大衆人vs政府
大衆人の定義とは何か、オルテガによると、自己閉鎖性と傲慢性を持った、私利私欲(又は感情)に優先順位を置き、公を軽視、または敵対、または無関心といった態度を取る人々というわけだが、そういった大衆人がなぜ、公を軽視し、または敵視し、無関心になるのか、という点について、京都大学の藤井聡教授が「大衆社会の処方箋」という著書の中で明らかにしている。
さて、その内容について稚拙ではあるが私なりの見解を交え、紹介していきたいと思う。
まず、先に出た大衆人の特徴とも取れる傲慢性と自己閉鎖性だが、傲慢性は自分の意見、好みに社会がそぐわない場合、選挙などのルールと段階を踏まず、直接的にその主張を行使しようとする(裏切り)傾向にあり、対して自己閉鎖性はその内向きな思想によって、他者に興味を持たず、自分の世界観に閉じこもり、当然政治や社会には協力しない(非協力)と言った傾向を持つ。
一見、相反するように見えても、この二つの特徴の共通点は、「過去の軽視」、「公の軽視」、「現在の否定」、「利己的」という意味においてまったく重なるのである。
例えば公共事業に対する人々の理解と反応はどうだろうか。
ある程度の想像力と客観性(公衆度)を持っている者であれば、道路などのインフラは、過去に生きた国民(又は現在も生きている)が払った税金によって構築され、そのインフラの恩恵を現在得ている事は明白に理解できるであろう。それ故に、自分もまた、未来(未来では過去)に対し、その義務を負うのは当然と考えるのである。
一方、大衆人は、その恩恵を現在得ているにも関わらず、未来に対する投資に対し、消極的(自己閉鎖性)、又は否定、批判的(傲慢性)な立場を取る。
言い換えると、彼らは自分は損をしたくないという利己主義者であって、それは今まで先人が継続してきた過去の否定となり、またその過去からの恩恵を預かっている現在の自分の立場すらも否定しているという矛盾を抱えている事に気がつかないのである。
ではなぜ彼ら大衆人がそのような傾向に陥ってしまったか、という根本的問題についてオルテガは、
「新しい世界は、ほとんど無限の可能性をもった安全で、しかもそこでは人は誰にも隷属しないような世界のようにみえるのである」と論じ、
それによって、「甘やかされた子供」「慢心しきったお坊ちゃん」が生まれたと皮肉を込め、喩えている。
現代社会の利便性、科学の進歩などによる生活の向上などによって、人々の生に対する困難、苦悩が排除され、人々は豊かな暮らしに安住、慢心し、その結果、怠惰な「生」に支配され、本来人間が持ち合わせていた協力意識、共同意識、公衆性(昔は困難は一人では立ち向かえなかったが故に、生きるために共同体を形成し、協力するという意識が自然と皆にあった)が削がれていった結果、個々人の疎外とコミュニティーの崩壊を齎し、甘やかされた子供が生まれたというわけである。
そしてその甘やかされた子供は、自己中心的に己の欲求(又は一時的感情)を満たそうと、過去から積み上げてきた合意形成(議会制民主主義やモラールなど)を無視し、直接的に行政に自らの主張を通そうと尽力し(デモ、テロなど)、さらにはそれが上手く行かないとなると、政府や相手を露骨に批判し、まるで無能だと言わんばかりの態度やプロパガンダを行うのである。
もちろん、彼らにとって自らの利益(又はイデオロギー)が最優先であるが故に、公(政府)が公(マクロ)として正しいことをすればするほど逆に反発を強めるのである。
当然、現代社会のジレンマ「協力」か「裏切り(非協力)」のいずれかを選択しなければならない状況化において、彼らはためらいもなく、裏切りを選ぶはずである。
もちろん、そういった裏切り者が増えれば増えるほど社会は不安定化し、最後は崩壊していくと前回も話してきたが、彼らこそ、その元凶であり、その大衆人を少しでも減らす事こそが、社会の安寧へと繋がっていくというわけである。
しかしながら現在のメディアや社会を観察していると、明らかにオルテガが指摘する大衆による専制政治という懸念にまさに当てはまっていると言えよう。
人々の多くは政治に無関心(投票率の低さや所謂、無党派層の増大)で、興味を持っているかと思えば、それは公の利益を無視した私利私欲の自己主張と、己の能力を過信した傲慢的な主張と批判である。
その結果、小泉フィーバーだ!政権交代だ!原発反対だ!と大衆の戯言に政治が右往左往し、公の利益を著しく毀損させている。
それはまさしく、「自己閉鎖性性」と「傲慢性」を持った大衆人という低俗が、我が国の多数派を占めてしまったということに他ならないのではないだろうか、と拙者は危機感を抱いている。
まだまだ自分の中でまとまりきらない部分もあるが、これ以上の長文は控える事にする。
さて、その内容について稚拙ではあるが私なりの見解を交え、紹介していきたいと思う。
まず、先に出た大衆人の特徴とも取れる傲慢性と自己閉鎖性だが、傲慢性は自分の意見、好みに社会がそぐわない場合、選挙などのルールと段階を踏まず、直接的にその主張を行使しようとする(裏切り)傾向にあり、対して自己閉鎖性はその内向きな思想によって、他者に興味を持たず、自分の世界観に閉じこもり、当然政治や社会には協力しない(非協力)と言った傾向を持つ。
一見、相反するように見えても、この二つの特徴の共通点は、「過去の軽視」、「公の軽視」、「現在の否定」、「利己的」という意味においてまったく重なるのである。
例えば公共事業に対する人々の理解と反応はどうだろうか。
ある程度の想像力と客観性(公衆度)を持っている者であれば、道路などのインフラは、過去に生きた国民(又は現在も生きている)が払った税金によって構築され、そのインフラの恩恵を現在得ている事は明白に理解できるであろう。それ故に、自分もまた、未来(未来では過去)に対し、その義務を負うのは当然と考えるのである。
一方、大衆人は、その恩恵を現在得ているにも関わらず、未来に対する投資に対し、消極的(自己閉鎖性)、又は否定、批判的(傲慢性)な立場を取る。
言い換えると、彼らは自分は損をしたくないという利己主義者であって、それは今まで先人が継続してきた過去の否定となり、またその過去からの恩恵を預かっている現在の自分の立場すらも否定しているという矛盾を抱えている事に気がつかないのである。
ではなぜ彼ら大衆人がそのような傾向に陥ってしまったか、という根本的問題についてオルテガは、
「新しい世界は、ほとんど無限の可能性をもった安全で、しかもそこでは人は誰にも隷属しないような世界のようにみえるのである」と論じ、
それによって、「甘やかされた子供」「慢心しきったお坊ちゃん」が生まれたと皮肉を込め、喩えている。
現代社会の利便性、科学の進歩などによる生活の向上などによって、人々の生に対する困難、苦悩が排除され、人々は豊かな暮らしに安住、慢心し、その結果、怠惰な「生」に支配され、本来人間が持ち合わせていた協力意識、共同意識、公衆性(昔は困難は一人では立ち向かえなかったが故に、生きるために共同体を形成し、協力するという意識が自然と皆にあった)が削がれていった結果、個々人の疎外とコミュニティーの崩壊を齎し、甘やかされた子供が生まれたというわけである。
そしてその甘やかされた子供は、自己中心的に己の欲求(又は一時的感情)を満たそうと、過去から積み上げてきた合意形成(議会制民主主義やモラールなど)を無視し、直接的に行政に自らの主張を通そうと尽力し(デモ、テロなど)、さらにはそれが上手く行かないとなると、政府や相手を露骨に批判し、まるで無能だと言わんばかりの態度やプロパガンダを行うのである。
もちろん、彼らにとって自らの利益(又はイデオロギー)が最優先であるが故に、公(政府)が公(マクロ)として正しいことをすればするほど逆に反発を強めるのである。
当然、現代社会のジレンマ「協力」か「裏切り(非協力)」のいずれかを選択しなければならない状況化において、彼らはためらいもなく、裏切りを選ぶはずである。
もちろん、そういった裏切り者が増えれば増えるほど社会は不安定化し、最後は崩壊していくと前回も話してきたが、彼らこそ、その元凶であり、その大衆人を少しでも減らす事こそが、社会の安寧へと繋がっていくというわけである。
しかしながら現在のメディアや社会を観察していると、明らかにオルテガが指摘する大衆による専制政治という懸念にまさに当てはまっていると言えよう。
人々の多くは政治に無関心(投票率の低さや所謂、無党派層の増大)で、興味を持っているかと思えば、それは公の利益を無視した私利私欲の自己主張と、己の能力を過信した傲慢的な主張と批判である。
その結果、小泉フィーバーだ!政権交代だ!原発反対だ!と大衆の戯言に政治が右往左往し、公の利益を著しく毀損させている。
それはまさしく、「自己閉鎖性性」と「傲慢性」を持った大衆人という低俗が、我が国の多数派を占めてしまったということに他ならないのではないだろうか、と拙者は危機感を抱いている。
まだまだ自分の中でまとまりきらない部分もあるが、これ以上の長文は控える事にする。