クリスチャン・ボルタンスキー  Lifetime | れぽれろのブログ

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3月9日の土曜日、クリスチャン・ボルタンスキーの特集展示を鑑賞しに、中之島の国立国際美術館に行ってきましたので、覚書と感想などを残しておきます。


クリスチャン・ボルタンスキーはフランスの現代美術作家で、主として写真を使用したインスタレーションで有名な方のようです。
自分は知らない作家さんで、今回初めて鑑賞しました。
今回の展示は、展示会場全体が1つの作品といえるような構造で、非常にスペクタクル性が高く、かなり荘厳な雰囲気で、ある種の宗教性すら感じられるような、興味深い展示になっていました。

会場は暗く、展示を仕切るブースも真っ黒な壁、作品に使用される灯りや映像作品の光が会場を照らし、それ以外の照明は最小限。
その中で、遺影のような肖像写真が様々な形式で並べられるような作品が多数展示されています。
これらの肖像写真は、ナチスが台頭してきた時代のヨーロッパのユダヤ系の人々の写真なのだとか。(ボルタンスキーはユダヤ系フランス人のようです。)
様々な形式で墓標のように並べられたユダヤ人の写真は、否応なくホロコーストを連想させると同時に、会場の照明や展示空間の雰囲気と相まって、非常に荘厳に感じられ、宗教的な感覚をも呼び起こされるような感じがします。
写真はフォーカスが甘いものが多く、被写体個人の個性よりも集団としての死(虐殺)を思い起こさせる構造になっている。
この他にも、肖像がプリントされた巨大な白い布が多数吊るされているスペースや、肖像に穴があけられている作品など、肖像写真の展示方法も様々です。

会場全体はある種のアトラクションのよう。
暗い会場を順路に沿って進むと、そこに様々な作品が立ち現れてくる。
「心臓音」という作品で使用される心臓の鼓動の音と、「ミステリオス」という映像作品から発せられるクジラの咆哮(?)の大音響が会場のあちこちで聞こえてくる。
暗い会場、周期的な音響、眼の前に現れる遺影のような写真が続く様子は、どことなくお化け屋敷などのアトラクションに近いですが、お化け屋敷の不気味さよりは荘厳さが勝ります。
個々の作品を立ち止まって鑑賞するというよりは、展示会場全体の強度を体感させると言った感じの展示で、個々の作品をただ1つ鑑賞する場合とは全く違う鑑賞体験を与えるような、非常にスペクタクル性の高い展示であったように思います。
スペクタクル性の高い作品は過去にも鑑賞したことがありますが、展示会場全体に圧倒されるような、ここまでの強度を持った特集展示は、自分が鑑賞する限り公立美術館では過去に例がないように思います。

昨年、国際美術館で開催された「トラベラー まだ見ぬ地を踏むために」を鑑賞した際に、美術館の役割の変化について考え、美術館の役割が作品の収集・研究・展示から体験を与える場に変わってきているのではないか、というようなことを考えました。
このボルタンスキー展は、単に作家の過去の作品を並列的に展示するのではなく、まさに体験を与える場として機能していたようたように思います。
スペクタクル性の高さと合わせて、体験としての強度は非常に高い展示です。
考えてみると、アートとスペクタクル性はそもそも親和性が高い、中世の教会に飾られるイコンや、ミケランジェロやダ・ヴィンチの壁画作品、ルネサンス期以降の建築物とセットで制作される絵画や彫刻作品など、宗教性とスペクタクル性は、アートの1つの重要な要素でした。
20世紀の抽象表現主義、マーク・ロスコやバーネット・ニューマンらの巨大な作品も
スペクタクル性とは無縁ではないように思います。

現代美術が絵画から映像・インスタレーションへと移るにつれ、スペクタクル性は増していく。
国際美術館でも、思い出してみると、塩田千春(2008)、杉本博司(2009)、やなぎみわ(2009)、フィオナ・タン(2014)、ライアン・ガンダー(2017)などの特集展示は、
ある種のスペクタクル性と共にあったのではないかと振り返って思います。
「世界制作の方法」(2011)の各作家さんのブースも、アトラクション的イメージに近かったかもしれません。
しかし、単一作家による展示でここまでアトラクション的なスペクタクル性&宗教性を感じさせる例は、今回のボルタンスキー展以前には過去に例がなかったのではないかと思います。
体験的強度の高い展示はそもそもアートの原点かもしれず、本展は革新的というよりはむしろ伝統的、近代以前の祭典に遡るような、意義のある展示であるのかもしれません。
いずれにせよ、今後の美術館の在り様を考える上で、本展は重要な展示であるように思います。


考えたこと。
本展は非常に興味深い展示で面白かったですが、テクノロジーの発達とインスタレーションの洗練に伴い、体験的強度が増してくる展示の傾向に対し、自分は4点ほど懸念を感じます。

まず、スペクタクル性が過度になると、美術館が遊園地に限りなく近づいてしまうということ。
そもそも自分が遊園地より美術館に行くことが好きなのは、遊園地などのアトラクションは強度が強すぎるからです。
静かな美術館の中で、落ち着いて作品と向き合い、あれこれ考えるのが楽しいので美術館にくる、一定の現代美術ファンはこのような傾向があるのではないかと思います。
音楽においても、自分はポップスもクラシックも好きですが、クラシック音楽の演奏会ばかりにでかけるのはポップスのアンプで増幅された音響がしんどいからです。
そういう意味で、ボルタンスキー展はしんどい。
体験的強度の高い展示は新しい美術ファンを呼び、美術館の活性化につながるかもしれませんが、自分などはボルタンスキー展のあとで地下2Fのコレクション展でオーソドックスな展示を鑑賞した際に、「やっぱこっちの方がええわ」と感じました。
こういう美術ファンも意外と多いのではないかと思います。

2点目は、個々の作品の印象が薄くなる点。
展示会場全体のインパクトを前にすると、個別の作品の印象はかすみます。
美術鑑賞の在り様は様々ですが、1つ1つの作品に向き合い、その作品を味わい意味を考えるというのが、近代以降の美術館での一般的な鑑賞方法なのではいかと思います。
今回の展示でも個別の作品名や概要もパンフレットに記載されており、個々の作品と向き合うことも不可能ではないですが、展示会場全体のアトラクション的構造を前にすると、個々の作品それぞれがいつ制作され、どういう時代背景により、作家が当時どのような問題意識で個々の作品を制作していたのかが、何だかよく分からなくなります。(何より今回の展示では、そもそも会場が暗すぎてパンフレットが読めないという問題もあります。)
これは過去にも書いたことがありますが、キュレーションの強すぎる展示より、個々の作品にフォーカスする展示の方が、個人的な好みに合います。

3点目は受動性が強すぎる点。
現代美術ははた目にはわけのわからんような作品が多く、能動的に作品に向き合い、意味を考えさせることを強いるような作品が多い傾向があります。
本展はどちらかといえば、展示が圧倒的な力でのしかかってくる、能動的に作品を考える間もなく作品が迫ってくるので、鑑賞者が主体的に作品の多様な意味合い(鑑賞者の誤読を含む)を捉えるという傾向が薄まります。
過去にチームラボの作品を鑑賞した際にも書いた記憶がありますが、体験としての強度が強すぎるので、受動的に作品に接しているうちに鑑賞が終わる、このような作品は「なんやわからんけどすごかったな」で終わりがちです。
じっくりと作品を鑑賞し、能動的に意味を考える隙を与えるような展示が、個人的には好みです。

4点目は考えすぎかもしれませんが、プロパガンダとの相性の良さが気になります。
今回の展示はホロコーストの否定、人の命の重さや虐殺の無残さを感じさせる展示で、展示から感じさせられるこのようなテーマには同意します。
しかし、今回の展示が着目され、もし仮に広島の原爆資料館や、ピースおおさか国際平和センターの大空襲の展示や、舞鶴引揚記念館のソ連による強制収容の展示が、ホルタンスキー展のように展示されたらと考えると、何やら恐ろしいものを感じます。
テーマが命の尊さなら無害ですが、本展のノウハウが国粋プロパガンダ的なものに応用されないとも限りません。(個人的には大阪万博が心配です。)
兵庫県立美術館で開催されているヒーロー&ピーポー展の感想を書いた際に、この展示の面白さはプロパガンダを客観的に捉えなおしている点、及び、現代日本の多くの作家さんの作品の面白さが直接的な政治的メッセージから距離を置いた多義性にある点について書きました。
アートはプロパガンダ的でないものの方が面白い。
その意味でも、ボルタンスキー展の展示手法は、自分が考える展示の面白さとは少しずれがあります。


会場では国際美術館のコレクション展も合わせて開催されており、こちらも死をテーマにした作品が並べられていました。
個人的にとくに印象に残ったのは、米田知子の6枚の神戸の写真です。
阪神大震災の9年後の神戸を写したたった6枚の写真ですが、背後に様々なことを感じさせます。
震災時に被害が大きかった住宅地や、震災後に復興住宅のあった場所、それぞれの場所の9年後の姿。
高層マンション、新しい一戸建て、公園、川、高速道路、作品タイトルがなければ災害や死とは無縁な作品ですが、タイトルを見ると、写真の中の空間、住宅地の中の空き地や仮設住宅の跡地のぽっかりとした感じから、かつてこの場所に多くの死と苦しみがあったことを思い起こさせます。
6枚の平面的な写真から感じられるメッセージ性は極めて希薄ですが、写真から捉えられる情報量は多く、じっくりと写真を眺めると自らの思い出も含め様々なことを思い出させる、そしてその思いはおそらく鑑賞者により多様です。
単に写真を6枚並べただけですが、自分はこのような作品・展示手法を好む傾向にあることを改めて感じました。
ボルタンスキーの作品も、単にホワイトキューブに淡々と作品を並べただけであれば、ひょっとしたらまた違った印象が感じられたのかもしれません。


ということで、ボルタンスキー展は非常に興味深く面白い展示、今後の美術館の在り様を考える上でも重要な展示でしたが、もし仮に今回の展示が盛況で、10年後の美術館の展示が一様にこのような展示手法に変化するなら、自分はたぶん美術館に行かなくなるな、という感触をも受ける展示でした。
自分はやはり、近代以降の美術館成立以来の旧来的な展示を好みます。
自分も40歳を超え、15年以上様々な美術館に通い続けているので、保守的になってしまっているのかもしれません。
本記事を読んで頂いてご興味を持たれた方は、自分の感じる懸念が的を得ているのかそれとも単なる戯言なのかを確かめる意味でも(?)、本展を鑑賞してみても面白いかもしれません。