生きているだけで素晴らしい? | ひより

生きているだけで素晴らしい?


生の価値観として、「生きているだけで素晴らしい」と思うのか、それとも「どう生きるかが大事だ」と思うかは大きな価値観の相違ではないかと思う。



個人的に私は後者の考え方だが、それは、そもそもの日本人的価値観であるとも思う。




しかし最近では地球市民的な「生きているだけで素晴らしい」という価値観を持つ日本人も増えてきているように思える。



その最たる者が死刑廃止論者である人権派弁護士や、特攻隊=悪と考えるような左翼ではないだろうか。



彼らに共通しているものは、まさしく「生きているだけで人間は素晴らしい」のだとするイデオロギーである。



しかし、本当にそうだろうか?



死刑になるにはそれなりの理由がある。特攻隊にも命を捧げるほどの理由があったはずだ。



そこを否定し、生だけに執着することが果たして健全なのだろうか。



私には、それが単なる個人主義という名の「利己主義」に思えてならないのだ。



人が集団で生きるためには、ルール無くしては不可能だ。そのルールを著しく破るもの、又は、それを外部から破壊しようとするものに対し、個人は社会という集団を持ってして対抗するのは当然であると思うのである。



また、残虐な殺人を犯した者が、その生を存続させるのであれば、殺された側にもその権利は当然生じるはずだ。



もちろん、これが不可能なことであることは承知だが、それだけに、死刑制度というのは、止む終えない事情によって行われている人間が本来保持する復讐権であることがわかると思う。



また文化、歴史的観点からも、死を持ってして償う、または、命を賭けて家族や国を守る、というのは日本の生に対する価値観であり、逆説的には死生観である。




だからこそ、特攻隊員達は自らの命を顧みず、祖国のために散って行ったわけであり、そこに子孫が、最大なる尊崇の念を抱いたわけだ。



また、彼らはそういった行為を通じ、私たちに「どう生きるべきか」ということを痛烈に伝えているのだ。



こういったことを理解できずして、「生きているだけで素晴らしい」などということを言うのは、正直、私には全く理解ができない。


いやむしろ「生きているだけで素晴らしい」と思える人間を生んだ世の中は、真剣に命と向きあい、「どう生きるか」を問うてきた先人たちによって構築されてきたという背景もあるのではないだろうか。



それ故に、日本人として、「どう生きるべきなのか」ということをなくして生きることは、先人達に失礼ではないかとさえ思うのだ(ここは価値観の問題だけれども)



もちろん、年配者を敬うだとか、先祖を敬うだとか、そういったことは当然であるのだけど、極論だが、殺人者の年配者や先祖を敬えるのか、ということも同時に考えれば、自ずと私の言いたいことが伝わるのではないかと思う。