人間だからこその結婚 | ひより

人間だからこその結婚


動物界のつがいを、一夫多妻であるとか、一夫一婦であるとか表現することもありますが、実際に動物界では、一夫多妻も一夫一婦もありません。(言葉遊びですが)


彼らには、そもそも結婚という概念を生むだけの理知性がありませんから、あるのは単なる本能的結果だけあり、この場合は、つがいと考えるのが自然でしょう。


あえてそれを人間界に当てはめるのであれば、恋愛状態にあるカップルが、そのまま子育てまでする、ということではないでしょうか。


逆に、そもそも人間の結婚を動物としてだけに限定すれば、一夫多妻が自然です。(実際に、そのような歴史が長く続いてきました)


しかし人間には他の動物にはない概念(この場合、結婚という制度)を生み出す理知性があります。


それは、自分たちが猿や犬とは一線を画す生き物であるという自負(誇り)の現れではないか、そう思うわけですし、私自身もそうあるべきだと考えています。


そこを前提に話をさせて頂くと、人間にとっての結婚というのは、そういった本能的なものに対峙する制度であり概念であるということが明白であることがわかります。


言い換えれば、結婚を否定や拒否するということは、その他の動物同様であるという側面もあるのです(穿った視点ではありますが)


またそれは、特に男性に顕著に現れているのではないでしょうか?


これは男女どちらの方が結婚という概念に対し、本能の抵抗が強いか、という問題だと私は考えています。


先に述べたように、人間の本能は一夫多妻です。それに対し,現代の結婚制度は一夫一婦制です。このギャップこそ、本来は理知性で埋めなければならないのですが、このような男性の欲望(本能)を考慮すれば、そう簡単な問題でもないと思います。


元々、多くの女性に精子を提供できる男性と、一人の子どもに対し、一人の男性の精子しか受精できない女性との根本的違いがあるからです。



では、なぜ私たち人間はそのような本能に逆らった結婚という制度を認め、それをしようとしているのでしょうか?



その一番の理由は、個人の生活(安全保障など)の基礎になる社会や国家という概念の構造的問題と、理知性を持った人間だからこその、「誇り」であると私は思っています。



そこを踏まえて考えた時、現代はどうでしょうか?



グローバリズムや自由平等や個人主義、権利社会の中で、社会や国家という概念が極めて希薄になりつつあります。


人も物も自由に行き来できる、というのは、確かに一見すると悪いようには思えません。しかしながら、全ての人々がこのような考えのもと生きていったらこの世の中はどうなるでしょうか。


歴史や文化はもちろん、伝統や慣習さえも無くなり、その個人の正統性さえ無くなります。



このような状況になれば、人間は地球上から滅びてしまうか、原始的で野蛮な世界へと変わってしまうことでしょう。


また、人に迷惑さえかけなければ何をしても自由という権利主義を楯にしたような考えもあります。



例えば援助交際などその良い例でしょう。援助交際は確かに人に迷惑を掛けているとは言い切れません。それをその個人の自由と権利と言われてしまえば、確かにそうでしょう。


しかし、そこに人間としての誇りはありますか?と問えば、私には決してそれが誇りある行為であるとは到底思えないのです。


例え人に迷惑が掛からずとも、人としての誇り無くして、私は人間とは言えない、そう思うのです。



もちろん、とはいえ人間は不完全な生き物です。危険なものや汚れた世界に足を踏み入れる事への好奇心もあります。


ですから、それを完全否定することは誰にもできないですし、私自身もそのような完璧な人間で当然なく、様々なギリギリな悪さはしてきました。


しかし、例えそうであっても、そこに自覚と誇りがあるのか無いのか、そこには大きな差があると私は思うのです。


話がやや逸れてしまいましたが、結婚というのは、その不完全な人間が、何とか不完全なりに理知性を持ってして、他の動物と一線を画し、誇りを持つためのものであり、その象徴であるということだと思うわけです。



そんな結婚ですが、実際は、先に述べたように、個人の自由や権利などといって拒否、もしくは晩婚化(先送り)が進んでいるのが現状です。


これは個人主義と言う名の利己主義の結果であり、人間が本能的欲望の奴隷になりさがった結果なのではないでしょうか。



自由や権利と言う前に、その彼岸側である、人間本来の不自由を受け止め、また社会生活における義務というものを私たちは理解し、実行しなければならないと思うのです。



現在、私たちにその想像力と義務が働かないことこそ、最大なる危機であると私は感じるのです。