでもない。
この場で意志や愛について語ることは避けるが、少なからず、「与える」という能動的な感情無くして、また、その関係性をより強い物にしようと試みる意志なくして、互いの理解を深める事は不可能である。
また同時に、「愛とはコミュニュケーション」という側面もあるだろう。
肉体的な繋がりや行動による愛情表現ももちろんある。しかしそれはコミュニケーションと一体となることでより強固になると思うのだ(例えば肉体的な繋がりだけであれば、それは愛ではなく、性への隷属である)
また、目を見ていればわかる、だとか、長い間一緒にいれば、阿吽の呼吸で理解できる、というのは一つの日本的美学で素晴らしいのだが、そういった感覚も、あくまで今まで述べてきたことが無ければ、それこそ過去のデータをパターン化しただけに過ぎず、表象を理解したフリに成り下がるだろう。
このように、長い時間をかけた結果がそれでは、あまりにも虚しいのではないだろうか。
それ故に私は、たった一度の人生において、そういった脆弱な関係性を作りたいとは全く思わないのである。
当然、それは他者を介在してるわけで、とても難解であるし、不可能かもしれない。
しかし、それこそ、人生最大の挑戦なのではないだろうか。
「一人の人間が一人の人間を理解するには、一生かかっても無理かもしれない。それでも挑戦する価値がある」
現段階の私の答えはこれである。