ひより -33ページ目

男の価値


男の価値とは何だろうか?という居酒屋で盛り上がりそうなテーマで話をすると、



まあ、抱いた女の数だとか、地位や名声やら、種を残すことやら、稼いだ金額やら、家の大きさやら、嫁さんのキレイさやら、車の質やら、そんな表面的な話ばかり。




もちろん、それらすべてが間違っているとは言わないけれど、そんなものが男の価値だとすると、ずいぶん男って生き物は寂しい生き物だな、と悲観してしまうわけで。




では、私が考える本当の男の価値とは何か?と言えば、最後は「家族の幸せ」なのではないかな、と思うのだ。




言い換えれば、配偶者と成長した子どもを見れば、その男の価値のほとんどがわかるのではないだろうかとさえ思う。



たとえば、配偶者の性格や容姿、立ち振る舞い、愛情、それらは全てと言って良いほど、男が関係してくるだろうし、子どもの人間形成しかり、まさに男がその環境をどう作り上げたのか、ということに起因せざるをえないだろう。




そしてその結果が、「男の価値」を決めていると私は思うのである。



「そんなこと言ったら、独身の俺は価値が無いのか!」という独身者の男達へ。



はっきり言えば、ずばり価値は無い。



ただそれは、人間としての価値を否定するものでは一切なく、男としての本質的価値(生物学上ではない本質)が「 今 の 所 」ないと言っているだけだ。



当然、一人の人間としては、ある一定の社会的ルールさえ守れば自由に生きて良いと思うし、それを他者にどうこう指図を受ける必要も義理も無いだろう。



しかしながら、男が一人で生きて行く、などというのは、正直「お荷物を背負いたくないという甘え」にしか思えないのだ。



もちろん、「いやいや、好きな人ができないんだ!」とか「彼女ができないんだ!」という独身男もいるだろう。


しかし、その貴方、人を愛する努力や訓練はしましたか? 魅力ある自分になるように努力しましたか?


結局は、努力したフリか、してこなかったか、諦めたかではないですか?



それは自分に対する「甘え」ではないのですか?



とまあ、男の私が、男に対して厳しく喝を入れたくなったのも、年々男が男らしくなくなっているような実感を覚えてならないからであって、彼らを陥れたいわけでも、完全否定したわけでもない。




もちろん、この話はなにも男だけではなく、女にも言えているということを最後に付け加えつつ、そしてまた、私が多くの大衆人に嫌われたことを自覚しつつ終わる。






武器輸出三原則の撤廃


ようやくですが、我が国を縛り続けてきた一つである武器輸出三原則の撤廃に向けた動きが活発化してきました。


個人的には、日本製の戦闘機などの武器が他国の戦争で使われ、多くの人々が亡くなるかもしれないことに決して諸手を上げて賛成はできません(政府は紛争国には輸出しないとしていますが、そんなものは転売されたらわからない)



しかし、ここでもまた、「じゃあ、それをしなければどうか?」という現実問題と向き合わなければなりません。(前回でも話したように、やるのもやらないのも、双方にリスクは存在するわけですから)




現実として、日本の軍事システムはアメリカに完全依存していると言っても過言ではありません。



言い換えれば、アメリカの力が弱まった時(既に弱まってますが)、またアメリカの経済が落ち込んだとき、日本は独自で自国を守るどころか、アメリカの国益に沿ったことを強いられることになるのです。



たとえばTPP交渉にしても、最後にアメリカが、「日本に武器は売らないよ」と言ってしまえば、日本側としては強行的に自分の国益を守るとはできないでしょうし、相対的にアメリカの力が弱まれば、それに呼応するように、日本も力を弱め、中国に付け入る隙を与えてしまう事になるでしょう。



このように現実を考えた時、依存から脱する一つの手段として武器輸出三原則の撤廃は喫緊の課題となる事は避けられないでしょう。



また、そのメリットの側面として、アメリカに武器を輸出できるというのも大きいでしょう(アメリカが買うかどうかは政治的判断ですが)



相互に依存関係になれば、アメリカも日本を蔑ろにすることが難しくなるからです。





しかし、同時にデメリットも存在します。



先に話したように、日本製の武器で誰かが殺されることもあるかもしれませんし、アメリカのように、軍産複合体を産み出す可能性もあります。



そういったリスクを踏まえた上で(全てのリスクを排除することは不可能だけれど)、依存から脱していく方法というものをしっかりと議論していかなければ、それこそ平和な未来など構築できるわけがありません。



正直、理想を語るのは簡単なことです。



武器のない、それこそ、核のない世の中になればいいとは思います。



しかし、現実には、アメリカもインドもロシアも、ましてや日本が敵国認定されているかのような態度や行動を繰り返す中国や、危うい独裁国家の北朝鮮でさえも核を保有してしまっているという事実を変える事はできませんし、アメリカの相対的弱体化と中国の台頭という現実を否定する事もできません。



こういった地政学的問題や事実を直視すれば、当然、我が国としても、最大限リスクを回避する努力をしなければなりませんし、そのためには核の力の均衡というものも考えざるを得ないのではないでしょうか。



歴史が物語るように、世界の現実は日本人が思っているほど理想的ではないのです。(むしろ、かなりえげつないでしょう)



正直、このような平和ボケした我が国において、核保有は非現実的であるとは思いますが、それでもそういう議論さえしない、というのは極めて平和維持に対する傲慢と妄想でしかないと私は思います。



先人達が命を捧げて守ろうとした日本を、私たち現代人が、当たり前のように享受し、何もしなければ何も起きない的な思考停止でもって壊してよいものでしょうか。




憲法9条さえあれば日本は平和になるだとか、武器を輸出しなければ日本は平和になるだとか、集団的自衛権を行使しなければ日本は平和になるだとか、いい加減、理想論と妄想をやめてもらいたいものです。

(もちろん、武器輸出や集団的自衛権をやったからといって確実に平和維持が出来るかといえばそうではありません。しかし、少なくともやらないよりはやったほうが確実にリスクは低くなるでしょう。ようは確率の問題です)



そして、本当に平和維持を願うのであれば、「何もしない」から、「平和のために何かをする」に国民の意識がレジュームチェンジしなければならないと私は思うのです。





リスクの二面性



物事には必ず、選択したリスクと選択しなかったリスクという二面性があります。



しかしながらほとんどの方々はそれを両面から見ずに、片側だけのリスクを語りがちです。



たとえば原発問題ですが、原発を稼働させるリスクと稼働させないリスクがありますし、集団的自衛権に関しても同様の両面的なリスクがあるわけです。


また福島産の農作物を食べるリスクと食べないリスクというのもあるでしょう。



それは放射能を怖がって食べないか、それとも福島で生産する方々の生活を壊すのか、そういう選択でもあるわけです。



社会科学者の中野剛志氏がこんなことを言っていました。


「リスクを正しく理解出来ない日本人こそ、最大のリスクである」
と。



なるほどと思わず頷かざるを得ないほど、日本人はリスクということを正しく理解していないように思える言動があまりにも多いように思えてなりません。




そして、そこには結局、想像力の欠如というのが根底にあるのです。


オルテガが大衆人(バカ)とは、傲慢性と自己閉鎖性を持った自己中心的な人間のことであると言いましたが、まさにそれらは矮小な想像力と視野の持ち主であり、中野氏の言う、リスクを正しく理解できない日本人ということになるのでしょう。



またドイツの哲学者ショーペン・ハウエルは、真実は彼岸側から見ずして見る事はできない、と言ったことも言っています。



これもまた、その事象を逆側からの視点を持って判断しなければ、ちゃんとした判断はできない、と言っているわけです。




果たして私たち日本人は、今後、彼岸側から見る視野を持つ事が出来るのでしょうか?



いや、持たなければ、それこそ、中野氏の言う、最大のリスクが私たち日本人になってしまうかもしれませんね。