新記号論/石田英敬,東浩紀 | れぽれろのブログ

れぽれろのブログ

美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

ゲンロン叢書の第002巻、「新記号論」が面白かったので、感想と覚書などをまとめておきます。

「新記号論」は、ゲンロンカフェで開催された石田英敬さんと東浩紀さんによる3回の対談をまとめた本です。
テーマは記号論、石田英敬さんは東京大学の教授で記号学を専門とされている方、その石田英敬さんのお話を東浩紀さんが聞くという形で対談が進んでいきます。
4時間に渡る対談×3回分が凝縮されており、記号学とメディア史、脳科学、情報科学を横断しつつ、哲学や思想との関わりを語りながら、現在の社会分析に応用するという、非常に面白い内容になっていました。

自分はこの対談は見ていなかったので、全くゼロからの読書。
自分の記号論についての知見は、大昔に読んだ筒井康隆さんの「文学部唯野教授」レベルです。
内容が面白そうだったので買ってみたものの、果たして講義について行けるのかと心配しつつ読みましたが、話の流れ、組み立ては分かりやすく、記号論をほとんど知らない自分でも読み進めることができました。


以下、本書のざっくりとした自分なりの理解の覚書と感想など。

第1講でまず登場するのはメディア史です。
グーテンベルク以降、19世紀まではメディアと言えば文字でした。
19世紀から音声メディアや映像メディアが登場し、写真・電話・映画が普及、そして20世紀はラジオとテレビの時代。
20世紀末から情報端末が普及し、現在はスマホが重要なメディアとなっています。
各時代の記号論もメディアの関わりの中で考える必要があり、ライプニッツやロックは活字メディア時代の記号論、パースやソシュールは言語メディア時代の記号論、なので、情報化時代の現在において、記号論は現在のメディアに合った形でアップデートする必要がある。
その他、言語は人間にとって生得的であるが、文字認識は脳の画像認識能力を利用する形で、後天的に形作られることなどが第1講で語られています。

第2講はフロイトの問題意識と記号論との関わりがテーマ。
脳の特定の領域が特定の機能に相当しているという捉え方(局在論)ではなく、脳の機能を構造的に捉えてモデル化(局所論)したのがフロイトです。
フロイトの有名な第二局所論、エス-自我-超自我の構造が登場、一般にエスは無意識・本能的衝動の領域、超自我は前意識・道徳的制御の領域、その中間に自我が形成されると言われます。
エスは身体的(物表象)、超自我は概念的(語表象)であり、超自我が機能することにより自我がまともに(言うなれば動物的でなく人間的に)保たれる。
しかし概念言語もそもそも音声的・聴覚的なものであり、身体機能(エス的なもの)を源とする、本講ではフロイトも言語メディア時代の学問であり、現代的なアップデートの必要性が説かれます。
次にソシュールが登場し、パロール(単純な発話)とラング(社会的言語)について考察、ラングはその構造上、その社会において聞こえるようにしか聞こえない、これが「見たいものしか見えない」あるいは「見たくないものが見える」という認識に繋がり(例えば前者がトランプ擁護、後者が移民排斥)、ファシズムや現在のSNSでの不毛やり取りにリンクします。
フロイトの言う超自我的に機能するようなパロールの在り方の模索は、とくにスマホ時代においては重要性が増します。
その他第2項では夢の構造についても語られ、睡眠時に前意識が緩み、語表象が物表象にフィードバックされるのが夢であること、そして睡眠時の脳波を信号化することにより夢が人工的に解析でき、さらには逆に脳に信号を与えることにより人工的に夢を見させること(恐ろしい!)の可能性についても語られています。

第3講はさらに進んで、記号論と情報理論の構造的な階層モデルをベースに講義が進んでいきます。
パースによる、象徴-類像-指標という記号論の階層構造が示され、この構造はフロイトの前意識(≒超自我)-無意識(≒エス)の構造に近似的、さらにはグーテンベルク以来の活字メディア-20世紀的映像メディア-現代的情報メディアの構造にも近似的であることが示されます。
上位(象徴)に行くほど精神的、下位(指標)ほど身体的、活字メディアは上位(象徴)に近く、映像メディアは中位(類像)に近く、情報メディア(タッチパネル)は下位(指標)に近い。
現在の進化した情報端末(スマホ)は、かつての活字メディアに比べて遥かに身体的(≒脊髄反射的)で、不毛なラングが増殖するSNSコミュニケーションを引き起こす。
本講ではさらに情報理論の構造、アナログ信号-デジタル信号-プログラムの階層構造が示されます。
アナログ信号は物理的な電気信号、デジタル信号はそれを計算可能(1/0信号)にしたもの、プログラムはそれを制御する機械語、ざっくりいうと上位が身体的で、下位が機械的なもの。
先ほどのパースの記号論の階層構造を上に、情報輪論の階層構造を下にして並べてみると、ちょうど身体の部分で2つの階層が接続、象徴-類像-指標-アナログ信号-デジタル信号-プログラムという階層になり、IT技術の革新(機械の人間化)は下から上へ向かうベクトル、人間の頽落(人間の機械化)は上から下へ向かうベクトルとしてモデル化されます。
現代においてはこのような人間-機械のモデルを前提とした分析が不可欠、現代の政治哲学や社会学・カルスタ・ポスコロ的なものがITやSNSやトランプ現象等をうまく分析できないこと、あるいは、現在のテクノロジストがIT化が人間を快適・幸福にすると単純に考えがちであることは、このようなモデルに対する認識が欠如しているためである。
人間の劣化に抗うには、このような階層モデルから考え直す必要がある。
資本主義は生産と消費を分析(フォーディズムやマーケティング等)しますが、革新思想が消費を分析できなかったこと、現代左派思想は社会改善に関心はあれど情報や消費を分析できていないことの問題性の指摘も印象に残ります。

最後に石田英敬さんによる補講が載っています。
第2講で登場した夢の制御をはじめ、過度なITによる生活世界の浸食には抗うべきである。
ITメディアは生活世界の補助具であるべきであり、補助具を脇に置いて活用するレベルにとどめるのが、人間の自由を確保することだとまとめられているように読めます。
その他、現在の巨大IT企業(googleやamazon)が書籍のシステム化からスタートしている(極めて記号論的)という指摘や、現在のIT化により生じる権力は中枢を持たず(非パノプティコン的、非ビッグブラザー的)もっと離散的なもの(故にトランプのみを排除しても問題は解決しない)であるという指摘も印象的。
情報計測アルゴリズムの4類型の解説も面白く、アルゴリズムが人気→権威→評判→痕跡の順に進化、それぞれクリック数(アクセスカウンタ)→リンク序列(google検索など)→いいね機能(facebookなど)→機械学習(Amazonのおすすめ本など)に相当、ITがどんどん人間の自由を脅かす存在に近づいて行く。
人間の自由を確保するために、自己のプラットホームを作る領域を確保することの重要性がまとめられています。


感想など。

本書で示されるモデルは、当ブログの関心ごとである音楽や美術との関わりでもあれこれと考えることができると思います。
例えば音楽、バッハによる平均律・12音モデルの確立は、おそらく文字メディア時代の記号論と関連性があるのではないか。
19世紀以降、音声・映像メディアの発達に伴い、ハイカルチャーとしての音楽表現が逆に象徴化していく(主題労作-固定観念-ワーグナー的動機-反行系などの旋律操作-調性の意味化から無調へ-12音技法-セリーと、どんどん象徴的・意味的になり身体的なものから乖離していく)のは、音声・映像メディアの発展(≒超自我の劣化)を誤った形で無意識に補填しようとする芸術家の行為なのでは?などと、あれこれ想像が働きます。
アート制作・アート鑑賞と、本講義で示される記号モデルを関連させてあれこれ考えてみるのも面白そうです。

本講の1つのテーマである、IT化による弊害に抗う、人間の自由のために自己プラットホームを確保するという点。
自分はスピードが重要なのではないかと思います。
自分がtwitterをやらないのは、メディアとしての速度が速いからです。
速度が速いと身体的な階層に下降しやすく、脊髄反射的になる。
自分がアメブロを使い続けているのは、おそらく速度が遅く、プラットホームが限定的なメディアだからです(広告が鬱陶しいというデメリットはありますが)。
GAFA(google、apple、facebook、amazon)的なものは便利ですが、生活世界への浸食の懸念も大きい(有体に言うとヤバい)企業でもあるため、スピードと距離の取り方が重要。
例えば自分の場合、google検索・Gメール・グーグルマップはあまりにも便利なので使う(ただしGメール以外は使用時はログオフする)、appleはiTunes以外は使わない(仕事で会社支給のiPhoneは仕方なく?使っていますが、appleは先進性とデザインを気にする必要性のない一般人は避けることができる企業だと思います)、facebookは使わない、amazonはこれまたあまりにも便利なので使いますが、購入品目は書籍などに限定しプライムサービスは使わない(スピードには抗う)、というような各人なりの構えが重要なのではないかと思います。
ITの身体への浸食に抗うには、サービスの前でできる範囲で一歩立ち止まること(遅れること)が、おそらく重要です。

その他、記事の最初に書いた筒井康隆さんとの関わり。
自分は高校時代に筒井作品をやたらと読んでいましたが、例えば短編「夢の検閲官」などはおそらくフロイトの構造モデルをベースにしているのではないか、本書の記号・脳の階層モデルから考えることできるのでは、などと振り返って思います。
筒井作品は今手元に本がないですが、夢や記号についての作品を何やら読み返してみたくなってきました。
その他「天皇は日本人の超自我である」というのも、確かどこかで筒井さんが書いていたように記憶しています。
これも今考えると含蓄のある言葉で、IT化によるSNSの対立的コミュニケーションに抗うには、天皇制という「遅い」リソースはおそらく有用、何度も書いているように自分は近代天皇制はない方がいいとは思いますが、天皇陛下のパロールが我々の前意識(超自我)に働きかけるということは、社会にとっては有益な面もある(もちろん危険もありますが)のではないかと感じます。


ということで、本書で提示される記号論のモデルは、非常に抽象度の高い形で、様々な社会についての考察に応用できそうです。
哲学や現代思想にだけではなく、情報化や社会に関心のある方にはお勧めの本。
ゲンロンカフェでは本書を受けて改めて石田さんと東さんの対談が放送されているようですので、これもタイムシフトで見なければ、と思っているところです。