愛と限定と想像力 | ひより

愛と限定と想像力


僕は嫁さんと結婚する前に、こんなことを彼女に告げました。


「結婚とは別れる前提に成り立つ」と。



えっ結婚って別れない約束をするものじゃないの?と一般的には思うでしょう。



そういう方には、別れる前提で結婚するなどというのは、ちょっと理解に苦しむ話かもしれません。



しかしこれは極当たり前の話で、明日どちらかが事故に遇い、また病気で他界することも確率としては決してゼロではありませんし、どちらか一方が相手を嫌になり、関係を解消することも十分考えられます。



さらに言えば、運良く互いに老後まで一緒に居れたとしても、結局はどちらかが先に旅立たなければならないという現実に背く事は何人たりとも出来ないわけです。



言い換えれば、結婚は、いや、人間はそもそも生命を限定された生き物ということなのです。



そんな当たり前のことですが、日常をすごしていると、生きていることが当たり前になり、相手が居る事が当たり前になり、やがては訪れるであろう別れの瞬間を想像できなくなるのです。




その結果、何が生じるのか。安定、安寧などのメリットも当然あります。しかし、そこから派生するものは、不満であったり、怠惰であったり、怠慢であったりすることは多々あることでしょう。



それでも「喧嘩をするほど仲がいい」なんて言葉もあります。



たしかに、お互いの言いたい事を伝え合うことはとても大事なことだと僕も思います。しかし、同時に、そこには双方に想像力を欠いてはならないと思うのです。



その想像力を欠くと、それは単純な不満(そのときの感情のみ)だけとなってしまうからです。



よく、「愛と憎しみは隣り合わせ」と言います。しかし、その中間には、「不満」があるのではないか、と僕は思っているのです。



この不満の根源には、「居て当たり前」「やって当たり前」というものがあるのです。




ですから僕は、そう思わないためにも、よく、(最低でも月に一回くらいは)嫁さんが死んだことを想像しています。




そうすると、「ああ、子どもの世話はどうしよう」とか「仕事はどうしよう」とか、そういった現実的な問題から、「なんて惜しい、なんて哀しい」という感情的なものも心にこみ上げてきて胸が苦しくなるです。



死というものは、言い換えれば「限定された生でもあります。



後、何時間、僕は彼女と会話が出来るのだろうか? 後何回、彼女の肌に触れる事が出来るのだろうか?



そんなことを思うと、僕は喧嘩などする気にはさらさらなれないのです。




また、例え、お互いに長生き出来たとしても、この瞬間(例えば20代、30代など)は、その時にしかあり得ません。



その触れる肌の艶感、滑らかさも、その瞬間であり、30年後には望めないものなのです。




また、会話もそうでしょう。若かりし頃の会話と、老熟した頃の会話では、まるで違うでしょう。



それはその時々でしか、決して感じ得ないものであり、瞬間瞬間が限定的なのです。




こういったことに目を向けた時、その想像は、最後は死というものに、及んでしまうのはむしろ必然であって、僕はそこにいかに向き合うか、ということを常々意識しているのです。




余談ですが、以前、西部先生が、「愛と哀」は語源が一緒であるといったお話をされていました。




それは「愛」=「愛しい」=「いと、惜しい」=「大変惜しい」=「失って、大変惜しい」という意味であり、愛は哀しみを内包するというのです。




それを聞いて、なるほどと頷いたのを思い出します。




初めに戻るようですが、結局、愛は別れを前提にしているということなのです。




そして、その別れをいかに想像し、限られた二人の時間を大事にすごしていけるか、というのが、僕の人生のテーマでもあります。



愛は限定的であるからこそ、愛であり、それをいかに想像しうるか、というのが、愛の本質ではないか、などと青臭いことを少々照れながら(羞恥しながら)、最後に言わせて頂き、文章を締めたいと思います(笑)