ゆとり教育と個性
ゆとり教育の是非を今問えば、ほとんどの国民は、あれは失敗だったと言うでしょう。
私も実際にあれはおかしなものであったと思っていはいます。
しかし、何がおかしかったのか?という点については、ほとんど論じられることはありません。
私は当時、ゆとり教育の思想は決して間違ってはいないのではないか、むしろ、その思想の是非ではなく、それを実践していく教師側のソフトとハード部分が構築されていない中でのゆとり教育は決して成功しない、そう思っていました。
言い換えれば、理想主義だけを掲げ、それが現実の教育現場のストラクチャーに合致していなかったということです。
しかしその後、私はそのゆとり教育の理想主義にも懐疑的になりました。
そのきっかけとなったのは、福田恆存のこの言葉です。
「戦後の教育は、強制と禁止を排し、個性を尊重した結果、個性のある人間はかえって少なくなったようです。なぜならば、個性は強制と禁止によってしか生じないのです」
以前までは、理不尽な校則などは無意味であると思っていた私にとって、この言葉はある意味衝撃的でした。
「個性は強制と禁止によってしか生じないのです」確かに福田恆存の言うように、ある種の抑圧が前提にないものから、個性が生まれると言うのは、よほど突然変異的でない限り難しいのではないでしょうか。
わかりやすい喩えをするのならば、「なんでも好きなようにして良いですよ」と言われると、ほとんどの人間は何をしていいのか分からなくなる(思考停止する)、そういうことだと思うのです。
逆に、あれも駄目、これも駄目と禁止されるほどに、人はその抑圧から脱しようと、様々な手法を試み、思考すると思うのです。
言い換えれば、人間における自由とは、相対的に抑圧が前提であり、それが排されると、そもそもの自由だとか個性だとかいう概念が奪われてしまうということなのです。
こうなったら最後、個性どころではなく、深刻なニヒリズムへと陥るでしょう。
そのようなゆとり教育を受けてきた世代を、「ゆとり世代」や「悟り世代」などと揶揄されることもありますが、ある意味、それは必然でもあったのではないでしょうか。
かの個性の塊である岡本太郎も、あの個性を発揮する以前、軍隊生活を経験しています。
後に彼は当時を振り返り、凄まじい抑圧を受けたが、その反動もまた凄まじいものがあった、と言ったようなことを述べています。
これこそ、福田恆存の言う、個性は強制と禁止によってしか生じないというその言葉どおりだったとも言えるのではないでしょうか。
ゆとり教育が終焉を迎えた今でさえも、強制や禁止は個性を害するとされる風潮が色濃く残っています。
自由というものから個性が生まれると思い込んでいるわけです。
教育者や大人達がこのドグマから抜け出さない限り、本当の意味での個性などは生まれるわけもないと私は感じます。
自由勝手にやらせ、世界に通ずるイノベーションが出来る人材を育成するなどと戯言を言うのであれば、福田に倣い、今こそ、「強制と禁止」を行うべきなのです。
むしろ、それらを排した結果、個性という似非の殻を被った利己主義者たちで社会は溢れ返り、権利権利と叫び、その中身も個性も何も無い、精神衰弱者やニヒリストばかり、そんな時代になってしまうではないでしょうか。
ノーベル平和賞の策略と胡散臭さ
毎回思うのですが、そもそもノーベル平和賞って何なんでしょうかね?
誰とは言いませんが、過去の受賞者にも、明らかにおかしな人たちが居ますし、そもそも平和って何なんだろう?と考えた時、それを賞として扱うという事自体に、違和感を覚えます。
平和とは、単に戦争と戦争の間の期間、時期であるだけと私は思うのです。
さらに言えば、多くの人々は戦争を嫌い、平和を望んでいるでしょう。それだけにあえて平和だなんだというのは、私にはちょっと理解に苦しむ所ですし、それを壊そうとしている根本は何なんでしょう?と考えると、西洋的価値観であり、グローバリズムそのものだと思うのです。
さらに今回、とても違和感を覚えたのは、パキスタンの少女、マララさんの受賞です。
別に私は彼女個人についてとやかく言うつもりは毛頭ありません。「パキスタンにそういう考えを持った少女がいた」、それだけの話だと思っているのです。
しかし問題なのは、その少女を担ぎ上げ、ノーベル平和賞なるものを受賞させた者達の欺瞞と偽善と策略が見え隠れすることなのです。
そもそも女性の権利的(教育など)な話は、一つの価値観にすぎません(私たちにとっては当たり前かもしれませんが)
国家によって、又は宗教や歴史や伝統や文化によって、その価値観はそのそも違うわけです。
それを一つの価値観(この場合、西洋的民主主義)に世界を統一させようというある種の試みがあり、その試みの根源は、アメリカのウォール街を中心として世界に広まった強欲資本主義者たちによる地球戦略に他なりません。
彼らはまず、自分たちと考え、文化などが違う国(この場合イスラム圏ですが)に対し、民主化を求めます。そして民主化した後には、市場を解放させます。(いわゆる民営化という奴です)
その上で自分たちの資本を投入し、彼らの市場を食い荒らすわけです。
これは今、ロシアに対しても彼らは同じようなことを行っています。プーチンを叩いて政権から引きづり降ろし、民主化させてロシアの市場を食いたいということなのでしょう。
そのような視点で見た時、今回のマララさんのノーベル賞受賞は、明らかにその西洋的民主主義の価値観を押し付け、民主化させようという戦略の一環に過ぎないのではないか、という疑義が生じるのです。
また、そもそも正義というものを考えた時、一方が正義で、もう一方が悪という勧善懲悪にはなりません。
一方が正義と同時に、もう一方も正義であり、逆説的にはどちらも悪であり、どちらも正義という見方もできるわけです。(まあ、言い換えれば正義などというのは存在しない、ということなんですが)
今回の場合も、マララさんが正義で、マララさんに反対する勢力(この場合、イスラム原理主義者など、女性の教育の権利を与えないと考える人たち)が悪と決めつけるのは、いささか安直だと思います。
むしろ、あえて逆の立場に立って考えれば、マララさんは、急進的な反体制勢力であり、彼らが積み上げてきた文化、歴史、宗教を否定する危険人物であるともいえるのです。
もちろん、先に述べたように、マララさん個人に対しては、そういう少女がいた、というだけであって私は特別な感情を持ちませんし、否定もしません。
しかしこのような視点を持たずに、マララさんを担ぎ上げ、賛美賞賛することが、果たして良いことなのだろうか?ということに疑問を呈しているのです。
またさらに視点を変えれば、スペインの哲学者オルテガが、「弱者に権利を与えた事が今日の世界の混乱を招いている」と言ったようなことも忠告しています。
文化、歴史、伝統などよりも、権利が上回ったとき、果たしてそれが本当に彼ら、又、私たちの幸福や平和に繋がるんでしょうかね?ということです。
これら全体を踏まえると、ノーベル平和賞なるものが如何にも胡散臭いとものだと、断言せざるを得ないのです。
誰とは言いませんが、過去の受賞者にも、明らかにおかしな人たちが居ますし、そもそも平和って何なんだろう?と考えた時、それを賞として扱うという事自体に、違和感を覚えます。
平和とは、単に戦争と戦争の間の期間、時期であるだけと私は思うのです。
さらに言えば、多くの人々は戦争を嫌い、平和を望んでいるでしょう。それだけにあえて平和だなんだというのは、私にはちょっと理解に苦しむ所ですし、それを壊そうとしている根本は何なんでしょう?と考えると、西洋的価値観であり、グローバリズムそのものだと思うのです。
さらに今回、とても違和感を覚えたのは、パキスタンの少女、マララさんの受賞です。
別に私は彼女個人についてとやかく言うつもりは毛頭ありません。「パキスタンにそういう考えを持った少女がいた」、それだけの話だと思っているのです。
しかし問題なのは、その少女を担ぎ上げ、ノーベル平和賞なるものを受賞させた者達の欺瞞と偽善と策略が見え隠れすることなのです。
そもそも女性の権利的(教育など)な話は、一つの価値観にすぎません(私たちにとっては当たり前かもしれませんが)
国家によって、又は宗教や歴史や伝統や文化によって、その価値観はそのそも違うわけです。
それを一つの価値観(この場合、西洋的民主主義)に世界を統一させようというある種の試みがあり、その試みの根源は、アメリカのウォール街を中心として世界に広まった強欲資本主義者たちによる地球戦略に他なりません。
彼らはまず、自分たちと考え、文化などが違う国(この場合イスラム圏ですが)に対し、民主化を求めます。そして民主化した後には、市場を解放させます。(いわゆる民営化という奴です)
その上で自分たちの資本を投入し、彼らの市場を食い荒らすわけです。
これは今、ロシアに対しても彼らは同じようなことを行っています。プーチンを叩いて政権から引きづり降ろし、民主化させてロシアの市場を食いたいということなのでしょう。
そのような視点で見た時、今回のマララさんのノーベル賞受賞は、明らかにその西洋的民主主義の価値観を押し付け、民主化させようという戦略の一環に過ぎないのではないか、という疑義が生じるのです。
また、そもそも正義というものを考えた時、一方が正義で、もう一方が悪という勧善懲悪にはなりません。
一方が正義と同時に、もう一方も正義であり、逆説的にはどちらも悪であり、どちらも正義という見方もできるわけです。(まあ、言い換えれば正義などというのは存在しない、ということなんですが)
今回の場合も、マララさんが正義で、マララさんに反対する勢力(この場合、イスラム原理主義者など、女性の教育の権利を与えないと考える人たち)が悪と決めつけるのは、いささか安直だと思います。
むしろ、あえて逆の立場に立って考えれば、マララさんは、急進的な反体制勢力であり、彼らが積み上げてきた文化、歴史、宗教を否定する危険人物であるともいえるのです。
もちろん、先に述べたように、マララさん個人に対しては、そういう少女がいた、というだけであって私は特別な感情を持ちませんし、否定もしません。
しかしこのような視点を持たずに、マララさんを担ぎ上げ、賛美賞賛することが、果たして良いことなのだろうか?ということに疑問を呈しているのです。
またさらに視点を変えれば、スペインの哲学者オルテガが、「弱者に権利を与えた事が今日の世界の混乱を招いている」と言ったようなことも忠告しています。
文化、歴史、伝統などよりも、権利が上回ったとき、果たしてそれが本当に彼ら、又、私たちの幸福や平和に繋がるんでしょうかね?ということです。
これら全体を踏まえると、ノーベル平和賞なるものが如何にも胡散臭いとものだと、断言せざるを得ないのです。
なぜ結婚はおめでとうなのか?
結婚おめでとう!という台詞を聞く度に違和感を覚える私。
まあひねくれてると言ってしまえばそれで終わりなのですが、私なりにある思いもあるのです。
まずは、その私の思いに近い福田恆存の一説を紹介したいと思います。
「理解は決して結婚の基礎ではない。むしろ結婚とは、二人の男女が、今後何十年、お互いにお互いの理解しなかったものを発見しあっていきましょうということではありますまいか。すでに理解し合っているから結婚するのではなく、これから理解し合おうとして結婚するのです。である以上、例え、人間は死ぬまで理解し合えぬものだとしても、お互いに理解し合おうと努力するに足る相手だと言う直観が基礎になければなりません。同時に、結婚後も、めったに幻滅に打ち負かされぬ粘り強さも必要です」
まさに福田恆存は結婚はゴールではなく、スタートであると述べているわけですが、であるとするならば、なぜ結婚は「おめでとう」なのでしょうか?
もしも、おめでとうと言うのならば、まさに、「お互いを理解し合おうと努力するに足る相手だと直観できた」ことに対するものであり、結婚そのものに「おめでとう」というのは、単なる形式的かつ形骸化した挨拶程度のものと言わざるをえないように思えるのです。
さらに福田は「結婚後も、めったに幻滅に打ち負かされぬ粘り強さも必要です」と、その困難さも述べています。
言い換えれば、おめでとういうよりも、むしろ叱咤激励するのが、本質的ではないのか、そう思うわけです。
また、「人生は一人で生きて行くにはあまりにも長過ぎる。しかし、たったひとりの誰かを理解するにはあまりにも短過ぎる」
これもまた有名な一説ですが、同じように結婚はスタートであり、むしろ、それからが困難極まるものであり、仮にそれが成就したとしたのならば、それは死である、そんな風にも読み解けると思うのです。
もしもこのようなことを理解し、相手がこれから背負うであろう困難が想像できるのであれば、安易におめでとうという言葉を使うことが、如何にも無責任に聞こえてはこないでしょうか?
さて皆さんは、結婚はおめでとうでしょうか?