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電力の自由化が国を滅ぼす


いよいよ、安倍内閣の電力自由化が本格化してきました。


私はこの話が出てきた当初から、電力の自由化は、我が国のエネルギー安全保障を脅かすと共に、中小企業、家庭に大きな負担増という打撃を与え、可処分所得と企業利益が縮小する、いわゆるスタグフレーションやスクリューフレーションになる恐れが極めて高いと危惧しておりました。



では改めてその根拠を説明してきましょう。


まず、電力というのは、私たちが嫌でも使わなければならない、税のようなインフラですので、例えその電力が高騰しようが、絶対に買わないわけにはいかないものなのです。


言い換えると、一定の需要が必ずあるのが電力業界なのです。


さらにそのような状況の中で三つの大きな問題があります。


一つは原発の停止。もう一つはFITと呼ばれる再生可能エネルギー買い取り制度です。


そして最後には、原発停止とFITと自由化の組み合わせが最悪だということです。



そもそも原発の停止はご存知の通りランニングコストを急激に上げ、また火力に頼る以上、為替や国際情勢に大きく左右されてしまいます(以前にも書きましたが、ホルムズ海峡やマラッカ海峡で不測の事態が起これば、それこそ我が国の電力は危機にさらされてしまいます)



しかしそのような状況であるにも関わらず、電力会社はそう簡単には電気代を上げる事ができません。そうなるとその分を電力会社が負担しなければならなくなるのです。



その証拠に、北海道電力や九州電力は大幅に赤字を積み上げ、経営危機に陥っています。


さらに大きな問題は、FITの導入です。


これはある意味、市場原理を無視した制度であり、自動的に再生可能エネルギーを生産した企業が大元の発送電会社に対し、決められた値段(1Kwh42円)で買い取らせ、さらにはその負担が選択の余地無く消費者に負わされるわけですから、まさに、インフラの一部を企業が横取りしているようなものです。


このように一方では自由化、一方ではFITという政府保護を行ってるわけであり、極めて歪んだ構造であることがここでおわかりいただけるかと思います。



これをわかりやすくボクシングの世界で喩えてみると、ミニマム級(FIT)は選手登録するだけで全員がチャンピオンになれ、その他の階級は、フライ級からヘビー級までみんな同じリングで戦えということになるわけです。



こうなった場合、わざわざミニマム級以外で戦おうとする人はいるでしょうか?



大きな選手と戦い、さらに大きな選手もリスクの割には報酬は安定しない、又はいつチャンピオンから陥落するかもわからないような選択をする人は、よほどの物好きか競争好きでしょう。


そうなると、自由化された後、多くの企業は自動的にチャンピオンになれるFITに向かうのは必然とも言えるわけです。



また原発停止後は極めて供給能力が落ちているために、競争原理がそこに働くと、価格の下落どころか、高騰を生むのです。


そもそも市場原理において、価格の下落は需要よりも供給が上回っているときに起き、その逆では上昇するものなのです(これは経済の基本ですが、長引くデフレによって価格が競争によって落ちるものだと思い込んでいる日本人が極めて多いのです)



まとめると、競争原理が働いた結果、多くの参入企業は自動的に利益をだせるFITに向かい、火力などのあまり利益が期待できないような(むしろ今やれば赤字)発電には参加せず、また参加しても、値段を上げて利益を確保する、ということが起きるか、又は完全に市場原理に任せてしまえば、それこそ安定的な電力供給が出来ず、日本人の生活が危ぶまれることになるでしょう。



もちろん、そうなる前に政治が介入するかもしれませんが(その地点で何のための自由化?となるわけですが、、)その負担は国民が払うことになり、自由化した結果が実はその参入した企業に、我々の所得が横取りされているだけという状況になるという、なんとも笑い話にもならないような話なのです。



さて、これでもまだ自由化を進めますか???


と、まあ皮肉を込めて書かせて頂きましたが、みなさんいかがでしょうか?


テレビの討論番組がろくでもないのはなぜか?


よく、日曜討論だとか、たけしのなんとタックルだとかを拝見していると、まあ、くだらない議論とも言えないような話をしているな、と辟易する。


しかし、そんな内容にも関わらず、出演者の中には、とても全うで賢い者も含まれているのだ。



では、なぜそんな賢い者がいるにも関わらず、そんなくだらない議論に終始してしまうのだろうか。



それをひも解くに当たって、京都大学の藤井研究室で行われたある実験が参考になる。



この実験は、オルテガが定義する大衆人【自己閉鎖性と傲慢性を持った者】と、そうではない非大衆人とに学生を分類させ(様々な質問によって)、その分類ごとに、大衆人同士、非大衆人同士、大衆人と非大衆人と三パターンで議論を試みたものだ。



その結果、大衆人同士では、終始、自分の意見を変える事無く、相手を如何に論破するかに重点が置かれ、結論を出すことは出来なかった。



それに対し、非大衆人同士は、当初の考えを何度も変更する場面が見られ、皆が納得する結論を導くことができた。



そして最後の組み合わせである大衆人と非大衆人はどうかと言えば、結果は双方とも考えを一切変えない、という結果となり、結論を出す事ができなかった。




この結果を踏まえた上で考えると、テレビやラジオの討論番組のほとんどが、この大衆人が入り込んでいる(又はほとんどが大衆人)がゆえに、非大衆人がまともな意見を述べても、新たな結論を生み出すことも無ければ、双方とも相手を論破することに終始し、話し合いが決裂するだけになってしまうのも頷ける。



これは、そもそもヘーゲルの弁証法のような議論を可能とするのは、非大衆人同士でしか成り立たないということを意味しているのであって、テレビ討論しかり、国会も同様に、このような大衆人が入り込むことにより、議論が噛み合ず、政治が停滞し、混沌とするのは当たり前のことであることがわかる。




しかしだからといって、それで良いと言うわけではない。しっかりとした弁証法的な議論がなされない限り、本来の国会の意義は失われるだろうし、またその前提において、国会議員を生む有権者達が目にするようなテレビ討論なども、大衆人を排除して行われない限り、まともな議論など出来るわけもない。



もちろん、見方を変えれば、双方の意見を聞く事ができ、そのどちらが矛盾なく、また全体をプラグマティックに考えているのか、という「物語」まで想像できる能力が視聴者にあれば、むしろこういった番組は極めて有意義と言えるだろう。



しかし現実はその逆であり、単なる政治的パフォーマンスを愉しんでいる傍観者に過ぎないのだ。



このような視聴者と出演者の関係が改善されないのであれば、先に述べたように、討論から大衆人を排除せざるをえないという結論に至ってしまう。



ただし、それもまた理想論であることは否定のしようもない。



そう考えた時、日本の言論界や視聴者のリテラシーは壊滅状態にあると言っても過言ではないのではないだろうか。



拙者も少なからずその大衆人の要素を持っているという自認があるのだが、それでも「可能性を否定できない人間」にはなりたくないと常々思っている。


例え、相手が大衆人であろうとも、相手の意見を排除しようとは思わない。しかし同時に、それがあまりにも的外れで議論の余地すらない場合には正直、どうして良いのかわからない。


大げさかもしれないが、どんなに素晴らしい映画や小説であっても、それを理解する能力、感じる能力が無い者にとって、それは駄作でしかないという現実もあるのだ。



闘うという意志

昨日の出来事なのですが、息子に、「もしママが悪い人に襲われそうだったらどうする?」という質問をしてみた所、



息子は「逃げる」だとか「アルソック(警備会社)に頼む」だとか、最後は「妹(自分より強い)に任せる」と言ったような答えが返ってきました。


また、じゃあ自分が襲われたら闘うのか?という質問には「闘わない」「話し合えば良い」という答えが返ってきました。



男の価値でも話しましたが、男の最後の使命は、まさに家族や愛する者を助けるために命を捧げる覚悟というもので決まるように私は思うのです。



そして、息子にもそうなって欲しいと願っていただけに、正直、その答えに愕然としてしまいました。



では、なぜ息子はそんな答えを出したのでしょうか?



今は、学校教育の中でも、家庭内でも、平和主義、思想が蔓延しているように思えます。



たとえば虐め撲滅などです。


確かに虐めは悪いことで理不尽かもしれません。しかし、それを学校内で排除した所で、社会に出ればそういった理不尽さは否応無しにもあります。



そこにどう対処し、自ら問題を打開できるか、というのは、本来学校教育の中でも学んで行く必要があると思うのです。


それが、「先生に言いばいい」とか「そもそもイジメをするような悪い人はいない」だとか、そういう発想になってしまうことは極めて危険ではないかと思うのです(憲法9条があれば日本は平和も維持出来るという考えと重なります)



もちろん、彼らの言い分にも一理ある所はあります。みんなが同じように、他者を敬い、他者に危害を与えずに生きて行ける社会は素晴らしいと思うのです。



しかし、残念ながら現実社会や世界はそうではありません。悪い人間も、私欲にまみれて他者を騙したり、陥れたり攻撃する人間もいます。



また、理不尽な要求を強要されることもあるでしょう。



そんな中で、どう生き抜いて行く精神力を養えるか、というのは、極めて重要であり、そんな世界で生き抜いて行くのだと言う覚悟が教育の中で植え付けられてこそ、それらに立ち向かえると思うのです。



しかし、学校では理想論ばかりで、決してそういった汚い部分というものを見せようとも体験させようともしません。



そんな学校で育った子供たちが、ぽんと理不尽な社会に放り出されたらどうなってしまうでしょうか。



それこそ、パワハラやセクハラに代表されるように、ハラスメントという権利を主張するような、被害者意識が芽生えるか、もしくは精神的に病んでしまうかのどちらかではないでしょうか。


まずは自分と向き合い、当事者意識を持つ、というのは、男としてばかりか人間の成長の根幹であると思うのです。


そういう社会に順応をさせる予備段階がまさに学校であり、家庭であるのならば、今の学校教育や家庭教育はそれらとは真逆な、むしろ、ハラスメントを訴えたり、精神病になるように誘導していると言っても過言ではないのではないでしょうか?



その後、私は荒療治的に息子に襲いかかりました。


そして、「これでも闘わないのか!」と叱咤しました。



そのときは息子は泣きながら「闘う」と言いましたが、その後は「パパのような悪い人は世界にはいない」と泣きながら訴えていました。



それを聞いて、もちろん、息子が今置かれている世界は極めて狭いのだから、そういう風に思うのは仕方が無い、という思いと同時に、なんとも哀しい気持ちになりました。



いつか、私が伝えたいことが、伝わる日が来るのでしょうか?いや、来なければならないと思いますが、このような学校教育が行われていることが非常に心配でもあります。



戦時中の神風特攻隊に代表されるように、自らの命も顧みず、国家や家族、愛する者たちを守るために闘った英霊の方々に恥じない未来に私たち親はしていく義務があると心に誓いながらも、改めて子育ての難しさを痛感した出来事でした。