ノーベル平和賞の策略と胡散臭さ | ひより

ノーベル平和賞の策略と胡散臭さ

毎回思うのですが、そもそもノーベル平和賞って何なんでしょうかね?



誰とは言いませんが、過去の受賞者にも、明らかにおかしな人たちが居ますし、そもそも平和って何なんだろう?と考えた時、それを賞として扱うという事自体に、違和感を覚えます。



平和とは、単に戦争と戦争の間の期間、時期であるだけと私は思うのです。



さらに言えば、多くの人々は戦争を嫌い、平和を望んでいるでしょう。それだけにあえて平和だなんだというのは、私にはちょっと理解に苦しむ所ですし、それを壊そうとしている根本は何なんでしょう?と考えると、西洋的価値観であり、グローバリズムそのものだと思うのです。



さらに今回、とても違和感を覚えたのは、パキスタンの少女、マララさんの受賞です。



別に私は彼女個人についてとやかく言うつもりは毛頭ありません。「パキスタンにそういう考えを持った少女がいた」、それだけの話だと思っているのです。



しかし問題なのは、その少女を担ぎ上げ、ノーベル平和賞なるものを受賞させた者達の欺瞞と偽善と策略が見え隠れすることなのです。



そもそも女性の権利的(教育など)な話は、一つの価値観にすぎません(私たちにとっては当たり前かもしれませんが)



国家によって、又は宗教や歴史や伝統や文化によって、その価値観はそのそも違うわけです。



それを一つの価値観(この場合、西洋的民主主義)に世界を統一させようというある種の試みがあり、その試みの根源は、アメリカのウォール街を中心として世界に広まった強欲資本主義者たちによる地球戦略に他なりません。




彼らはまず、自分たちと考え、文化などが違う国(この場合イスラム圏ですが)に対し、民主化を求めます。そして民主化した後には、市場を解放させます。(いわゆる民営化という奴です)


その上で自分たちの資本を投入し、彼らの市場を食い荒らすわけです。




これは今、ロシアに対しても彼らは同じようなことを行っています。プーチンを叩いて政権から引きづり降ろし、民主化させてロシアの市場を食いたいということなのでしょう。



そのような視点で見た時、今回のマララさんのノーベル賞受賞は、明らかにその西洋的民主主義の価値観を押し付け、民主化させようという戦略の一環に過ぎないのではないか、という疑義が生じるのです。



また、そもそも正義というものを考えた時、一方が正義で、もう一方が悪という勧善懲悪にはなりません。



一方が正義と同時に、もう一方も正義であり、逆説的にはどちらも悪であり、どちらも正義という見方もできるわけです。(まあ、言い換えれば正義などというのは存在しない、ということなんですが)




今回の場合も、マララさんが正義で、マララさんに反対する勢力(この場合、イスラム原理主義者など、女性の教育の権利を与えないと考える人たち)が悪と決めつけるのは、いささか安直だと思います。




むしろ、あえて逆の立場に立って考えれば、マララさんは、急進的な反体制勢力であり、彼らが積み上げてきた文化、歴史、宗教を否定する危険人物であるともいえるのです。




もちろん、先に述べたように、マララさん個人に対しては、そういう少女がいた、というだけであって私は特別な感情を持ちませんし、否定もしません。



しかしこのような視点を持たずに、マララさんを担ぎ上げ、賛美賞賛することが、果たして良いことなのだろうか?ということに疑問を呈しているのです。



またさらに視点を変えれば、スペインの哲学者オルテガが、「弱者に権利を与えた事が今日の世界の混乱を招いている」と言ったようなことも忠告しています。



文化、歴史、伝統などよりも、権利が上回ったとき、果たしてそれが本当に彼ら、又、私たちの幸福や平和に繋がるんでしょうかね?ということです。




これら全体を踏まえると、ノーベル平和賞なるものが如何にも胡散臭いとものだと、断言せざるを得ないのです。