れぽれろのブログ

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美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

ここ3ヶ月の生活の記録などです。コロナ、日本近現代史学史、演劇と野球などがテーマです。ご関心のある方はお読みください。


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今年の年明け早々、コロナに感染しました。1月の初旬、国内の感染者がピークのときに発熱し、発熱外来に行くと案の定コロナ陽性との判定。この陽性が発覚した日は奇しくも自分の誕生日、このため今年の誕生日は人生最悪の誕生日となりました 笑。

コロナに感染して気づいた点は大きく2点。
1点は個人差によりずいぶん症状が異なるということです。自分と同居者とはほぼ同時に体調に異常を覚え、2人して感染が発覚したのでおそらく同じ株だと思われますが、その症状はずいぶん違いました。自分はいきなり40度の発熱が3日間ほど続きましたが、その後は37度台が数日続いただけで、1週間経たないうちに回復、喉の痛みや咳などの症状もそんなに大きく気になるほどではありませんでした。一方同居者の方は初期症状は軽く高熱は出ませんでしたが、その代わり37度~38度台がダラダラと続き、2,3日後から喉の痛み、不快感、痰などの症状が重くなり、苦しい諸症状が1週間以上続いていました。

また自分はその後の後遺症らしい症状もほぼありませんでしたが、同居者は比較的長く不調が続いていました。一般にコロナは急性期の重症化率・死亡率は男性の方が高く、後遺症で悩まされるのは女性が多いなどといわれますが、このような性差が弱体化した現在のオミクロン株においても見られるのかもしれません。

もう1点の気づきは、行政や医療機関の対応が、予想していたより手厚くしっかりしていた点です。
発熱外来の対応はシステム化されていてスムーズ、症状を訴えるとそれに応じた薬がすぐに処方され、手続きや生活上の注意点などの説明も簡潔でわかりやすい。ダンボール1ケース分の食料とパルスオキシメーターも申請すると翌日には自宅に届き、希望すればその後のオンライン診療もスピーディーに利用できます。オンライン診療で処方された薬も翌日には届くという対応の速さ。ホテル療養も部屋に空きがあれば申請可能で、ホテルまでは自治体から派遣される車で送ってくれるという手厚さ。職場の休みも特別休暇扱いで、満額賃金が支給されます。
自分はそもそも行政や医療に対する期待値が低いのでそう感じるだけかもしれませんが、総じてかなり対応は手厚いと感じました。現在のこの対応だと国や自治体の費用がかかりすぎるので、感染症5類への移行は予算の都合上仕方のないことなのかもしれません。

問題点を強いてあげるなら、発熱外来がフリーアクセスで早いもの勝ちのため、発症当日の受診ができない可能性があり、そのため薬の処方が遅れるおそれがあることくらいでしょうか。発熱してしんどいのに、朝一からあちこちの病院に電話をかけまくり、空きがある発熱外来の予約を取るのはなかなかたいへんな作業でした。結局発症初日は1人分しか外来の空きが見つからず、まず症状の重い自分が先に受診し、同居人は翌日の受診という結果に。
自分は別件で過去に処方されたロキソニンをたまたま備蓄していたため初期の発熱を乗り切りましたが、喉の痛みや痰切りの薬などなかなか備蓄している人はいないと思われるので、診察が遅れると薬の処方が遅れ、苦しい時間を長く過ごすことになります。コロナにかかわらず、感染症の流行が予想される際の急性期の対応については、オンライン診療の拡充、かかりつけ医の普及、薬の事前処方や備蓄の緩和など、検討するべきことはいろいろありそうです。


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そんな中、この1月から2月にかけては、歴史学者の成田龍一さんの著作を集中的に読んでいました。
成田龍一さんは日本近現代史がご専門の学者さんですが、史学史、いわゆる歴史学の歴史についての文章も多数書かれている方。この度、岩波現代文庫から出版されているこの著者の歴史論集シリーズ全3巻、「方法としての史学史」「戦後知を歴史化する」「危機の時代の歴史学のために」、及び集英社新書の「近現代日本史との対話」上下巻を読みましたが、これがたいへん面白く、いずれの本も自分にとって今後の近現代史の書籍に触れる際ひとつの指標になるような本でした。

史学史とは、時代ごとの歴史学の有り様の変遷を追う学問。著者の岩波現代文庫の全3巻を読むと、時代によって歴史の描かれ方がずいぶん変わってきていることがわかります。
日本近現代における歴史学の変遷を自分なりにまとめると、まず戦前は主流の実証主義に加えて、マルクス主義的歴史学、及び皇国史観の3つの歴史観が鼎立していましたが、とくに30年代以降、時局の切迫に伴いマルクス主義的歴史学が排撃され、実証主義が皇国史観に歩み寄っていく状況が生じます。戦後は逆に皇国史観が淘汰され、マルクス主義の影響下にある、いわゆる戦後歴史学が登場。戦後歴史学は主として西欧の歴史を対象にして、日本の歴史をそれとの比較で考察し、西欧に対する日本の差異(遅れ)を指摘する方法論であり、一定の成果を残します。70年代以降は戦後歴史学を批判的に継承した、いわゆる民衆史・社会史が登場、国家・政治・経済だけではなく、よりひろく民衆や社会を考察対象にした歴史の描かれ方が登場します。民衆史では色川大吉、安丸良夫、鹿野政直、ひろたまさきらの仕事が近現代史において重要であるとされ、社会史では中世史の分野で網野善彦というスターを生むことになります。
このような実証主義→皇国史観→マルクス主義の影響下にある戦後歴史学→民衆史・社会史という大まかな流れは、読書人としてたいへん参考になります。

著者によると、民衆史・社会史の登場以降、とくに日本近現代の分野において、いわゆる「現代歴史学」への脱皮ができていないことが問題であるとされます。
自分なりに意訳すると、学問は実証的であるべきですが、単なる実証主義ではダメで、実証をベースにしながらも構成主義的(≒物語的)な歴史観が必要なのではないか。学者だけではなくひろく読書人や教育の場で受け入れられる歴史ということであれば、構成主義的な要素は必須なのではないか。このような考えを著者の本からから受け止めることができます。
一方で著者は歴史学者による粗雑な構成主義については批判的で、坂本多加雄のような保守系の歴史学者の批判とともに、東アジアの歴史を扱った左派系の教材「未来をひらく歴史」なども(坂本多加雄よりもより一層手厳しく)批判されます。
そのまた一方で、フィクション・ノンフィクション等の作家の作品についてはかなり積極的に言及され、司馬遼太郎、松本清張、大江健三郎、井上ひさしらの作品についての批評もこの著作シリーズの読みどころの1つ。加藤周一などの批評家や、見田宗介などの歴史学以外の学者の著作にもたびたび言及され、作家・批評家・他分野の学者の著作(これらも重要な歴史資料である)
を含め、横断的に歴史を考察されているのも面白い点です。

そして、著者なりの構成主義的な歴史観(著者の言う「現代歴史学」を意識したものと思われる)が描かれているのが、集英社新書の「近現代日本史との対話」上下巻です。
この本は日本の近現代史を世界史の中に位置付け、世界の潮流の変化に影響された日本の政治・経済・社会などの変化を「システム」の変化として構造化し、幕末以降の150年余りの歴史を3つのシステム(システムA-B-C)の変化として、構成的に描写した歴史書となっています。
本書はシステムを主役にした物語とも捉えることができる著作で、ざっくり言うと、国民国家・帝国主義的システムA→戦時的・経済的総動員システムB→新自由主義的システムC、の3システムの変化として日本近現代史を定義し、戦後歴史学や民衆史・社会史の成果を踏まえた上で、それを乗り越える形で記述されているように読める本です。構造主義的な見方の本ですが、それでいて物語的にも読めるという点が本書の面白いところ。
とくに面白い点が、大きなシステムの変化点(システムA-B-Cの変化点)を、1930年ごろ(世界恐慌前後)と、1970年ごろ(オイルショック・ニクソンショック前後)に設定している点です。一般的に日本の近現代史を描く場合、1945年を変化点として描く場合が多いですが、1945年前後でシステム的な変化は少なく、戦争への総動員→経済への総動員という流れの変化はあれ、総動員的システムという点では30年代以降60年代までは似通っているということなのだと思います。

日本近代の特定の時点がどういうシステム下にあったかを想像することは、これまた過去の歴史家や作家の作品に触れる際の参考になります。著者の一連の著作は、自分の今年の読書の中で重要な位置を占めるものになりそうです。


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さてそんな中、この3月は文楽と大衆演劇を鑑賞する機会がありました。自分は演劇的なものを鑑賞しに行くことはオペラを除いてほぼなかったのですが、今まで見なかったものを新たに鑑賞することはなかなか貴重な経験になりました。

文楽(人形浄瑠璃)の方は堺市内での公演を鑑賞、演目は「伊達娘恋緋鹿子」より「火の見櫓の段」、及び「妹背山婦女庭訓」より「金殿の段」。ともに18世紀後半の作品で、前者は17世紀江戸の放火事件を題材にした、いわゆる「八百屋お七」の話の文楽化したもの。後者は7世紀の大化の改新の時代、中大兄皇子&中臣鎌足と蘇我入鹿の対立を背景に、女性の恋心と情念を描いた物語になっていました。いずれも女性が主人公で、一途な女性の男性への恋心が描かれ、それが強すぎる故に死に至るという悲劇である点で2作は共通しています。
三味線と語りと人形師の3者の掛け合いにより舞台は進行し、とくに人形の動きが文楽の大きな見どころですが、三味線と語りもまた音楽的に面白い部分です。オペラと比較した場合、物語的にはどちらも死に至る悲劇が描かれがちという点で共通していますが、音楽的に見た場合、オペラが会話と独白自体を音楽化しているのに対し、文楽の場合は物語の解説の部分が歌で、会話や独白は通常のセリフであるという点が真逆です。またオペラは女性歌手が男性歌手を演じることはあってもその逆はない、というのに対し、文楽の場合はすべて男性が女性の声も動きも演じるという点で真逆です。
観客の男女比も面白く、女性8に対して男性2くらいの割合で、圧倒的に女性の観客が多かったのも印象的。伝統芸能としての文楽もかなり面白く、別の作品もまた鑑賞したくなってきますが、いかんせん自分は視力に問題があるので、文楽の最も重要な要素である人形の動きが遠くてぼんやりとしか見えない(笑)というのが難点。目が悪い人は舞台で見るのではなく、映像などで鑑賞した方が良いのかもしれません。

大衆演劇の方は、八尾グランドホテルという温泉と劇場付きのホテルでの公演を鑑賞しました。このホテルは一泊すると温泉に入り放題、鍋料理を中心とした夜のメニューを食べられるのと同時に、併設の劇場にて大衆演劇を宿泊費のみで鑑賞できるという趣向のホテルで、なかなか面白い経験になりました。
鑑賞したのは「チーム激龍」という劇団の公演。江戸時代と思われる時代の火消しを主人公にした演目で、火消しの子供が実は実子ではなく火消しの妻の不義による子であり、それに気づいた火消しの前にその子供の実の父親が現れるというストーリー。最後は修羅場&死に至る悲劇が予想される展開(19世紀オペラの場合はこのようなケースでは往々にして暴力や殺人に至る)ですが、そうはならないのがおそらくは現代の大衆演劇のポイント。実際に子供を前にした火消しと各人は修羅場を回避し、寂しさと悲しさを残しつつも、決定的な悲劇を回避した状態で物語は終わります。文楽やオペラの場合は悲劇のカタルシスはしばしば死によってもたらされますが、現代の大衆演劇では死を回避しながら悲劇を演出するところが重要な点なのかもしれません。
演劇のあとは舞踏が続き、様々な衣装を身に着けた演者が、現代ポピュラー音楽(演歌からロックまで様々な音楽が採用される)のメロディに合わせて、おそらくは日本舞踊をベースに、それを大衆化したような動きの踊りが繰り返されます。演者はしばしば舞台の前方や花道にやってきて、場合によっては客席にまで立ち入り、観客からおひねり(おそらくは一万円札)をもらう場面が多々見受けられます。(役者の強いファン、いわゆる「推し」のような人たちが客席にいるものと思われます。)
観客の男女比は女性9.5に対し男性0.5、くらいでしょうか。男女比は圧倒的に女性が多く、その女性の多くも60歳前後以降と見受けられる方がほとんど(この中で40代の自分たち2人はかなり浮いている)。なかなか面白いものを鑑賞できて楽しかったですが、BGMの音量が極めて大きく、アンプで増幅された音が耳にしんどいのが難点(例えるなら後期ロマン派交響曲4楽章コーダのスフォルツァンドの音量を超える音圧が、常時一定量で流れ続けている感じ)。
自分にとっては今までにない世界の体験で、貴重なものを見られたという印象です。

合わせてこの3月はずいぶん久しぶりに野球の試合の観戦した月でもありました。昨年秋の引っ越し以降、家ではだいたいテレビがついていることが多いので、必然的にWBCの日本の試合も目に入ってくることになります。
予選の中国戦から始まり、韓国選、チェコ戦、オーストラリア戦に続いて、本戦のイタリア戦、メキシコ戦をリアルタイムで観戦、最終決戦のアメリカ選のみ平日の朝のため見られませんでしたが、それ以外はほぼすべてリアタイで視聴することになりました。予選から本線のイタリア戦にかけては、途中から見始めたりお風呂で中座したり食事したりしながらの視聴でしたが、21日の祝日朝のメキシコ戦は、ずいぶん久しぶりに試合開始から終了まで連続して観戦(おそらく自分が野球をちゃんと最初から最後まで見たのは1999年の阪神戦以来24年ぶり)しました。
今回の気付きは、直近で演劇をいろいろ鑑賞したこともあって、野球を演劇的な視点で捉えてみるとなかなか面白いのではないかということ。自分は野球の選手には全く詳しくなく、知っているのはダルビッシュと大谷くらい(ちなみにダルビッシュは大阪府羽曳野市出身なのでほぼ同郷出身)でしたが、予選からずっと試合を見ていると、知らなかった各選手のキャラもだんだん分かるようになってきて、そのキャラに感情移入できるようになっていきます。
演劇的に考えると、スポーツは特定のルールに基づいた演目(競技)に役者(選手)を配役し、即興劇を演じさせているようにも見ることができます。その即興劇がどのような結果になるのか(勝つのか負けるのか)は最後までわからない。結末が定まらないハラハラドキドキの演劇としても楽しめるように感じました。野球のルールさえ覚えれば、多くの人がリアルタイムでキャラクターに感情移入し、スリリングな即興劇を楽しむことができる。そう考えると、野球を始めとするスポーツこそが、現代における最も進化した大衆演劇の有り様と考えることもできそうです。(逆に言うと、既存の演劇はスポーツ観戦の強度には勝てないのではないか、という思いも深まります。)
現在は古典化した文楽もかつては17世紀の大衆演劇であり、大衆が求める娯楽の1つでした。現在の大衆の娯楽たる野球観戦を、このような演劇史の中に位置づけて考えてみても面白いのではないか、そんなことを考えながらWBCの試合を楽しく鑑賞しました。


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成田龍一さんの著作

右の5冊が今回読んだ本です。(左の3冊は過去に読んだもの。)



おまけ、用事で西宮市の鳴尾に訪れた際に、ついでにお参りした鳴尾八幡神社で咲いていた梅の様子(今月初旬)。

 




少し見にくいですが、梅の木にやってきたメジロ(写真中央)。