脊振は久士布流多気。
櫛布留岳であり、山頂の弁財天とタニシ仏(毘沙門天)は、神功皇后と高良神に繋がる。
彼らが脊振に降った「二龍(天照)」になる。
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★目次
☆1 クシフル岳に降った二柱の神
☆2 神功皇后と卑弥呼
☆3 西暦200年
クシフル岳に降った二柱の神
(「儺の國の星」36、聖母星(しょうものほし)より引用
筑前国続風土記 巻二十一早良郡背振山の条に
山上の御社は、神功皇后三韓を攻玉ひし時、祈願のために是を立て祭り給ひしと云。神功皇后此国に七社を創立し玉ふ。背振の社も、其随一也。
脊振は神話のクシフル岳である。
それは、櫛布留岳を意味していた。
(詳細、以下の記事)
☆二龍が振った(降った)という伝承あり。
☆脊振の修学院の伝承
☆これが山頂に祀られる弁財天とタニシ仏(毘沙門天)。
=市杵島姫命と高良神。
☆脊振に「降った」のは二柱の天照
市杵島姫命は御炊屋姫=天照
高良神=饒速日命=天照
脊振山頂*脊振神社上宮
☆二柱は龍神
八大龍王は志賀海神社の綿津見神であり、高良神と神功皇后の伝承がある。
社家の安曇氏は「新撰姓氏録」では、「海神綿積豊玉彦神子」とある。
志賀神=安曇氏の祖神=綿津見神=豊玉彦=山幸彦
志賀神は高良神なので、山幸彦、浦島太郎に酷似の伝承は彼らの話ということになる。
*脊振の乙護法善神から、彼女は乙姫。
明日香の亀石の伝承からも、天照=三輪神=豊玉彦(山幸彦)に繋がっている。
伝承では、神功皇后が脊振の神を祀っていた。
しかし、祀られていたのは彼女自身なのである。
神功皇后と卑弥呼
「儺の國の星」の著者、真鍋氏は神功皇后の摂政年を201年~269年とされている。
一方、卑弥呼の死は、魏志倭人伝によると246年。
彼の書き方では、神功皇后と卑弥呼の時代が重なっている。
これは福岡の大方の神社でも同じであり、推し並べて200年とある。
*神功皇后
神功皇后は、一般的には実在していたら4世紀後半とされる。
その理由の一つとして、実在がほぼ確定している応神天皇が4世紀半~5世紀初頭とされるからだ。
(他に七支刀や三国史記など)
彼が初代天皇とみている。
しかし、「応神天皇」は二人いると推測される。
(詳細、以下の記事)
彼女は高良神の后であった。
彼は住吉神であり、物部の神の饒速日命。
よって、神功皇后は、饒速日命の后の御炊屋姫となる。
二柱の天照だ。
ゆえに、その御子としたと推測している。
西暦200年
彼らが実際したのは、およそ2世紀半ば~3世紀半ば頃とみている。
(西暦200年を挟む)
高良大社の麓にある祇園山古墳の造営年が3世紀半ば頃になるからだ。
高良神は祇園神であり、祇園山古墳は大社から聖地とされ代々、大切にされていたからだ。
そのような古墳は他にない。
彼女が大社の本殿合祀の豊姫。
高良神の后の神功皇后となる。
尚、彼らは3世紀の最大勢力であり、今の世に至るまで神話の最高神。
その舞台が、那珂川、儺国であり、魏志倭人伝の奴国。
おそらく「邪馬台国」はここであったと思われる。
魏志倭人伝にある行程は、奴国からはでたらめかと。
いつ敵国になるか分からない、外の国に主要国をそのまま教えるとは普通考えられない。
(つづく )
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