新自由主義も共産主義も根は一緒 | ひより

新自由主義も共産主義も根は一緒

新自由主義という、強欲資本主義が生んだ怪物イデオロギーが、初めて世の中を席巻したのは、1800年代。


それから死んでは蘇り、また死んでは蘇りを繰り返し、今、再び巨大化して、私たちを飲み込んでいます。


しかし、そんな大変な状況化にあるにも関わらず、残念ながら我が国を含めた民主主義国家の国民は、それが危険な物であるという認識どころか、むしろ正しいものであるとさえ思っているように見えます。



その根幹は民主主義のイデオロギーの歪んだ解釈によるものではないか、そう私は感じてなりません。



本来の民主主義は、国民の幸福を最大限に伸ばすために、それぞれ国民が政治的権利を有し、また努力し、知恵を絞り、それらを代表して実行する者達を選ぶことです。



しかしそれが、「民主主義は、国民全てに平等の権利を与えられる」にすり替えられ、また資本主義という経済の中でさらなる変質を遂げ、「経済も全て平等でなければならない」とする新自由主義へと繋がっていったのです。


もちろん、本来の民主主義における経済活動は、あくまで平等よりも、公平であり、国民の幸福が優先されなければなりません。



それこそ新自由主義のように、全ての経済活動を平等にしてしまえば、当然、能力のあるもの、元々資本力のあるものとそうではないものの間に「勝ち組、負け組」が明確な格差となって生じてしまいます。



また、新自由主義はあくまで経済的平等が根幹のイデオロギーですから、政府(国民の代表者)による、公平かつ、国民の全体的幸福に寄与する規制や、財政出動は、彼ら新自由主義者にとっては不平等を生む既得権益であり悪以外何ものでもないのです。




要するに、計画経済的に平等化させる共産主義に対し、新自由主義は経済競争の土台そのものを平等化させるものであり、究極な所、どちらも「反民主主義」という意味では一致しているのです。



このように一見、我々のイデオロギーとは相見えないようにみえる共産主義と、我々民主国家による新自由主義が「平等」「反民主主義」という根で繋がっているということがお分かりいただけたかと思います。

(戦前、戦後と、あれだけの論争、戦争を繰り返してきた相反するイデオロギーが、実はその根幹はまるで一緒であったという皮肉は正直笑えません)



このように考えた時、私たちが本来の民主主義国家の国民として戦わなければならないのは、既得権益でも、官僚でもなく、もちろん国家でもなく、新自由主義そのものであり、この反民主主義を如何に打破するか、ということが民主主義を取り戻すための最大な課題なのです。



しかし先に記した通り、私たち国民にそれが最大な敵であるという認識、意識が極めて希薄であり、そのような観点をもって政治家を選ぶことをしないのです。



その結果、政治家達もまた、新自由主義という名のドグマに犯され、それがあたかも民主主義における正義のごとく振る舞い、そのような政策を声高々に訴えるのです(恥ずかしくないのですか?と言いたい)



まさにこれは橋本行政改革に始まり、小泉竹中構造改革、そして変質アベノミクスへと受け継がれているのが日本の実情です。



そして、その度に格差(ジニ係数を見れば一目瞭然)が広がり、国民の幸福から遠ざかってしまっているのです。



ちなみに、哲学者のハンナ・アーレントは、「格差は全体主義の温床」のようなことを言っていますし、同じく社会哲学者のオルテガも「格差が生じた社会は、安易な思想を振りかざすリーダーを賛美するようになる」といった事も言っています。



いい加減、国民も、本当の敵に気がつかなければ、気づいたときには取り返しのつかない事態になっているかもしれませんよ。