三つの要素 | ひより

三つの要素


人の生とは何か、ということについてここ最近、考察することが多いのだが、そんな中、三つのキーワードが私の中で浮かび上がっている。


一つ目は「解釈学的循環」


二つ目は「正統性(レジティマシー)と強靱性(レジリエンス)」


三つ目は「実用主義(プラグマティズム)」だ。



まず解釈学的循環だが、これをわかりやすく説明すれば、言葉には前後文脈があり、言葉の深意を読み解くには、まずその文脈を理解しなければならず、それによって、初めて言葉は活きた言葉となるということだ。


何を当たり前のことを言っているのだ!と思われるかもしれないが、これを実社会に当てはめて考えてみると、この解釈学的循環がいかに難しく、また必要不可欠であるかということがわかる。



例えば、ある皮膚の専門学者が私を見て、これは皮膚である。と答えたとする。確かに、私には皮膚がある。しかし、皮膚は私でも無ければ、私が皮膚でもない。


言い換えると、皮膚はある側面においては正解であっても、全体としての私ではなく、答えとしては不正解なのである。



しかしながら世の中では、意外とこうした話を良く耳にする。むしろそれが大多数ではないか、とすら思えるほどだ。



TPPしかり、労働規制緩和しかり、原発問題しかり、様々な国家的問題を議論するに当たり、明らかに、文脈(全体)を見ずに、その一側面のメリットデメリットで議論がなされているように思えてならないのだ。



森(マクロ)をしっかり見極め、その中でこの木はどうあるべきか、という議論がなされていかなければ、それこそ、私たちは大きな間違いを犯すこととなるだろう。






次に正統性と強靱性についてだが、これは先に一度述べたように、新たなものを生み出していく(イノベーション)こと、いわゆる進歩主義への懐疑から始まった。


もちろん、正統性(レジティマシー)というのは、持とうと思って持てるものではない。



歴史、伝統、文化に裏付けされて、初めて信憑性(オーセンティシティー)が生じ、それによって正統性は正統性たる所以となるのだ。


例えばベンチャー企業に正統性はあるのか。もちろんあるわけがない。言い換えると、ベンチャー企業は正統性の代わりに「新しい物」を生み続けることで、その価値を担保させるものである。


それに対し、歴史に裏付けされた正統性を持つ老舗の企業はどうだろうか。もちろん時代に合わせたある程度の変化は必要だろう。しかしながらそれは革新的である必要はなく、むしろ歴史を踏襲しながらの微妙な変化だけで存続できるのである。




新しい物を生み続けなければ存続できないベンチャー企業と、僅かの変化に対応させていけばいい老舗企業とどちらが強靱性(レジリエンス)があるだろうか。



答えは言うまでもないだろう。それほど、正統性と強靱性、またその逆も、リンクし合うわけである。




最後に実用主義(プラグマティズム)についてだが、現在の経済学の中心は、自然科学と合理主義に基づく新自由主義であるが、その新自由主義、合理主義に真っ向から対立するのが、このプラグマティズムである。


そもそも合理主義とは何か、「世界を支配する根本原理を発見できる理性の力を信じ、その理性が発見した原理に基づいて、理想の社会構築へと変革を行えると信じる思想」である。



これは言い換えるとある種の静観(悪い意味で)と、怠慢が浮かび上がっているとも言える。



そもそも人間を、このような自然科学的に自由にさせ、また合理によって、社会が健全な方向へと向くだろうか。私には甚だ疑問である。



これに異を唱えたものこそ、プラグマティズムであり、プラグマティズムの根幹は、実用を優先させることであって、また解釈学的循環と同様に、全体環境の中でどうその状況に合わせて政策を変えていくか、という極めて実践的な主義である。



当然、時代や状況が変わればそれにも対応させるわけであり、新自由主義的硬直とは真逆に、柔軟性をも内包しているわけだ。




またその思想は、社会と個を別々で捉えるのではなく、魚が水を必要とするのと同様に、個も他者(社会や国家)があって、初めて生の存在となるわけであって、個人主義のように、水から引き上げられた魚という個は、死んだ個でしかなく、言い換えればそれは「死んだ理」でしかなく、本来の活きた理は、水と魚を切り離して考えては駄目だ、とも説いているものである。



これら三つのキーワードはどれもマクロ(社会)、ミクロ(個人)ともに当てはまり、そもそも相互に循環し合うわけだから、合成の誤謬も起きない。それ故に、これらをしっかり理解することこそが、人が生きる上で、また成長する上で、極めて重要な要素であると私は考えるのである。