大阪市 都市の中の神社 | れぽれろのブログ

れぽれろのブログ

美術、音楽、本、日常のことなどを思いつくままに・・・。

大阪再発見シリーズ。
今回は大阪市内の中心、都市部の中にあるいくつかの神社とその周辺を訪れてきましたので、写真とコメントなどをまとめておきます。
今回取り上げるのは、大阪天満宮、露天神社、少彦名神社、御霊神社、坐摩神社の5つ。
いずれも大阪市北区~中央区にある神社で、大阪の中心部のやや北側に位置する神社たちです。
訪問日は11月17日の土曜日です。

作家の五木寛之さんは著書「隠された日本」のシリーズで、京都は前衛都市であり、大阪は宗教都市であると主張されているようです。
この本自体は自分は読んでないのですが、パッと聞く限りなるほどと思うところがあります。
平安時代以降、京都が日本の最先端の都市として常に前衛であり続けたのに対し、大阪の中心は中世後半からは石山本願寺の本拠地であり、大都市周辺にもいくつかの寺内町が存在し、信仰と関わりの深い都市であったことはなんとなく推測できます。

日本の多くの都市では、現在でも都市のビルとビルの谷間に潜むように神社やお寺が存在しており、今でも都市に住む人々のひとつの拠り所になっている、これは大阪も例外ではありません。
自分は大阪府東部の企業に勤めていますが、敷地内にはやはり神社があり、常に大切に手入れがなされています。
神社というものは明治以降の国家神道との関わりもあり、なかなか一筋縄では語れない歴史があるものですが、自分が訪れた感触では(くまなく訪れたわけではないですが)、東京のいくつかの神社に比べ、大阪の神社は明治国家的な神道色はかなり薄いです。
どちらかといえば、古代からの都市住民の生活習慣に密着した神社、敬虔な信仰の場というより、世俗感あふれるゆるい信心の場という雰囲気が強いです。
商業と関わりの深い神社も多く、今回訪れた中にもそのような商業色の強い神社もあります。


---

(1)大阪天満宮

まずは北区の神社から。
大阪城の北西部、天神橋を越えて大川を渡り、しばらく歩いたところに大阪天満宮があります。
最寄り駅は大阪メトロ南森町駅、またはJR東西線の大阪天満宮駅。
南北に長く延びる天神橋筋商店街の南から2番目の区画、いわゆる「天二」の脇にある天満宮です。
天満宮ですので、お祀りされているのは天神さま(菅原道真公)。
一応、京都の北野天満宮と福岡の太宰府天満宮と合わせて、日本三大天神などと言われることもあるようですが、前二社の規模を考えると、三大というには大阪天満宮はショボすぎる気がします(笑)。

起源は645年、難波長柄豊碕宮(現在の大阪城の南側あたりにあった古代の都)の時代に遡り、元々はこの都の北方を守護するための神社であったようです。
その後949年、村上天皇の時代に道真公が祀られ、これ以降天満宮となり現在に至ります。
直近では1837年の大塩平八郎の乱で本殿は焼失、現在の建物はこの直後に建て直されたものであり、幕末から明治期の絵画や資料なども残されています。


入口はこんな感じ。

南側の門を撮影した写真です。


本殿の様子。

えらく混雑しています。
七五三のため人が多いようです。
11月はとくに行事もないから神社は空いとるやろ、と思っていましたが、自分は七五三というイベントがあるということをすっかり忘れていました。


屋台も出ており、賑わっています。

来る日を間違えたかも・・・笑。


本堂の東側にある登龍門。

龍の装飾が施されています。
解説によると、この登龍門は大塩の乱後の1845年に再建され、当時は龍は金属でできていましたが、戦時中の金属回収のおふれにより龍の装飾はなくなり、現在のものはその後再建されたものだのだとか。
いちいち戦時の爪痕が現れるのが、日本の都市の一つの特徴。


本殿の後ろにある大将軍社。

これが元々の、難波長柄豊碕宮の北を守る社の名残のようです。


歴史が古いとはいえ、やはり神社ですので、国家神道的なものと関わりのある史跡もあります。

神武天皇に関わる石碑。


 

さざれ石。

「君が代」の歌詞に登場するのが、この石であるという説があるようです。
このさざれ石は岐阜県にあるそうですが、なぜかこの大阪の地にもその一部が奉納されているようです。
「君が代」は古代から伝わる短歌であり、さざれ石なるものが実際に存在したなどというのは、個人的にはやや根拠に乏しいのではないかと感じます。


休憩室にひっそりと展示されていた、山口采希さんのポスター。

山口采希さんは大阪出身のミュージシャン、愛国的な要素を含む音楽や戦前の歌謡曲などを歌っておられる方で、大阪の神社もプッシュしているようです。
その愛国ぶりたるやRADWIMPSがどうしたとかいうレベルではありません。
自分はガールズポップファン&童謡・唱歌ファンですので、個人的にこの手の曲調は好みに合い、大阪のミュージシャンということもあり、それなりに関心があったりします。
ご興味がある方は聴いてみても面白いかもしれませんが、彼女のようなミュージシャンをどう考えるかについてはなかなか難しいものがあります。
例えば、教育勅語を音楽にするといいつつ、歌詞は天皇の要素が全くないどころか、かなり戦後民主主義的な内容であり、しかも曲調はなぜかアメリカのカントリーミュージック風、それでいてどことなく愛国歌にも聞こえるという、何重にも屈折した感じがあるのが何とも現代的で興味深いですが、これをどう考えればよいかはなかなか難しい。


日豪親善の碑。

こういう平和的な碑が登場するのがまた神社の良いところ。


休憩室の周りに飾られていた、十二支を描いた絵馬が可愛らしかったので、写真を貼り付けておきます。






 

 

大阪天満宮のすぐ西には、天神橋筋商店街があります。

ここは天神橋筋二丁目、いわゆる天二。
もう少し北の天三になると、もっと人が増えてきます。


商店街の中には、大阪天満宮への案内の提灯が。




(2)露天神社(お初天神)

続いても北区の神社。
さらに都市の中心、大阪の玄関口である梅田の南側にある露天神社(つゆのてんじんじゃ)です。
別名はお初天神。
最寄り駅は大阪メトロ東梅田駅が一番近いですが、JR大阪駅やその他私鉄の梅田駅からも歩いて訪れることができます。

この神社は本当に都市の中の限られたスペースにある神社です。
それなりに訪れる人は多かったです。


入口。


 

飛び出し小僧がお出迎え。



本殿。


ここまでは普通の神社に見えますが、ここからのお初天神の本領です。


見よ、この世俗感(笑)。

恋人の聖地とのことで、トランプのスートをあしらった縁結祈願のおみくじと、
謎の顔出しパネルがありました(笑)。

梅田駅周辺は大昔は海の底であった場所。
その後、淀川が運ぶ土砂が堆積し、徐々に陸地化。
この神社の起源は、たくさんの島が並んでいた難波八十島の時代のお祭りに遡り、850年の資料には既に登場しているのだそうです。
このあたりは曾根崎という岬があった場所でしたが、近世江戸時代には完全に陸地化、井原西鶴の「曽根崎心中」にゆかりのある神社であり、そのためかいつのころからか恋人の聖地と言われるようになり、現在もこのような恋の神社と化しています。


道祖神。

神様も可愛らしいゆるキャラになっています。


「曽根崎心中」文楽人形のイメージの看板。

そもそも心中は恋の成就というより一種の破局のような気もします。
これがなぜ恋人の幸福につながるのか(笑)、考えるとかなり疑問に思いますが、細かいことはどうでもよく、曖昧に処理し楽しむのが大阪的ということなのかもしれません。

この神社には絵馬もたくさん奉納されており、おもに恋に関する多くの人のお願い事が書かれています。
この絵馬を読んでみるとかなり面白く、ふざけた願い事もあり、ほとんど笑いを取ろうとしているとしか思えないような絵馬もあります。
こんなとこで第三者を笑かしてどないなんねん・・・笑。


獅子舞のおみくじ。

電動式の獅子舞がガチャガチャと動き、おみくじを引いてくれます。
巨大なカニや赤白段だら縞の人形の流れを汲むような、ナニワならではの意味不明なイミテーションです(笑)。


神社の東側は、飲み屋の街に繋がっています。


 

その門の上にいた猫ちゃん。

世俗的な神社に訪れる人間の振舞を、冷めた目で見ているような表情がいい感じ(笑)。


北側の入口。

本当にビルの谷間にあることがお分かりかと思います。


すぐ横は商店街です。


 

商店街が参道になっています。

神社への案内は、やはり文楽人形のデザイン。
カラオケの広告とセットなのが、商都の神社らしい感じがします 笑。



(3)少彦名神社

中央区に移ります。
中之島を越えた南側に、道修町(どしょうまち)と呼ばれる東西に長く存在する町があります。
ここは近世江戸時代に遡る薬の問屋街で、現在でも製薬会社がずらりと並ぶ一角。
田辺製薬、小野薬品工業、武田薬品工業はいずれも江戸時代に遡る製薬会社。
他にも塩野義製薬、大日本住友製薬など、多くの製薬会社がこの道修町に本社を置いています。
谷崎潤一郎の「春琴抄」の舞台となったのがこの道修町で、主人公の春琴は薬問屋の娘という設定です。

この道修町の中にある神社が少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)で、薬祖神である少彦名をお祀りする、お薬の神社になっています。
神社としての起源は新しく、1780年にできた神社であると言われています。
最寄り駅は大阪メトロ北浜駅、北浜から堺筋を南にあるいたところ、道修町の一角にあります。
先ほどの露天神社以上に狭いスペースにある神社で、本当にビルとビルの隙間にひっそりと存在しています。


神社の入口。

右側の細い道が神社への参道(?)で、すぐ奥に鳥居があります。


製薬会社の提灯がたくさん。


 

多くのお薬がお祀りされています。

このガラスケースが3つほどあります。
有名なお薬もたくさんありました。


鳥居を越えるとすぐ本堂。

本当に限られたスペースにある、町に密着した神社です。
意外とお参りしている人は多かったです。
絵馬も奉納されていましたが、先ほどの露天神社のようなふざけた願い事は少なく、「病気がよくなりますように」等の深刻なお願い事が多かったです。
神社の性質が変われば、願い事も変わる。


道修町の様子。
この写真では少し分かりにくいですが、木でできた鳥居のようなものが道路に連続して建てられています。

この道路の両脇が道修町になります。
大阪市中央区の町名の付け方は合理的、道路に面した両側の建物が同じ町名で、非常に分かりやすいです。
一般的な区画では道路を介して町名が変わりますが、道路の両側が同じ町名の方が分かりやすく、道修町のような区画の方が合理的であるように思います。


道路の両側には製薬会社がたくさん。



漢方の薬局も。



有名な製薬会社もちらほら。



道路には虎のキャラクタが。

この張子の虎が道修町のシンボルになっています。
かつて虎の頭を砕いてお薬にしたことに由来するのだとか。



(4)御霊神社

道修町の西の端から、少し南に歩いたところに御霊神社(ごりょうじんじゃ)があります。
最寄り駅は大阪メトロ淀屋橋駅が一番近いでしょうか。
御霊神社は元々は現在の西区の方に存在していた古い神社のようですが、豊臣秀吉の大阪城の築城後の1594年に現在の位置に移され、御霊神社となったという由来があるようです。

赤い鳥居が目立ちます。



本殿は塗り直されて新しい感じ。

戦災で焼失し、現在の建物は戦後に復興したものです。
ここはお参りしている人は少なかったです。


御霊神社のすぐ東側は、御堂筋です。
いろんな彫刻がずらりと並ぶのも御堂筋のひとつの特徴。

御霊神社の近くには、フェルナンド・ボテロの作品がありました。

ボテロのぽっちゃりした造形はいいですね。


こちらは西本願寺北御堂。

御堂筋の名前の由来になったお寺です。



(5)坐摩神社

御堂筋をさらに南に歩き、中央大通りを越えた南側に坐摩神社(いかすりじんじゃ)があります。
「いかすり」は土地を守るという意味があるようですが、一般には音読み+さん付けで「ざまさん」と呼ばれることが多いようです。
由来は平安時代に遡り、元々は天満橋付近にあった神社のようですが、やはり豊臣秀吉の時代の1583年に移転を命じられ、現在の位置に移されたのだそうです。
大阪は秀吉時代にずいぶん区画が変更されたようで、現在の都市の原型は秀吉時代に遡るということが言えそうです。


鳥居。


 

本殿の様子。


 

敷地内には国家神道的なものもちらほら。


 

恒例の(?)君が代。


 

上方落語寄席発祥の地。

この神社の周辺が上方落語発祥の地なのだとか。
現在の寄席興行は、江戸時代にこの坐摩神社にて、初代桂文治が開いた興行に遡るのだそうです。
上方落語協会、桂三枝名義での碑になっていますので、碑に記載された解説が三枝師匠の口調で脳内に入ってきます 笑。


この坐摩神社の敷地内には他にもいくつかの神社があります。
それぞれの神社がそれぞれの商業と関わりがあるようで、面白いです。

こちらは繊維神社。



やはりアパレル業界と関わりのある神社なのかな。


陶器神社。



こちらも陶器業界と関わりのある神社のようです。
夏には瀬戸物市が開かれるのだとか。
大阪の商業の中心地である船場の神社ということで、坐摩神社の敷地内にもこういった神社があるのだと思われます。


陶器神社は灯籠も陶器でできています。


 

ふと後ろを振り返ると、陶器でできた何やらキッチュなものが。

なんやこれは 笑。
神社といえど、時折妙なものが噴出してくるのが、大阪らしい気もします。


坐摩神社のすぐ東側には、東本願寺南御堂があります。

こちらも御堂筋の由来になったお堂。
都市の中のお寺もまた訪れたいですね。



---

ということで、大阪市内のいくつかの神社でした。
都市の隙間に潜むように存在する神社は、都市住民の生活・経済・文化と密着しており、妙なイミテーション(笑)などとともに、ゆるい信心が現在も継続していることが感じられ、たいへん面白いです。
今回の神社はいずれも梅田からすぐの場所、新大阪からも割と近いので、旅行などで大阪を訪れた際には、ふらりと立ち寄ってみても面白いかもしれません。