新し物嫌い | ひより

新し物嫌い

私は基本的に、新しい物が嫌いだ。それは物に限らず、「新」とか「NEW」とか「革新」とかが付くもの全てが嫌いと言って良い。



いや、正確に言うと嫌いと言うより、かなり懐疑的に見ていると言った方が正しいかもしれない。



現に自分の身の回りの物(自分が選択したもの)を顧みても、一部の電化製品を除いて、全てが古いものだ。


ではなぜ新しいものが嫌いなのか、それは一つに「新しい」というだけで、色眼鏡がついてしまうことにある。



例えば新製品を見たとき、純粋にそのものの価値を見抜けるだけの客観的視点を持っている者がいかほど居るだろうか。



人は「新」というだけで、何となく新しいというイメージが先入観として入り、そのもの自体の本質的価値をあやふやにしてしまうものだ。



車などはその最たる例だろう。なぜか不思議と一番新しいものが一番格好良くみえてしまう。と同時に、次の新たな物が発売されれば、それまでの車は妙にダサく見えてしまう。


あれほど、そのときはカッコいいと思い込んだものが、次の新車が出た途端にそう風に感じてしまうわけだ。


そこから見える物は、「新」は「新」で無くなった地点でその価値を失うとも言い換えられる(思い込みが消える)


そう考えると、物の本質的価値という観点からして、新しいは「無いに等しい」と断言せざるを得ない。



もちろん、中にはマニアが居て、それでも好きだと言うかもしれない。しかし、ほとんどの人たちはそうは言わず、ただ単に新しいものに群がり、またそれを繰り返しているだけなのだ。



経済を否定する訳ではないが、これほど不毛な循環は無いのではないか、と私は思う。




次に新しいものの問題点は、過去から受け継いだ価値というものに「新」を付ける事であたかも別の何か価値を生んでいるという錯覚を起こさせているという点だ。



しかしながら世の中というのは、そんなに多くの「新」例えばイノベーションなどは起きていない。多くの「新」は、所詮、過去から受け継いだもののデフォルメにすぎないのだ。


そう考えた時、なぜ過去から受け継いだものが、その形態のままではいけないのか、という点について、少なからず私たちは考慮しなければならないのだが、その考察なくして、デフォルメされたものを無条件で賞賛するという行為は、私から見れば、単なる思考停止にしか映らないのである。



当然それは「革新、改革」であったり「変化」であったりも同じ事が言えている。



なぜ、変える必要があるのか、なぜ新しくなる必要があったのか、そこをまずは考察すべきであって、無条件の変化願望など、私から見れば「現状に満足がいかない子供の駄々」と同等である。


このように考えた時、「新」という物が「真の新」であるか否か、ということを懐疑的に見た上で、それがただ単に、広告や宣伝の材料であったりすることを見抜く力というものが、現代人には極めて重要になるのではないか、と私は考えている。



きっとそれは保守、という概念に繋がっていくのだと思うが、過去から受け継いだ物を、きちっと守っていく、という本質的価値的概念というものを私たちは忘れてはいけないのだろうと思う。