誤認される福沢諭吉
以前に福沢諭吉の「学問のすすめ」を教科書にするべきだと書いたことがある。
その意見に変わりはないのだが、同時に、学問のすすめ、いや福沢諭吉の思想、言説が極めて誤解を招きやすく、また恣意的にある偏ったイデオロギー(思想)を持った者たちに利用されやすいのではないか、そんなことを感じたのである。
例えば彼が主張する平等であるが、これは人権団体にとっては自らの主張を正当化する格好の言説である。
しかし彼は同時に、学ぶ者と学ばざる者に大きな違いが生じると述べているし、そもそも個人の自由や権利以前に、国権や報国心なくしては駄目だと述べている。この事から人権団体の主張とは全く異なる事がわかる。
また彼は独立の精神を養うことこそ重要とし、精神と物質の両面において独立すべしと説いている。
この言説もまた、個人主義者にとっては都合が極めて良い言説だ。しかし福沢諭吉は、その個人の独立の意義と最終目的を国家の独立としているし、また知的脆弱、精神的脆弱は、隷属性と思考停止を生じさせ、結果、全体主義化することへの批判でもあった。
さらに付け加えるのならば、個人主義の基盤はあくまで社会という地盤があってこそ達成できると言っているわけで、個人は集団(社会)のあくまで一員であり、その社会を害する行為を批判している。
そして私が一番違和感を感じたのは、福沢諭吉の進歩と合理に関する記述だ。彼のその一説をそのまま受け止めるのならば、市場の合理性こそ社会を進歩させると捉えられかねない(又は官がそれを妨げている)
この誤認こそ、後に自然科学に傾倒する経済学者達(新古典派経済学者)に福沢諭吉が利用された一番の要因であり問題であると私は感じている。
しかしながら福沢諭吉は、文明が徳義にいかに深く関わっているかを説き、また社会全体のコモンセンス(常識)の重要性にも言及していることから、単なる合理だけでは不十分であると考えていたことは間違いない。
このように、福沢諭吉は、後に多くの、それこそ専門知を持った招かざる客たちの格好の餌食になり、左翼から保守や右翼までもが賛美するという特異な思想家であったわけだ。
この他にも、誤認されてしまう記述は多く散見されているのだが、とりあえず私が言いたい事は、福沢諭吉を単純にその一説だけを切り取って解釈すべきではなく、彼の思想の全体像を把握してこそ、その意味とそれを今こそ読むべき意義があると言いたいだけなのである。
しかし残念なのは、現在、超絶ニーチェなるものや、入門福沢諭吉のような、あるイデオロギーを持った著者によって切り取られ、恣意的に別の意味にすり替えられたものが世に多く出回っていることだ。(またそれらが賛美されていることも問題だ)
これらはその本質を無視し、特定のイデオロギーを正当化させるためだけの贋作であると断言してもよいし、その受け手のよる解釈も、真意とはほぼ一致しないことは間違いないだろう。
そう考えた時、福沢諭吉の学問のすすめを、もしも学校教育で取り入れたらどうなるか?を今一度、拙者なりに考え直してみると、実は危険性もかなりあるのではないか、そう思うようにもなった。
もちろん、どんな優れた文章や言説でも、その受け手や贋作者によって解釈をねじ曲げられることはあるだろうし、まして福沢諭吉のような曖昧さは、尚更そういった作為から逃れることは困難なことだろう。
ニーチェのキリスト批判がナチスに利用されたように、時の施政者や教育者によって、なんとでも解釈されてしまうものであるということは、歴史的にみても否定しがたいものというわけだ。
しかし、そういった危険性を理解した上でも、福沢諭吉の実学は極めて重要であるのは間違いないだろうし、現代人が学ぶに値するものである事に変わりはないと思う。
ただし、福沢諭吉の話を全て真に受ける必要も無い。疑念を覚えたり、違和感を覚えてることはあっていいと思う。その違和感こそが、福沢諭吉の全体像を捉えるに、また役立つのではないだろうか。
その意見に変わりはないのだが、同時に、学問のすすめ、いや福沢諭吉の思想、言説が極めて誤解を招きやすく、また恣意的にある偏ったイデオロギー(思想)を持った者たちに利用されやすいのではないか、そんなことを感じたのである。
例えば彼が主張する平等であるが、これは人権団体にとっては自らの主張を正当化する格好の言説である。
しかし彼は同時に、学ぶ者と学ばざる者に大きな違いが生じると述べているし、そもそも個人の自由や権利以前に、国権や報国心なくしては駄目だと述べている。この事から人権団体の主張とは全く異なる事がわかる。
また彼は独立の精神を養うことこそ重要とし、精神と物質の両面において独立すべしと説いている。
この言説もまた、個人主義者にとっては都合が極めて良い言説だ。しかし福沢諭吉は、その個人の独立の意義と最終目的を国家の独立としているし、また知的脆弱、精神的脆弱は、隷属性と思考停止を生じさせ、結果、全体主義化することへの批判でもあった。
さらに付け加えるのならば、個人主義の基盤はあくまで社会という地盤があってこそ達成できると言っているわけで、個人は集団(社会)のあくまで一員であり、その社会を害する行為を批判している。
そして私が一番違和感を感じたのは、福沢諭吉の進歩と合理に関する記述だ。彼のその一説をそのまま受け止めるのならば、市場の合理性こそ社会を進歩させると捉えられかねない(又は官がそれを妨げている)
この誤認こそ、後に自然科学に傾倒する経済学者達(新古典派経済学者)に福沢諭吉が利用された一番の要因であり問題であると私は感じている。
しかしながら福沢諭吉は、文明が徳義にいかに深く関わっているかを説き、また社会全体のコモンセンス(常識)の重要性にも言及していることから、単なる合理だけでは不十分であると考えていたことは間違いない。
このように、福沢諭吉は、後に多くの、それこそ専門知を持った招かざる客たちの格好の餌食になり、左翼から保守や右翼までもが賛美するという特異な思想家であったわけだ。
この他にも、誤認されてしまう記述は多く散見されているのだが、とりあえず私が言いたい事は、福沢諭吉を単純にその一説だけを切り取って解釈すべきではなく、彼の思想の全体像を把握してこそ、その意味とそれを今こそ読むべき意義があると言いたいだけなのである。
しかし残念なのは、現在、超絶ニーチェなるものや、入門福沢諭吉のような、あるイデオロギーを持った著者によって切り取られ、恣意的に別の意味にすり替えられたものが世に多く出回っていることだ。(またそれらが賛美されていることも問題だ)
これらはその本質を無視し、特定のイデオロギーを正当化させるためだけの贋作であると断言してもよいし、その受け手のよる解釈も、真意とはほぼ一致しないことは間違いないだろう。
そう考えた時、福沢諭吉の学問のすすめを、もしも学校教育で取り入れたらどうなるか?を今一度、拙者なりに考え直してみると、実は危険性もかなりあるのではないか、そう思うようにもなった。
もちろん、どんな優れた文章や言説でも、その受け手や贋作者によって解釈をねじ曲げられることはあるだろうし、まして福沢諭吉のような曖昧さは、尚更そういった作為から逃れることは困難なことだろう。
ニーチェのキリスト批判がナチスに利用されたように、時の施政者や教育者によって、なんとでも解釈されてしまうものであるということは、歴史的にみても否定しがたいものというわけだ。
しかし、そういった危険性を理解した上でも、福沢諭吉の実学は極めて重要であるのは間違いないだろうし、現代人が学ぶに値するものである事に変わりはないと思う。
ただし、福沢諭吉の話を全て真に受ける必要も無い。疑念を覚えたり、違和感を覚えてることはあっていいと思う。その違和感こそが、福沢諭吉の全体像を捉えるに、また役立つのではないだろうか。
一票の格差はあっていい。
みんなの党やら、人権団体やら、はたまた司法の最高機関である最高裁でさえも、一票の格差は是正すべきと主張しています。(本当は最高裁が一票の格差をとやかく言う根拠は無い)
一見聞くと、一票に格差があることは、決して良い事ではないように思えます。私が投じた一票よりも、地方の方が投じた一票の方が重く、平等という観点から外れるからです。
確かに私たちは憲法も含め、生まれながらに平等であるという理想主義を掲げています。しかし同時に、私たちは公の一員として、マクロ的な視野を持ってして平等を考える責任もあるのです。
このマクロ的視点というのは、ミクロとは平等の概念が異なります。(合成の誤謬)
ですから私は、ミクロは平等でも、マクロは「公平」と称するべきと主張しています。
この公平という観点を元に、一票の格差を考えた時、果たしてそれは悪でしょうか?是正すべき問題でしょうか?という疑念が生じるはずです。
なぜならば、もしも地方と都市部で完全な平等(一票の格差ゼロ)にしてしまえば、都市部の人間が自動的に優位になり、地方の事情や状況を無視し、都市部に有利な政策ばかりになってしまうからです。
そうなれば、地方はさらに疲弊し、衰退してしまうのは火を見るより明らかです。
言い換えれば、一票の格差は、ミクロ的に(個人レベル)は不平等でも、マクロ的には平等(この場合、公平)になるわけです。
当然、逆に一票の格差を無くすと、ミクロ的には平等になっても、マクロ的には不平等(不公平)になるわけです。
まさに、この矛盾こそが、一票の格差問題の根底にあるわけです。
それをどう解釈するのか、いやどちら側に立って判断するのか、ということが問われているわけですが、残念ながら司法のトップでさえも、個人を優先したとなれば、公としての平等は一体、誰が保障するというのでしょうか?
当然、政府や政治家も最高裁でこのような判決が出た以上、それに従わざるを得ません(法治国家ですから)
マクロ的視野を持った、まともな政治家さん達が、公平よりも平等を政策として取らなければならないのは、本当に苦渋の選択でしょう。
これもまた、個人を重視し、公を蔑ろにする思想が、我が国民(最高裁でさえ)に植え付けられてしなったからではないでしょうか。
個人主義という名の利己主義、個人の権利主義は、一体どこまで強欲になれば気が済むのでしょう、、、本当に先が思いやられます、、、、
一見聞くと、一票に格差があることは、決して良い事ではないように思えます。私が投じた一票よりも、地方の方が投じた一票の方が重く、平等という観点から外れるからです。
確かに私たちは憲法も含め、生まれながらに平等であるという理想主義を掲げています。しかし同時に、私たちは公の一員として、マクロ的な視野を持ってして平等を考える責任もあるのです。
このマクロ的視点というのは、ミクロとは平等の概念が異なります。(合成の誤謬)
ですから私は、ミクロは平等でも、マクロは「公平」と称するべきと主張しています。
この公平という観点を元に、一票の格差を考えた時、果たしてそれは悪でしょうか?是正すべき問題でしょうか?という疑念が生じるはずです。
なぜならば、もしも地方と都市部で完全な平等(一票の格差ゼロ)にしてしまえば、都市部の人間が自動的に優位になり、地方の事情や状況を無視し、都市部に有利な政策ばかりになってしまうからです。
そうなれば、地方はさらに疲弊し、衰退してしまうのは火を見るより明らかです。
言い換えれば、一票の格差は、ミクロ的に(個人レベル)は不平等でも、マクロ的には平等(この場合、公平)になるわけです。
当然、逆に一票の格差を無くすと、ミクロ的には平等になっても、マクロ的には不平等(不公平)になるわけです。
まさに、この矛盾こそが、一票の格差問題の根底にあるわけです。
それをどう解釈するのか、いやどちら側に立って判断するのか、ということが問われているわけですが、残念ながら司法のトップでさえも、個人を優先したとなれば、公としての平等は一体、誰が保障するというのでしょうか?
当然、政府や政治家も最高裁でこのような判決が出た以上、それに従わざるを得ません(法治国家ですから)
マクロ的視野を持った、まともな政治家さん達が、公平よりも平等を政策として取らなければならないのは、本当に苦渋の選択でしょう。
これもまた、個人を重視し、公を蔑ろにする思想が、我が国民(最高裁でさえ)に植え付けられてしなったからではないでしょうか。
個人主義という名の利己主義、個人の権利主義は、一体どこまで強欲になれば気が済むのでしょう、、、本当に先が思いやられます、、、、
人間だからこその結婚
動物界のつがいを、一夫多妻であるとか、一夫一婦であるとか表現することもありますが、実際に動物界では、一夫多妻も一夫一婦もありません。(言葉遊びですが)
彼らには、そもそも結婚という概念を生むだけの理知性がありませんから、あるのは単なる本能的結果だけあり、この場合は、つがいと考えるのが自然でしょう。
あえてそれを人間界に当てはめるのであれば、恋愛状態にあるカップルが、そのまま子育てまでする、ということではないでしょうか。
逆に、そもそも人間の結婚を動物としてだけに限定すれば、一夫多妻が自然です。(実際に、そのような歴史が長く続いてきました)
しかし人間には他の動物にはない概念(この場合、結婚という制度)を生み出す理知性があります。
それは、自分たちが猿や犬とは一線を画す生き物であるという自負(誇り)の現れではないか、そう思うわけですし、私自身もそうあるべきだと考えています。
そこを前提に話をさせて頂くと、人間にとっての結婚というのは、そういった本能的なものに対峙する制度であり概念であるということが明白であることがわかります。
言い換えれば、結婚を否定や拒否するということは、その他の動物同様であるという側面もあるのです(穿った視点ではありますが)
またそれは、特に男性に顕著に現れているのではないでしょうか?
これは男女どちらの方が結婚という概念に対し、本能の抵抗が強いか、という問題だと私は考えています。
先に述べたように、人間の本能は一夫多妻です。それに対し,現代の結婚制度は一夫一婦制です。このギャップこそ、本来は理知性で埋めなければならないのですが、このような男性の欲望(本能)を考慮すれば、そう簡単な問題でもないと思います。
元々、多くの女性に精子を提供できる男性と、一人の子どもに対し、一人の男性の精子しか受精できない女性との根本的違いがあるからです。
では、なぜ私たち人間はそのような本能に逆らった結婚という制度を認め、それをしようとしているのでしょうか?
その一番の理由は、個人の生活(安全保障など)の基礎になる社会や国家という概念の構造的問題と、理知性を持った人間だからこその、「誇り」であると私は思っています。
そこを踏まえて考えた時、現代はどうでしょうか?
グローバリズムや自由平等や個人主義、権利社会の中で、社会や国家という概念が極めて希薄になりつつあります。
人も物も自由に行き来できる、というのは、確かに一見すると悪いようには思えません。しかしながら、全ての人々がこのような考えのもと生きていったらこの世の中はどうなるでしょうか。
歴史や文化はもちろん、伝統や慣習さえも無くなり、その個人の正統性さえ無くなります。
このような状況になれば、人間は地球上から滅びてしまうか、原始的で野蛮な世界へと変わってしまうことでしょう。
また、人に迷惑さえかけなければ何をしても自由という権利主義を楯にしたような考えもあります。
例えば援助交際などその良い例でしょう。援助交際は確かに人に迷惑を掛けているとは言い切れません。それをその個人の自由と権利と言われてしまえば、確かにそうでしょう。
しかし、そこに人間としての誇りはありますか?と問えば、私には決してそれが誇りある行為であるとは到底思えないのです。
例え人に迷惑が掛からずとも、人としての誇り無くして、私は人間とは言えない、そう思うのです。
もちろん、とはいえ人間は不完全な生き物です。危険なものや汚れた世界に足を踏み入れる事への好奇心もあります。
ですから、それを完全否定することは誰にもできないですし、私自身もそのような完璧な人間で当然なく、様々なギリギリな悪さはしてきました。
しかし、例えそうであっても、そこに自覚と誇りがあるのか無いのか、そこには大きな差があると私は思うのです。
話がやや逸れてしまいましたが、結婚というのは、その不完全な人間が、何とか不完全なりに理知性を持ってして、他の動物と一線を画し、誇りを持つためのものであり、その象徴であるということだと思うわけです。
そんな結婚ですが、実際は、先に述べたように、個人の自由や権利などといって拒否、もしくは晩婚化(先送り)が進んでいるのが現状です。
これは個人主義と言う名の利己主義の結果であり、人間が本能的欲望の奴隷になりさがった結果なのではないでしょうか。
自由や権利と言う前に、その彼岸側である、人間本来の不自由を受け止め、また社会生活における義務というものを私たちは理解し、実行しなければならないと思うのです。
現在、私たちにその想像力と義務が働かないことこそ、最大なる危機であると私は感じるのです。