ひより -34ページ目

生きているだけで素晴らしい?


生の価値観として、「生きているだけで素晴らしい」と思うのか、それとも「どう生きるかが大事だ」と思うかは大きな価値観の相違ではないかと思う。



個人的に私は後者の考え方だが、それは、そもそもの日本人的価値観であるとも思う。




しかし最近では地球市民的な「生きているだけで素晴らしい」という価値観を持つ日本人も増えてきているように思える。



その最たる者が死刑廃止論者である人権派弁護士や、特攻隊=悪と考えるような左翼ではないだろうか。



彼らに共通しているものは、まさしく「生きているだけで人間は素晴らしい」のだとするイデオロギーである。



しかし、本当にそうだろうか?



死刑になるにはそれなりの理由がある。特攻隊にも命を捧げるほどの理由があったはずだ。



そこを否定し、生だけに執着することが果たして健全なのだろうか。



私には、それが単なる個人主義という名の「利己主義」に思えてならないのだ。



人が集団で生きるためには、ルール無くしては不可能だ。そのルールを著しく破るもの、又は、それを外部から破壊しようとするものに対し、個人は社会という集団を持ってして対抗するのは当然であると思うのである。



また、残虐な殺人を犯した者が、その生を存続させるのであれば、殺された側にもその権利は当然生じるはずだ。



もちろん、これが不可能なことであることは承知だが、それだけに、死刑制度というのは、止む終えない事情によって行われている人間が本来保持する復讐権であることがわかると思う。



また文化、歴史的観点からも、死を持ってして償う、または、命を賭けて家族や国を守る、というのは日本の生に対する価値観であり、逆説的には死生観である。




だからこそ、特攻隊員達は自らの命を顧みず、祖国のために散って行ったわけであり、そこに子孫が、最大なる尊崇の念を抱いたわけだ。



また、彼らはそういった行為を通じ、私たちに「どう生きるべきか」ということを痛烈に伝えているのだ。



こういったことを理解できずして、「生きているだけで素晴らしい」などということを言うのは、正直、私には全く理解ができない。


いやむしろ「生きているだけで素晴らしい」と思える人間を生んだ世の中は、真剣に命と向きあい、「どう生きるか」を問うてきた先人たちによって構築されてきたという背景もあるのではないだろうか。



それ故に、日本人として、「どう生きるべきなのか」ということをなくして生きることは、先人達に失礼ではないかとさえ思うのだ(ここは価値観の問題だけれども)



もちろん、年配者を敬うだとか、先祖を敬うだとか、そういったことは当然であるのだけど、極論だが、殺人者の年配者や先祖を敬えるのか、ということも同時に考えれば、自ずと私の言いたいことが伝わるのではないかと思う。

愛なき政治




江戸時代の思想家、会沢正志斎や仁斎は、「世の中は一大活物である」とし、朱子学が持つ合理的な静的性格を批判しつつ、「政治には仁が不可欠である」と説いています。



またその結果、「民と好悪を同じゅうする政治は、民志奮起する」とし、防衛力が強化されるとも論じています。



これら思想の根幹には、「仁義」(愛)があり、逆に、愛なき政治は脆弱で不安定化するということを説いているのです。



さて、今日の政治に愛はあるのでしょうか?



はっきり言って無い!と断言せざるをえないでしょう。



なぜならば、その政策の方向性(思想)が、明らかに、彼らが批判した、理を重んじる朱子学(自然科学)そのものであり、現代化した言い方をすれば、新自由主義やグローバリズムそのものだからです。



これらの根幹には、まず合理があり、その合理性を有していないものは、社会には不必要(または優先順位が低い)であるという思想があります。



たとえば、地方の人よりも牛の数が多い場所に道路の建設計画が持ち上がったとしましょう。それに対し彼らは経済的合理性(コストに対する見返り)が無いとして反対するわけです。



しかし、そもそも、なぜそこに人が住んでいるのか?ということについて、彼らは考えたでしょうか?



きっと、代々家族がこの地で生きてきただとか、家畜を育てる環境が良いだとか、都会が嫌いだとか、個々に様々な感情や状況などの理由があるのでしょう。



言い換えれば何の理由もなく、そこに人々が住んでいるわけではないのですが、彼らの思考は、道路が無く、不便なら都心に移住すればいい、という合理的な頭なので、決してその理由を考えたり、理解しようとはしないのです。



常々、安全保障は多様性、多様化であると述べてきましたが、このように人間の選択も多様性があり、地域地域で人や経済が分散することで、守られていることも沢山あるわけです。



しかし、そういった人々に対する多様性を認めず、配慮もせず、合理的理由だけで反対するというのは、仁斎や会沢正志斎の言う、「仁義ある政治」とは真逆であり、また、その合理に至っても、平時のみに有効という極めて楽観主義で非合理だと言わざるを得ません。



ニーチェが「合理主義ほど非合理的なものはない」と、合理主義を批判しましたが、まさに、平時に取られた合理は、有事には極めて非合理になるというのは、本来、東日本大震災を経験した私たち日本人は理解出来るはずなのです。



しかしながら、そういった経験がありながらなお、東日本(とくに福島)は復興を縮小させるべきだとか、国土強靭化計画はバラマキ公共事業だとかいう批判や話が平気で上がってくるのです。



確かに、今回のような災害や事故によって、東北の一部は人口が激減してしまったかもしれません。しかし、そこに住む人間がゼロになったわけでは決して無いのです。



たとえ非合理的であっても、それらの人々に安定、安心した暮らしを提供するのは、国家として当然であり、国民もその1人として協力するのは当然なのです。



このような当然のことを「愛」だとするのならば、むしろ私は「愛ある時代」と誇れていることでしょう。



しかし残念ながら、この世の中は「愛無き時代」へと突入してしまったようです。



当然のことを非合理だと批判し、合理主義の元、女性の活用(子どもを保育園に預けて夫婦二人で働いた方が生産的で合理的)や外国人労働者の受け入れ緩和(労働賃金を低下させ企業の国際競争力を高める方が合理的)や、TPP(自由貿易によって国内規制を緩和した方が合理的)など、まさに合理合理の嵐によって、愛を外に追いやっているのです。




また子育てにしてもどうでしょうか? 



子どもに愛を与える時間を奪ってまで夫婦で働きに出て、金を稼ぎ、家では親が楽だからとゲームやテレビを与えて彼らの想像力を奪い取っているわけです。



愛もなく、想像力もない、こんな子供たちが次の世代であるのならば、もうこの国は完全に【愛の無い国家】と成り下がるでしょう。



そして仁斎たちが危惧した、「脆弱な国家」と「不安定化した社会」が未来に待っているでしょう。



もう、いい加減、皆さんが気がつかなければ、それは確実なリスクとして私たちに襲いかかるであろうことを予期しつつ、今回はこの辺で終わらさせて頂きます。



アベノミクスは失敗?


アベノミクスに沸いた2013年。


私も国土強靭化(財政出動)と金融緩和の組み合わせは、長く続いた日本のデフレからの脱却において、極めて有効的な政策であると述べてきました。



しかし、当初から私は、アベノミクスの問題点について、第三の矢である成長戦略と、消費税増税は極めて危険な政策であり、デフレ脱却に逆行する政策だと懸念を訴えてきましたが、残念ながら、その懸念は現実の物となりつつあります。



まず消費税増税によって、消費者物価指数は、大幅なマイナスになり、その他の指数も軒並み下降しています。


また、女性の活用や海外からの労働者の確保、TPP、法人税減税など、現在も国際競争力という名の元、大胆な規制緩和が行われ、また農協や電力業界の解体、扶養控除の廃止など、国家の安全保障や、家族のあり方なども破壊されようとしています。



ここに来てさらに10%の増税を行うという財務省や政府の考えには、まあ呆れて物が言えないわけですが、かといって黙っているわけにもいきません。


ここまで露骨に経済が後退し始めているわけですから、なんとしてもこれ以上の後退を阻止しなければならないわけです。



そのためにはまず、政府が「想定内」などという詭弁を使うことなく、この現実を直視するべきであると思います。


そしてその上で、10%の消費税増税は当面凍結。



国際競争力という名の政策は全面見直し。



農協は解体ではなく強化。



発送電分離は凍結し、原発再稼働。



建築業界へ労働力を誘導し、国土強靭化(財政出動)の円滑な実行。



これら政策に転換し、実行していくほか、アベノミクスが成功する術はないと思われます。




しかし、残念ながら、現在の安倍政権では、これらとほぼ真逆の政策は推し進められているわけで、現実的には、このような政策を取ることはほぼ無いでしょう。



そうなれば、日本はアベノミクスと共に心中することになりますので、まことに残念ではありますが、安倍総理には退陣して頂き、これら政策を廃止して頂ける政権に託す他なくなります。



ただ、現実問題として、次の総理は誰なのか?という想像を巡らせても、このような政策を行うような総理や政党があるようには思えません。



このように、健全なる保守政党が無いことこそ、我が国の最大なる不幸であるわけです。



しかし、だからといって諦めてしまえば、それこそ我々はアベノミクスと心中することとなります。



まずは、小さな所からでも、まっとうな国づくりのために、内需を拡大させ(裏を返せば外需の依存を減らし)、地方を活性化させ、エネルギー、食料、水源を確保させることを訴えて行かなければならならないと思うのです。