愛なき政治
江戸時代の思想家、会沢正志斎や仁斎は、「世の中は一大活物である」とし、朱子学が持つ合理的な静的性格を批判しつつ、「政治には仁が不可欠である」と説いています。
またその結果、「民と好悪を同じゅうする政治は、民志奮起する」とし、防衛力が強化されるとも論じています。
これら思想の根幹には、「仁義」(愛)があり、逆に、愛なき政治は脆弱で不安定化するということを説いているのです。
さて、今日の政治に愛はあるのでしょうか?
はっきり言って無い!と断言せざるをえないでしょう。
なぜならば、その政策の方向性(思想)が、明らかに、彼らが批判した、理を重んじる朱子学(自然科学)そのものであり、現代化した言い方をすれば、新自由主義やグローバリズムそのものだからです。
これらの根幹には、まず合理があり、その合理性を有していないものは、社会には不必要(または優先順位が低い)であるという思想があります。
たとえば、地方の人よりも牛の数が多い場所に道路の建設計画が持ち上がったとしましょう。それに対し彼らは経済的合理性(コストに対する見返り)が無いとして反対するわけです。
しかし、そもそも、なぜそこに人が住んでいるのか?ということについて、彼らは考えたでしょうか?
きっと、代々家族がこの地で生きてきただとか、家畜を育てる環境が良いだとか、都会が嫌いだとか、個々に様々な感情や状況などの理由があるのでしょう。
言い換えれば何の理由もなく、そこに人々が住んでいるわけではないのですが、彼らの思考は、道路が無く、不便なら都心に移住すればいい、という合理的な頭なので、決してその理由を考えたり、理解しようとはしないのです。
常々、安全保障は多様性、多様化であると述べてきましたが、このように人間の選択も多様性があり、地域地域で人や経済が分散することで、守られていることも沢山あるわけです。
しかし、そういった人々に対する多様性を認めず、配慮もせず、合理的理由だけで反対するというのは、仁斎や会沢正志斎の言う、「仁義ある政治」とは真逆であり、また、その合理に至っても、平時のみに有効という極めて楽観主義で非合理だと言わざるを得ません。
ニーチェが「合理主義ほど非合理的なものはない」と、合理主義を批判しましたが、まさに、平時に取られた合理は、有事には極めて非合理になるというのは、本来、東日本大震災を経験した私たち日本人は理解出来るはずなのです。
しかしながら、そういった経験がありながらなお、東日本(とくに福島)は復興を縮小させるべきだとか、国土強靭化計画はバラマキ公共事業だとかいう批判や話が平気で上がってくるのです。
確かに、今回のような災害や事故によって、東北の一部は人口が激減してしまったかもしれません。しかし、そこに住む人間がゼロになったわけでは決して無いのです。
たとえ非合理的であっても、それらの人々に安定、安心した暮らしを提供するのは、国家として当然であり、国民もその1人として協力するのは当然なのです。
このような当然のことを「愛」だとするのならば、むしろ私は「愛ある時代」と誇れていることでしょう。
しかし残念ながら、この世の中は「愛無き時代」へと突入してしまったようです。
当然のことを非合理だと批判し、合理主義の元、女性の活用(子どもを保育園に預けて夫婦二人で働いた方が生産的で合理的)や外国人労働者の受け入れ緩和(労働賃金を低下させ企業の国際競争力を高める方が合理的)や、TPP(自由貿易によって国内規制を緩和した方が合理的)など、まさに合理合理の嵐によって、愛を外に追いやっているのです。
また子育てにしてもどうでしょうか?
子どもに愛を与える時間を奪ってまで夫婦で働きに出て、金を稼ぎ、家では親が楽だからとゲームやテレビを与えて彼らの想像力を奪い取っているわけです。
愛もなく、想像力もない、こんな子供たちが次の世代であるのならば、もうこの国は完全に【愛の無い国家】と成り下がるでしょう。
そして仁斎たちが危惧した、「脆弱な国家」と「不安定化した社会」が未来に待っているでしょう。
もう、いい加減、皆さんが気がつかなければ、それは確実なリスクとして私たちに襲いかかるであろうことを予期しつつ、今回はこの辺で終わらさせて頂きます。