脱皮の時 ~スタートラインに祝福を!~ -16ページ目

No.3-11 直感的に感じた、私の働くべき場所

相変わらずの状態で、親との口論が激化し始めたころ。探し続けた僅かな光が見え始めました。


バイト帰りの本屋で見た求人雑誌に、大阪のとある編集プロダクションの求人を発見!


当時の私は、焦りさえ感じないほど開き直っている状態だったので、見つけたときも、そんなに気分的な高揚はありませんでした。ただ、直感的に、私ここに行くんだろうな、ってひどく冷静に感じたのは覚えています。


すぐに連絡し、履歴書を持って面接へ行き、帰宅後、親に言いました。


「大丈夫。採用の連絡くるはずやから」と。


もちろん、根拠なんてないですが。
……“それが、何か?”ってぐらいに、確信していました。


そして、私の直感通り、採用。


何の経験もない私を、その会社は雇ってくれました。

なかなかのチャレンジャー、です。


卒業して1年が経とうとしていたころのことでした。


ちなみに、この求人を発見する数時間前に、私は大好きだった人が結婚するという、衝撃ニュースを聞きました。


あまりのショックに真っ黒いオーラを纏ったまま、本屋で呆然と求人誌を開いたところ…希望の光に射抜かれたのです。


そのとき、痛感しました。人生いいことと悪いことは交互にやってくるって、本当なんだな~と。あまりに短いスパンでしたが(笑)。

No.3-10 諦められない=諦める必要のないこと

卒業後も、定期的に大学から求人案内の連絡をもらっていました。ただ、何件紹介されてもまったくもって感覚に触れず…。


あまりに申し訳ないので、「もう大丈夫ですから」と今後の連絡を断り、個人での就職活動に専念。求人を探し、履歴書を送ると……書類で落とされる(笑)。この連続。母体がない分、学生時代より困難を極めていました。


そんななか、大阪のとある小さな編集プロダクションの求人を発見!


連絡をしたところ、面接にくるよう言われ、小躍りしながら向かったところ…実際に仕事をしてもらうにしても書く経験を積まなきゃ難しいから、その勉強をうちでやらないか、と。


いくらか拍子抜けはしたものの、当時の私は、なんでもいいから、この業界に入るきっかけがほしかったので、何も考えず即決。同じように応募してきていたのであろう数人と月に数回、色んなところへ行って紀行文的なものを書いたり、出されたテーマに沿った原稿を書いたり、そんなことをしていました。


でもあるとき、ふと、思ったのです。


「なんのためにこれをやってるんだろう?」
「これをやり続けて、その先に何があるんだろう?」


自分自身にとっての意味を、直接的にも、間接的にも、感じることができず。そこで色んなことをやればやるほど、自分の「やりたいこと」から遠ざかっているような気がして。わずか2ヶ月ほどで脱会(?)。


この事実に、親からは呆れ声。約束の半年を迎え、かかる親からの再びの圧力。


それを、素知らぬ顔でやり過ごしながらも、心のなかに芽生え始めた「無理なのかな…」という気持ち。少しずつ焦りが出始め、じわじわと“諦め”という言葉が、頭をちらつくようになっていきました。


それでも、哀しいかな、諦められない。どうやっても、どんなに「無理だ」と言い聞かせようとしたとしても。


そして、出た結論。


『諦められないことは、諦める必要がないこと』。しいては、諦めてはならぬこと。

No.3-9 選ばれし者だけが“好きな仕事”に就けるなら、それになる!

「好きな仕事に就けるのは、ほんの一握りの人間だけ」。


親からはそう言われ、諦めて就職しなさい、と連日のお説教が続きました。就職活動をしたのは、たった数ヶ月。そこでうまくいかなかったからといって、好きなことを諦めなきゃいけない理由が、わからなかった。


だって、人生はその何十倍もあるのに。


長い人生のなかの、爪の先ほどの僅かな時間で見た現実は、確かに厳しかった。だけど、それによって妥協してしまえるほど、私の「好き」は軽くもなかった。もう、私の人生にしっかり根を張りつつあったから。


親が言うように、好きな仕事に就けるのが「ほんの一握りの人間」なのだとしたら……私はそれになる、そう思った。私はそこに入れる、そう疑いもしなかった。


昔から、根拠のない自信のある人、でした。無駄に自信満々で、自分は人とは違ったことができる、って漠然と、でも確信的に、思ってた。


でも、私にとっては、根拠のない自信ほど、確か。


このときも、それがあったので、親に熱弁を振るったのですが…。失笑にも似た笑いのあと、私の熱いトークも空しく、あっさり流されました(笑)。


それでも、私にとって、どうしても編集の仕事じゃなきゃダメだった。それ以外の仕事なんて、する意味がない、と思ってました。


理由なんてないし、そんなのどうだっていい。好きなものは好き、嫌なものは嫌、ただそれだけ。


その意志は、巨岩のごとく、頑としてそこに居座り、微動だにしなかった。


そして、話し合いの結果、親から“ある条件”が提示されたのです。


「半年以内に、希望の仕事が見つからなかったら、どこでもいいから就職しなさい」。


継続していた学生時代からのアルバイトと並行して、大学にいたときにはなかったガツガツさで就職活動を開始しました。


No.3-8 妥協と諦め、20歳には早すぎる

短大入学後は、新聞・雑誌・広告・放送4メディアの基本を1回生のときに、2回生からは各々自分の進みたいメディアのゼミを選択し、より専門的な勉強を座学と実技で学びました。


現場で働いてきた先生方の話しはリアルだったし、もうすぐ自分もそこへ足を踏み入れるんだなって思ったら、それだけでお腹いっぱい、って感じだった。


無知、とは、ある種幸せなものです。


この業界の就職事情も、世間一般の就職事情すら知らず…。当時の私は、専門的なことを学んだら普通にその業界に就職できるって、能天気なまでに信じていたのです。


ところが、学生課の求人コーナーに提示されるのは、一般の中小企業の求人票ばかり。マスコミ業界からの求人なんて、数えるほどしかありませんでした。


そのとき初めて、経験もスキルもない新卒を雇ってくれる会社が少ない業界だということを、知ったのです。


さらに追い打ちをかけるように、時代は就職難真っ盛り。何百人という生徒数からすれば、ほぼ1/3が他業種へはじき出されるような現状でした。


どの求人票を見てもピンとこず、時間だけが過ぎていく。


妥協はやむを得ん、と就職を決めていく周りの友人たちのなかにあっても、私は一人だけ就職先が決まらないまま卒業の日を迎えることになったのです。


妥協も諦めも、わたしは嫌だった。妥協して就職することの意味も見いだせなかったし。


何より、20歳の小娘には、妥協も諦めも、まだまだ早い、って思ってた。

No.3-7 限界ぎりぎりのラインを超える快楽

受験において、私は、教師からの信頼度のなさがピカイチ、でした。自分の学力に適した学校を選ぶ、という感覚のない生徒だったので。


レベルとか、自分の学力とのバランスとか、そういうのは関係なく、感覚的に「行きたい!」と思ったところが受験校。


そして、決めたら絶対行く。周りがなんと言っても。頑固一徹、譲りません。


先生たちからすると、不安だらけの無鉄砲な生徒。


だから、合格の報告に行くと、驚きを隠そうともせず、口々に「あかんと思ってた!」と。かなり失礼な話しですけど。


でも、あのころから、そうやって自分を追い込むのが好きだった。


安全圏ではなく、限界ぎりぎりのラインを超えていくことに、楽しさを見いだしていました。


祖父譲りの負けず嫌いと頑固一徹な性格も重なり、自分に手の届かないと言われるところへ挑戦し、それを達成していくことに、快感すら覚えていたような気がします。


高みに挑んで、超えて、手に入れる。


それを好物とする当時からの心持ちが、今の起業に至る原点、だったのかもしれません。もしかしたら、ですが。



周囲の大人たちを小躍りさせた、薄っぺらい封筒に入った、ぴらん、とした過不足のない合格通知書。一発的中で大学を決めた私は、夢が一歩近づいたことを感じ、大踊りしました。