テレビの討論番組がろくでもないのはなぜか?
よく、日曜討論だとか、たけしのなんとタックルだとかを拝見していると、まあ、くだらない議論とも言えないような話をしているな、と辟易する。
しかし、そんな内容にも関わらず、出演者の中には、とても全うで賢い者も含まれているのだ。
では、なぜそんな賢い者がいるにも関わらず、そんなくだらない議論に終始してしまうのだろうか。
それをひも解くに当たって、京都大学の藤井研究室で行われたある実験が参考になる。
この実験は、オルテガが定義する大衆人【自己閉鎖性と傲慢性を持った者】と、そうではない非大衆人とに学生を分類させ(様々な質問によって)、その分類ごとに、大衆人同士、非大衆人同士、大衆人と非大衆人と三パターンで議論を試みたものだ。
その結果、大衆人同士では、終始、自分の意見を変える事無く、相手を如何に論破するかに重点が置かれ、結論を出すことは出来なかった。
それに対し、非大衆人同士は、当初の考えを何度も変更する場面が見られ、皆が納得する結論を導くことができた。
そして最後の組み合わせである大衆人と非大衆人はどうかと言えば、結果は双方とも考えを一切変えない、という結果となり、結論を出す事ができなかった。
この結果を踏まえた上で考えると、テレビやラジオの討論番組のほとんどが、この大衆人が入り込んでいる(又はほとんどが大衆人)がゆえに、非大衆人がまともな意見を述べても、新たな結論を生み出すことも無ければ、双方とも相手を論破することに終始し、話し合いが決裂するだけになってしまうのも頷ける。
これは、そもそもヘーゲルの弁証法のような議論を可能とするのは、非大衆人同士でしか成り立たないということを意味しているのであって、テレビ討論しかり、国会も同様に、このような大衆人が入り込むことにより、議論が噛み合ず、政治が停滞し、混沌とするのは当たり前のことであることがわかる。
しかしだからといって、それで良いと言うわけではない。しっかりとした弁証法的な議論がなされない限り、本来の国会の意義は失われるだろうし、またその前提において、国会議員を生む有権者達が目にするようなテレビ討論なども、大衆人を排除して行われない限り、まともな議論など出来るわけもない。
もちろん、見方を変えれば、双方の意見を聞く事ができ、そのどちらが矛盾なく、また全体をプラグマティックに考えているのか、という「物語」まで想像できる能力が視聴者にあれば、むしろこういった番組は極めて有意義と言えるだろう。
しかし現実はその逆であり、単なる政治的パフォーマンスを愉しんでいる傍観者に過ぎないのだ。
このような視聴者と出演者の関係が改善されないのであれば、先に述べたように、討論から大衆人を排除せざるをえないという結論に至ってしまう。
ただし、それもまた理想論であることは否定のしようもない。
そう考えた時、日本の言論界や視聴者のリテラシーは壊滅状態にあると言っても過言ではないのではないだろうか。
拙者も少なからずその大衆人の要素を持っているという自認があるのだが、それでも「可能性を否定できない人間」にはなりたくないと常々思っている。
例え、相手が大衆人であろうとも、相手の意見を排除しようとは思わない。しかし同時に、それがあまりにも的外れで議論の余地すらない場合には正直、どうして良いのかわからない。
大げさかもしれないが、どんなに素晴らしい映画や小説であっても、それを理解する能力、感じる能力が無い者にとって、それは駄作でしかないという現実もあるのだ。