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特攻隊は洗脳が生んだ?


今日、広島に行ってきたというお客さんが、特攻潜水艦「回天」を見てきて、「洗脳されてあんな狭い所に押込められて死んで行ったってのか可哀想だよなぁ」と言ったので、私は、「洗脳されていたというのも、可哀想だというのも違うと思う」と答えました。


彼らは決して洗脳されたわけではなく、もっと単純に、国や家族を守るために、命を懸けただけだと思うのです。



実は、そのお客さん、たまたま特殊技術を持った土木作業員で、震災直後、上司から「福島第一原発に行ってくれる奴はいるか?」と言われ、真っ先にその手を挙げたそうなのです。



それを聞いて、私は「まさに特攻隊はその気持ちだったんじゃないですかね?」と言いました。



当然、飛行機の運転は素人では出来ません。潜水艦も同様です。特殊な技術を有していなければ、特攻どころではないからです。


そういう特殊技術を持っている自分たちにしか出来ないことがわかっていた上で、その責任感や使命感を果たそうとしたわけであり、それは洗脳などという次元の話ではないのです。



そう説明すると、そのお客さんは「なるほど。確かにあのときは自分が行かなきゃ誰が行くんだって思った。仮にそれで俺が死んでも、可哀想だなんて思われたくないな」とおっしゃっていました。



まさに、それは日本人の強い使命感、責任感に他ならず、彼が洗脳されて手を挙げたわけでは決して無いと思うのです。



もちろん、そういう考えに至るに当たり、その基礎となる教育があったことは言うまでもありません。しかしその教育は洗脳ですか?間違った思想ですか?



むしろそれは日本人として誇れる思想だと思うのです。


それこそ、自分だけのことを考えれば、決して特攻は志願しませんし、あの時期に福島第一に行こうと手も挙げなかったでしょう。


しかしそれによって、大事なものを見殺しにするというのは,あまりにも薄情じゃありませんか?



私もきっと彼や特攻隊の立場であれば、同じように手を挙げているのではないか、そう思うのです。


洗脳された、可哀想だ、特攻は時にそういう扱われ方をします。


しかし、その内情は、全く違うと私は確信しています。


そして言うまでもなく、その強靭な精神は、私たち日本人に受け継がれているはずなのです。


新自由主義も共産主義も根は一緒

新自由主義という、強欲資本主義が生んだ怪物イデオロギーが、初めて世の中を席巻したのは、1800年代。


それから死んでは蘇り、また死んでは蘇りを繰り返し、今、再び巨大化して、私たちを飲み込んでいます。


しかし、そんな大変な状況化にあるにも関わらず、残念ながら我が国を含めた民主主義国家の国民は、それが危険な物であるという認識どころか、むしろ正しいものであるとさえ思っているように見えます。



その根幹は民主主義のイデオロギーの歪んだ解釈によるものではないか、そう私は感じてなりません。



本来の民主主義は、国民の幸福を最大限に伸ばすために、それぞれ国民が政治的権利を有し、また努力し、知恵を絞り、それらを代表して実行する者達を選ぶことです。



しかしそれが、「民主主義は、国民全てに平等の権利を与えられる」にすり替えられ、また資本主義という経済の中でさらなる変質を遂げ、「経済も全て平等でなければならない」とする新自由主義へと繋がっていったのです。


もちろん、本来の民主主義における経済活動は、あくまで平等よりも、公平であり、国民の幸福が優先されなければなりません。



それこそ新自由主義のように、全ての経済活動を平等にしてしまえば、当然、能力のあるもの、元々資本力のあるものとそうではないものの間に「勝ち組、負け組」が明確な格差となって生じてしまいます。



また、新自由主義はあくまで経済的平等が根幹のイデオロギーですから、政府(国民の代表者)による、公平かつ、国民の全体的幸福に寄与する規制や、財政出動は、彼ら新自由主義者にとっては不平等を生む既得権益であり悪以外何ものでもないのです。




要するに、計画経済的に平等化させる共産主義に対し、新自由主義は経済競争の土台そのものを平等化させるものであり、究極な所、どちらも「反民主主義」という意味では一致しているのです。



このように一見、我々のイデオロギーとは相見えないようにみえる共産主義と、我々民主国家による新自由主義が「平等」「反民主主義」という根で繋がっているということがお分かりいただけたかと思います。

(戦前、戦後と、あれだけの論争、戦争を繰り返してきた相反するイデオロギーが、実はその根幹はまるで一緒であったという皮肉は正直笑えません)



このように考えた時、私たちが本来の民主主義国家の国民として戦わなければならないのは、既得権益でも、官僚でもなく、もちろん国家でもなく、新自由主義そのものであり、この反民主主義を如何に打破するか、ということが民主主義を取り戻すための最大な課題なのです。



しかし先に記した通り、私たち国民にそれが最大な敵であるという認識、意識が極めて希薄であり、そのような観点をもって政治家を選ぶことをしないのです。



その結果、政治家達もまた、新自由主義という名のドグマに犯され、それがあたかも民主主義における正義のごとく振る舞い、そのような政策を声高々に訴えるのです(恥ずかしくないのですか?と言いたい)



まさにこれは橋本行政改革に始まり、小泉竹中構造改革、そして変質アベノミクスへと受け継がれているのが日本の実情です。



そして、その度に格差(ジニ係数を見れば一目瞭然)が広がり、国民の幸福から遠ざかってしまっているのです。



ちなみに、哲学者のハンナ・アーレントは、「格差は全体主義の温床」のようなことを言っていますし、同じく社会哲学者のオルテガも「格差が生じた社会は、安易な思想を振りかざすリーダーを賛美するようになる」といった事も言っています。



いい加減、国民も、本当の敵に気がつかなければ、気づいたときには取り返しのつかない事態になっているかもしれませんよ。


生活保護はこれでいいのか?


生活保護受給者を批判すると、差別であるとか、弱者に対する配慮が無いなどと逆に批判されます。



もちろん、私も社会的弱者に対し、配慮がない世の中は、間違いであると思います。



と同時にそれは、受給を受ける側にも同じような配慮や遠慮や感謝がなくては、それら関係は成り立たないと思うわけです(そういう意味では、生活保護は性善説に基づいて作られた制度のかもしれません)



しかし、先日、友人の介護福祉士さんからこんな話を聞きました。


「生活保護者の介護をしていると、『あんた誰のおかげで食べて行けると思ってるの!!』とその受給者から罵詈雑言を浴びせられた」というのです。



もしかしたら、介護側に不手際があったのかもしれません。またそのような考えの方は一部なのかもしれません。



しかしだからといって、このような発言をするというのは、全く相手に対する配慮も、社会保障を提供する自治体にも、またそれを支える納税者達への配慮や感謝の気持ちというものもないではありませんか。



現実として、生活保護を受けなければならないほど生活が苦しくとも、生活保護を受けずに働き、また年金だけで生活をしている方が大勢います。



それらの方々は当然、年金を払い、保険料を払い、税金を納め、その上で生活をしているわけですが、生活保護者は、一切それらを支払ってはいません。



それでいて、働かず、提供する側への配慮もなく、働く人間よりも良い生活を保障されているわけですから、これこそ、「真面目に働く人間が馬鹿をみる」世の中そのものではないですか?



もちろん、生活保護者の中には障害など止む終えない事情がある方が大勢いるとは思います。



しかし、そうではない受給者との区別が現在は全くと言っていいほどされてはいません(詳細は違うようですが)



また、生活保護を受ける方が厳しい条件下(最低賃金やバイトなど)で働くよりもお金を貰えるというのもあります。



これは完全にマクロとしての制度欠陥ではないでしょうか?



本来は、障害などの止む終えない事情がある場合は、生活保護で対処し、そうではない場合は、生活再建支援のような形を取るべきでしょう。(一部ではそういった支援はしているようですが)



このような生活保護者の実情こそが、実は一番の逆差別ではないか、と私は感じてなりません(もちろん、そうではない方も大勢いるのは承知しています)



またこれらが根になり、派生していく大きな問題としては、社会不信であり、また地域であれば人間不信であり、それは結果、国家の結束力を弱め、国体の維持に支障をきたすことにも繋がります。



元々日本人は、謙虚であり、配慮や遠慮がありましたが、残念ながら、このような制度欠陥や、介護士の話を耳にすればするほど、それらが崩壊し、自分勝手で傲慢な、自己中心的な日本人が増えてしまったと感じてしまいます。



子ども2人の母子家庭で、29万円支給されていて、これから生活保護費が削られて生活が苦しくなって困ると嘆く女性の話を平気で天下のクオリティーペーパー(皮肉を込めて)が載せる世の中。



正直、もう我慢の限界が近いですね。


真面目に働く人が馬鹿をみない。弱者もそうではない人も、互いに配慮し合う、そんな世の中になるような政治や制度であってもらいたいと願いますし、制度や法律では制御できない個人の倫理的問題は、教育の中できちっと教えてもらいたいものです。


また最後に、地域の大人たちもその一旦を担っている(親はもちろん最大な責任者であります)のだという自覚を持たなければならないと、私は思います。