正統性(レジティマシー)の重要性について | ひより

正統性(レジティマシー)の重要性について


人間の生ということを考えた時、その生の存在が、どこから生じ、どこに帰結するのか、という点について、私たちは考察せざるを得ない。


なぜならば、私たちは神から突如として生まれたのではなく、両親から、またその両親はその両親から生まれたという連続性があって初めて、現在の生へと繋がっていくからである。


当然、それは未来へと繋がっていく訳で、現在が現在であり得る唯一の正統性は、過去、いわゆる歴史というものが前提となっている。


ただし、その歴史というものは、ある種の妄想とでも言えばよいのか、私たち現在に生きる者としては、現在の存在ではないのであり、それゆえに時に、その存在と重要性が曖昧となるのである。


しかしながら確かにその歴史は存在し(伝わっていないことも含め)、その歴史は言語というものを通じ、我々にその正統性を示していると言える。



また歴史同様に、言語というのは、言い換えると語源という形でその連続性というものを示しているのであって、歴史=言語=正統性とも言い換えられるのである。



私たちはその言語を用い、自らの表現としてだけでなく、歴史の一ページとしての役割というものを、意識無意識に関わらず、担っているわけである。



と同時に、私たちはそれを時に粗末に扱い、時にねつ造し、時に自分の都合に合わせ解釈しようとするものである。


しかしそれらの行為は、自らの正統性(レジティマシー)を自ら破棄する行為に他ならず、ある人の言葉を借りるのであれば、「正統性を失った民族に未来は無い」又は「歴史を忘れた民族に未来は無い」ということであり、それは国家、国民というマクロに限らず、我々個人の未来をも失うのである。



例えば革新などという言葉がある。革命的に新しい物を生む、という意味なのだろうが、先に記した通り、過去と現在と未来という連続性において、革新などというのは、極めて不自然な言葉のように思えてならないのである。



むしろそれらは正統性を無視し、あたかも自分たちがそれを新たに生んだがのごとく、自己満悦するのであって、言い換えると傲慢性と極めて視野が狭いということを、自ら露呈しているようなものであるが、どうやらそれが妙に世間ではウケるという側面も持っている。



私にはそれら世間の賛美が全く理解できないのだが、人間と言うのは、自らに懐疑的になり、自己改革を行うという行為を放棄し、象徴や仮想社会や、はたまた直接的関わりを持たないものに対し、その欲求を代替したがるという性質を持っているようである。


そうすることである種の精神的バランスを取っている、とも言えるのだろうが、それらは単なる現実逃避に他ならないのではないか。


仮に、仮想世界と現実世界を足したものを10とするのならば、人が現実社会を蔑ろにすればするほど、仮想世界の比率を高め、またその逆もあるということなのだろう。


言い換えれば現実社会に充実し、自らを懐疑し、改革せんとする意志を持って日常をすごすのであれば、仮想世界などは不要である。


またそのときに自らの存在たる所以に懐疑するのならば、それは過去を重視するという結果に落ち着くはずである。


それがまさに正統性であり、その正統性なくして、その存在を明確化できないのが、人間である、とも言えるのかもしれない。


しかしながら言語は表面的言葉遊びに終止し、歴史はただの教科書の一ページという表象となり、私たちの正統性は日々失われる一方であるように思えてならない。


それが齎すものが何であるのか、私は見たくもないのだが、多くの国民がそこに気がつかぬのならば、その病魔は確実に我々を蝕んでいくだろう。