ゲンロン10 悪の愚かさについて | れぽれろのブログ

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毎号楽しみにしている批評誌「ゲンロン」の10号が発売されました。
この10号からゲンロンは第2期に入るとのこと、前号で予告された通り、特集主義は廃止され、東浩紀さんによる巻頭言(≒愛の言葉)もなくなりました。
様々な論考が並ぶ中、巻頭の東浩紀さんによる約5万字の論文「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」が非常に面白く、様々なことを考えさせられる論考でしたので、この覚書と考えたことなどをまとめておこうと思います。


「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」は、そのタイトルの通り、人間の成す愚かな悪について考える論考。
「ひとはなぜ、かくも高い知性をもち、かくも豊かな感情を備えながら、かくも残酷で愚かな悪をなしてしまうのか。」(本文の冒頭より抜粋)
本論考は、中国のハルビン、ポーランドのクラクフ、ウクライナのバビ・ヤールを著者が訪れた感想から始まります。いずれも第2次大戦下で虐殺が行われた場所で、ハルビンは旧日本軍の731部隊の拠点、クラクフとバビ・ヤールはナチスによるユダヤ人虐殺が大規模に行われた場所です。

ハルビンには中国による731部隊の博物館があり、ここでは731部隊による数多くの残虐行為が展示され、日本軍の組織的・計画的な暴力装置として731部隊が実態よりも過剰に意味づけられています。
731部隊の残虐性は目を覆わしめるものがありますが、部隊は組織としての体を成しておらず、末端が勝手に無意味な残虐行為を繰り返していたというのが実際のところです。しかしそれでは被害者たる中国人は浮かばれない。
故に、中国では(慰霊のために)死の意味化が実態より過剰に行われる。この博物館は、殺された人たちは日本軍という巨悪の組織的暴力の犠牲者であるという物語化のための場所でもあります。

クラクフはスピルバーグの映画「シンドラーのリスト」の舞台にもなった場所で、実際にユダヤ人虐殺に使用された建物と、映画の撮影のために後日建てられた建物とが混然一体となって観光地化しているという興味深い場所です。

バビ・ヤール(ショスタコーヴィチの交響曲13番で有名な場所ですが本稿では触れられず)もユダヤ人の大量虐殺が行われた場所で、ヤールは谷を意味しますが、谷が死体で埋もれて平らになるくらい壮絶な殺戮が行われた場所です。

この地では戦後に水害が発生し、その際にも多くの人が死に、殺戮の記憶と水害の記憶が複合している場所でもあります。

本稿ではハルビンの例(加害の意味化による被害者慰霊の試み)を一定程度評価しながら、しかしこのやり方では実際の日本軍の愚かな悪(何の意味もなくそこには単に残虐な加害の事実だけがある)の実態が記憶されないことが問題であるとされています。
単に被害者数を統計的に記述する「数値化の暴力」に対し、被害者の慰霊のための「固有名の回復」が重要であることは理解できる。(この点、虐殺の被害者の固有名を抹消するようなクリスチャン・ボルタンスキーの作品について、脚注で批判的に取り上げられているのが興味深いです。自分もボルタンスキーの作品展示についてやや批判的な文章を書いたことがあります。)
しかしこれだけでは悪の愚かさが見えてこない。愚かな加害と向き合うことの困難性。
この難問に挑んだのが村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」であり、加害と被害との間で、無意味な暴力行為、愚かな悪を記憶し考え続けることの重要性が指摘されています。(「ねじまき鳥クロニクル」を読まれた方ならお分かりかと思いますが、この作品の暴力描写は強烈に記憶に残るもので、嫌でも加害と暴力について考えざるを得なくなります。)

また、ハルビン、クラクフ、バビ・ヤールのいずれも、戦後に記念碑や博物館が建てられ観光地化すると同時に、周囲に多くの団地が建てられ、たくさんの人が住んでいる場所でもあります。大量に殺戮が行われた場所で、大量の人間が生を営んでいる。大量死のあとの大量生。
20世紀の文明は本質的に大量死と大量生をもたらすもので、本稿ではアウシュビッツとフォーディズムの類似性について指摘されています。
アウシュビッツやクラクフやバビ・ヤールの虐殺は人間を機械的・効率的に殺害していくもの、フォーディズムに代表される工業品の大量生産(団地などの集合住宅の建築やその中に設置される什器なども含まれる)も同じく機械的・効率的に商品を生産するもので、両者は近似的。
本稿ではフォーディズム的なもの・団地的なものを大量死との近似性で否定するのではなく、同じ土地で営まれる大量死と大量生の関わりの中から、愚かな悪の記憶への回路を見出そうそしているように読めます。


考えたことなど。

本稿を読んで真っ先に思い出したのが、旧約聖書の「ヨブ記」です。加害の無意味性と被害の固有性という点で、「ヨブ記」は本稿の問題意識と同じ構造を持っています。
「ヨブ記」は全く無意味な加害の結果、被害者であるヨブが苦しむ物語です。
家族と家畜に恵まれ幸福なヨブが、ある日突然、神の気まぐれにより家族と全財産を失い、病気に侵され、荒野に放擲される。
被害者であるヨブは神に立ち向かいます。なぜ私なのか。神よ、加害の理由を説明せよ。ヨブに対し神はブチ切れます。お前ごときに神の心が分かるものか。思い上がりも甚だしい。ただひたすら神を畏れ、神に従え。
その後ヨブは唐突に病気から回復し、再び家族と家畜に恵まれ、幸福な生活を営むようになります。全く意味のない幸福と不幸の往還。
「ヨブ記」はディアスポラとジェノサイドの苦しみの中から生まれたユダヤ民族の知恵文学です。世界は本質的に偶然性に満ちており、不条理なものである。放っておくと悪が栄え、正直者が馬鹿をみる。
「ヨブ記」は世界の非合理性を深く納得した上で、それでも前に進むための物語、加害を告発し被害を意味化するのとは全く違う形で、非合理を受け入れ、それでも生きるための物語です。

現実のユダヤ民族の被害は(クラクフやバビ・ヤールも含め)、神の成す加害ではなく、人の成す加害によります。「ヨブ記」は世界の根源的な非合理性を描きますが、世界は非合理である→だから人倫の構築が必要なのだ、というところまではいきません。現実の不幸は人倫の構築不足や揺らぎにより起こるものですが、人間は愚かなのでそうはなかなか人倫の構築はうまくいきません。
人間の愚かさ、加害の愚かさをどう記憶し、乗り越えるのか。自分は仏教がヒントになるのではないかと思います。
仏教では、この世界は単に構造が存在する(縁起)だけでありもの固有の本質はない(空)、生の本質は苦であり(一切皆苦)、苦から解放されるには世界の構造(縁起-空の構造)を知ること(悟り)、そして苦は煩悩より起こるので欲望を捨て正しく生きる(八正道)ことが説かれます。
ポイントは一切皆苦と八正道です。世界は苦であり、苦から逃れるには正しく生きるしかないのだ(→人倫の構築へ)。
自分は、加害は本来それ自体苦しみを伴うもの(苦しみを伴うべきもの)であると考えます。20世紀フォーディズム的な機械化・効率化の世界で愚かな悪が量産されるのは本稿で示された通り。20世紀フォーディズム的な悪はそのオートメーション的性格故に、加害の苦しみが消去されがちです。
加害(愚かな悪)を乗り越えるには、加害から如何にして苦しみを取り戻すかが重要。被害者の救済には感情的回復が必須、被害者の感情的回復には加害者に対し加害の苦しみを召喚させることが肝要。被害者と加害者の対話を促進し、生の苦しみの共有から、よりマイルドな物語化による回復が促進できないか、そのために「ヨブ記」や初期仏教は何らかのヒントになるのではないか。本稿を読みながらそんなことを考えました。


その他。

大量生については、亀山郁夫さんによるゲンロンカフェのイベントでの発言を思い出させます。
西欧(カトリック・プロテスタント)が個人主義的であるのに対し、ロシア(正教)では集団の中に人間が溶け合っているときに初めて人間が立ち現れるという考え方があるとのこと。
ショスタコーヴィチ(交響曲「バビ・ヤール」を作曲しています)の音楽の一部にみられる、圧倒的な力でのしかかってくるような音楽の在り様は、ロシア的な集団性(大量生・大量死)と、どこかでリンクしているように感じます。

歴史の重要性。
都市近郊のショッピングモールの多くは、かつて巨大工場・野球場・遊園地であった跡地を利用しており、かつての20世紀的フォーディズムとその勤労者の生活を偲ばせる場所でもあります。
自分は大阪府の南河内で生まれ育ち、かつて古墳があったとされる土地の上に開発された集合住宅地に住んでいました。墳墓(死)の上の集合住宅(大量生)。
日本の多くの都市は空襲の記憶を持っており、大量死の上に大量生が築かれていることを思い起こさせるのに十分、日本各地に観光に出かけ街を歩くと、空襲の碑に出会うこともい多いです。
愚行の記憶はまずは歴史を思うところから始まります。そのためのリソースとして、土地の記憶と観光は重要です。

観光地の変遷について。
クラクフの例(映画のセットが史跡化する)は、畿内の社寺の変遷を思い出しました。
古代より長く続いている畿内のお寺には、古代・中世・近世・近代と様々な年代の物が複合して残存しています。
大阪の露天神社は近世に「曽根崎心中」の舞台になり、そのことが観光資源になるというコンテンツツーリズムの古い例で、現在はそのコンテンツ自体が神社のアイデンティティになっています。
奈良盆地南部の壷阪寺は「壺坂霊験記」の舞台になり、近代に至り敷地内に本当に盲人福祉施設が作られ、インドへの慈善事業が転じて敷地内に南アジア風の巨像が乱立しお寺の景観を変えるなど、郵便的誤配が連鎖するような面白いお寺・観光地です。
偶然・誤配・観光は密接にリンクしています。


ということで、あれこれといろんなことを考えさせられる論考で、非常に面白かったです。論考は次号に続くとのことで、アーレントを通した議論が予告されており、楽しみです。

「ゲンロン10」では東浩紀さんの論考以外にも面白い記事がたくさん。
とくにお勧めなのが原武史さんと東浩紀さんの対談で、天皇制を考えるためには必読。
AIの記事はシンギュラリティ的な考えを相対化するのに有用。
黒瀬陽平さんの連載は70年代「もの派」の相対化がテーマで、現代美術ファンはきっと面白い。
辻田真佐憲さんによる近年の国威発揚年表も必見です。
あと、本号から脚注の付け方が非常に見やすくなっています。脚注を本論の最後にまとめて記述するのではなく、本論の下に小さく記述するのでもなく、各見開きページの左側に脚注を記述するのは、個人的には理想的な脚注のあり方だと思います。