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学校の教科書に、「学問のすすめ」を導入せよ!


福沢諭吉はなぜ一万円札に描かれたのか?


そんな話をすると、有名だから、頭のいい人だから、過去の偉人だからetc



そのような答えが返ってくるのですが、実際、福沢諭吉ってどんなことを考えていた人?って聞くと、何も答えられないのが我が日本の現状ではないでしょうか?


(まあ、せいぜい、「天は人の上に人を造らず」この一説を知っている程度の方がほとんどでしょう)



さて、そんな福沢諭吉ですが、一体どんな思想家だったのでしょうか。


とその前に、先日見聞きした福田恒存の一説を。


「現代日本の混乱は、和合と美とを生活の原理とする民族が、能率や権利義務を生活の原理とする西洋人の思想と制度を受け入れたことから生じている。権利義務の契約に基づく個人主義に慣れない人間が、その制度や法律を移入すれば、それは単なる利己主義を助長するにしか役立たない」



福田恒存は、日本独自の文明(伝統や慣習)こそが、私たち日本人及び日本国の根幹であり、西洋的合理主義や個人主義が蔓延した結果、我が国は規律を失い、文明を失うと同時に、国家観を失い、さらには国家を失う危機に瀕すると警鐘をならしているわけですが、実はこの言説の根幹にあるものが、「福沢諭吉の思想」そのものではないのか?ふとそんな風に私は感じました。



そんな福沢諭吉を一言で表すのは難しいかもしれません。しかしあえて拙者なりに考えれば、「ナショナリズムを前提とした実践主義者」であったと言えるのでないかと思うのです。



さらにその実践主義は、国民一人一人というミクロから、政府の役割というマクロにまでバランス良く及びます。



また、その理想的互換関係や相関関係についても述べています。



例えば政府と国民の関係性については次のような言説があります。


「文明を起こすのは 民間人であり、保護するのが政府」

「個人が独立してこそ一国の独立も可能」

「独立の精神がないものは国を愛する心も浅く、いいかげんである」

「圧政の原因は国民が無知だから」



たったこれだけを見ても、まさに現代日本が抱える問題が集約されているのがわかるかと思います。




まだまだ紹介したい言説は多いのですが、詳細はぜひ「学問のすすめ」を読んで頂ればと思います。




さてここからは、私からの問題提起です。


この国家とは、国民とは、どうあるべきか、という「ナショナリズムと実践」というテーマこそが、実は戦後、私たちが最も学ばなかった分野ではないでしょうか?
そして、それを学んでこなかったことで、どれだけ我が国は弱体化したでしょうか?


本来、この分野こそ、国家の安寧と自立(独立)には欠かせないものです。



ちなみに戦後は、その欠落をアメリカの合理と覇権によって補ってもらっていました。



しかし、そのアメリカの合理はもはや極めて非合理であることが証明され、覇権も瓦解しつつあります。



今後、そこに頼ることも出来なくなりつつある我が日本において、この福沢諭吉の「学問のすすめ」の思想こそ、我が国の救世主となるのではないか?いや、そうならなければならない!そんなことを私は夢想しています。



では、この「学問のすすめ」は誰が学べばいいのでしょうか?



やはり子供たちであるべきだと思います。(当然、大人も読むべき)


この著書を教育の場で、当たり前のように、学ぶことができれば、私たち日本人の未来に光が差し込むのではないか、そう思えてならないのです。

(まあ、そういう話をすると、思想の植え付け(洗脳)だ!と批判する人も居るかもしれませんが、では、思想の植え付けをしていない教育とやらをぜひ教えて頂きたい)




これらの考えは、きっと、政府やメディアが祭り上げる、「イノベーションを起こせる人材教育を!や、グローバルな中で戦える人材教育を!!」とは、おそらく真逆の方向にあるでしょう。



しかし同時に、福沢諭吉のナショナリズムと実践主義はそれらも内包する強靱性(強靱性とは柔軟で強固である)を持ったものだと私には読み解けます。



まさに「内側を向くことは、必然的に外を意識すること」であり、「外しか見ようとしない人間ほど脆弱なものはない」ということなのだと思います。



福沢諭吉が掲げた「開国攘夷論」などは、まさにその象徴でしょう。



こうした実践主義的な思想を子どものうちから学んでおく事は、極めて大事であり、その教育を受けた者達がまた国家を強靭にしていくのだと思います。



しかし残念ながら、現実的に学校教育の中で福沢諭吉の「学問のすすめ」を学ぶ事は皆無でしょう。


それだけに、ぜひ、家庭内教育として、お子さん達に読ませてみてはどうかと私は思うのです。



そして我が家でも、もうすぐその時期が訪れそうです。



女性の社会進出の矛盾


女性の活用、女性の社会進出を促進などなど、女性の社会進出を訴える政策やらが、あまりのも多いのだけど、ちょっとここで疑問。



そもそも専業主婦は、社会の一員じゃないのですか?



会社で働いて、サラリーを得ることだけが、社会進出なのですか?



子育てをして、家事をして、地域との振興を計って、学校や習い事などの場で交流をして、そんな専業主婦が、社会に貢献していないとでも?


私からすれば、子どもを育てる事もせず、好き勝手に生きている一部のキャリアウーマンの方が、よほど社会に貢献していないと思いますけどね。



何が社会進出なのか、その意味をはき違え、男女平等をはき違え、論点をずらした愚かなフェミニスト達や、安倍政権の女性の活用性政策。



正直、もう終わってますよ。





余談ですが、私の知り合いが、ある独身資産家男性に「独身だと税金を一杯払わなきゃいけなくて損だ。貴方は子どもも居るし妻も扶養だから、税金が安くなっていいね」と言われたそうです。


その方はこう言い返したそうです。「子育てをするのにどれほどの犠牲や投資が必要だと思いますか?それは貴方と私が払う税金の差額で済む額でしょうか?」と。



さらにその知り合いは私に「彼は彼が死んだ後、消費や生産や納税をすることはできない。しかし、私には二人の子どもがいる。だからその二人は私が死んだ後にも消費し続け、生産しつづけ、税金を払う事ができるし、さらに次の世代にも子どもを残せる。これは彼との絶対的な差になる」


おっしゃる通りだと思います。


一時的に税金を多く収める資産家よりも、次の世代、そしてさらに次の世代と継続して税金を収める方が遥かに社会や国家への貢献度も違いますし、個人レベルでは、莫大な税負担となっているわけです。


こういう想像力が及ばない人間が多い事に嘆きつつ、社会とは何か?というものについて今一度考えせられたきっかけとなりました。






議論が出来ない国、日本

政治の場をみても、居酒屋の会話や、一般的なコミニュケーションの場でも、私は議論というものを聞いた事が残念ながらほとんどありません。


ただ、自分の主張するばかりであったり、感情的な話ばかりであったり、また他人の受け売りのような話ばかりであったり、一体、彼らは何を求めているのだろうか?と疑問を持ちます(もちろん、それぞれに理由があるのでしょうが)


では、なぜここまで日本人が議論できない民族となってしまったか、それをひも解くと、実はその言語(日本語)の特性にあるのではないか、そんな気もしてくるのです。



日本語の特徴というものは、日本人ならば当たり前のように使っているだけに、あまり考えた事はないかもしれませんが、実にセンチメンタルで曖昧な表現が多い言語なのです。



例えば、「大丈夫です」というのは、NOともYESとも取れますし、「考えておきます」なども同じようにNOともYESとも取れます。


あえて英語で比較しましたが、英語はA~Zだけで言語を構成する、至ってシンプルなものです。それ故に、グレーゾンが少なく、YESかNOがはっきりしているの言語だということがわかります。


それに対し日本語はどうでしょうか? 感情を表現する言葉が無数に存在し、またカタカナ、漢字、ひらがなと、極めて複雑です。



このように、明らかに言語の特性に違いがあるわけですが、この言語を先祖代々続けて行く事によって、その国民性、民族性が左右されると言っても過言ではないと思うのです。


さてここで議論するにあたり、重要なことを書き記さなければなりません。



それはロジック(論理)を展開しやすいか、しづらいか、という点です。



先にも述べたように、日本語には、感情を表現する方法が無数にあるが故に、はっきりとした表現をする機会はほとんどありません。むしろ、その感情を如何に表すか、ということこそに重きが置かれているわけです。


しかし議論するにあたり、その感情は、時として邪魔になります。当然ですが、感情同士をぶつけ合っても、答えが出ることは稀だからです。


それに対し、感情表現が多くない英語は、単純なだけに、如何に答えを出せるか、という論理性に優れた言語と言えるでしょう。



もちろん、私は感情を豊かに表現出来る日本語は素晴らしいと思いますし、どの言語よりも優れたものであると感じています。


と同時に、この日本語にロジックというものが加われば無敵ではないか?とさえ思うのです。


しかし残念ながら、ある特性が秀でた場合、対局にあるものが劣るというのはある意味、自然の摂理でもあるわけです。


アメリカ人が感情表現を単純化させ、論理性を強めたように、日本人は、感情表現を複雑化させたゆえに、論理性が弱くなったのです。



この言語の特性と国民性にいち早く気がついていたのは、福沢諭吉ではないでしょうか。



福沢諭吉はこのような論理に弱い、議論べたな日本人のために「学問のすすめ」を執筆したとも言われているほどに、日本語の本質を見抜いていたのです。



今から100年近くも前にそのような問題点を明確に指摘し、それを改善しようとした福沢諭吉。さて、我々現代に生きる日本人は、その教えを理解してきたのでしょうか?


残念ながら、私にはそれが出来たようにみえません。


それを時代が違う、などと安易に退けることは傲慢です。むしろ、歴史や過去の偉人から学ぶ姿勢こそ、未来の時代を築くためには必至であると私は思うのです。


自分たちの言語の特性を良く理解し、そのいい点は伸ばし、悪い点は改善する、これこそが大事なのではないか、そしてさらにその弱点を克服するためには、それこそ福沢諭吉のいう「学び」が必要であり、それに裏付けされた論理的議論に慣れる必要があると思うのです。