河内を歩く -葛井寺- | れぽれろのブログ

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西国三十三所探訪シリーズ。
12月1日の土曜日、西国三十三所の第5番札所である葛井寺(ふじいでら)に行ってきました。
西国三十三所をまわり始めてから6年近く経ちますが、この葛井寺へのお参りをもって全33か所をまわったことになり、この度めでたく満願となりました。
(どんだけ時間かかっとんねん、という感じですね 笑。)

葛井寺は大阪府藤井寺市にあるお寺。
最寄り駅は近鉄南大阪線の藤井寺駅です。
自分は大阪在住で、実は我が家から一番近いお寺だったりします。
3年前に今住んでいるところに引っ越してから、近場やからいつでも行けるやろと思い、後回しにしているうちに、とうとう一番最後に訪れることになりました。

近鉄阿部野橋駅から南大阪線の準急に乗り、13分ほどで藤井寺駅に到着。
駅から降り、商店街を越えてすぐのところに葛井寺がありました。
山の奥にあるだとかで何かと訪れるのが面倒なところが多い西国三十三所ですが、葛井寺は駅近で非常にお参りしやすいです。
第18番六角堂(京都地下鉄烏丸御池駅からすぐ)、第24番中山寺(阪急中山観音駅からすぐ)と並んで、アクセスのよいお寺ベスト3に入るお寺だと思います。

今回は葛井寺と合わせて、そのすぐそばにある辛国神社、及びその南側にある岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)も訪れてきましたので、写真と覚書を残しておきます。



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(1)葛井寺

商店街のすぐ脇に山門がありました。

これは西門で、大きな山門は南側の南大門になります。
駅に近い西門からお参りすることになりました。
この西門が敷地内で最も古い建物で、1601年豊臣秀頼による再建となります。

敷地内はたくさんの子供たちが走り回っていました。
お寺の敷地内は誰でもアクセスでき、近隣の子供たちの遊び場になっています。
特段イベントがあるわけでもない(たぶん)のに、敷地内にたい焼き屋さんの屋台がありました。


本堂。

1776年の再建。
お参りしてきました。

葛井寺の創建は6~7世紀ごろに遡ります。
元々は百済からの渡来人の家系である葛井氏のお寺で、その後725年(奈良時代)の聖武天皇の時代にご本尊の十一面千手観音像が奉納され、有名な僧行基により開眼法要が営まれました。(この年が創建とされる場合もあります。)
9世紀(平安時代)には在原業平が奥の院を造営しここに居住、14世紀(南北朝時代)には楠木正成がお寺の中に陣を構え、その後戦国時代にかけてお寺は衰退、織豊時代に豊臣秀頼により復興され、現在に至るのだそうです。
様々な歴史人物と関わりのある、興味深いお寺。
中世には東西2つの三重塔があったらしく、それなりに大きな規模のお寺だったようですが、戦国時代の戦火で多くは焼失し、現在は町の中のこじんまりとしたお寺になっています。
現在の宗派は真言宗御室派とのこと。


釣鐘堂。


 

旗掛けの松。

楠木正成が葛井寺に旗を奉納し、この松に旗を掛けたという謂れがあるそうです。


柔和なお顔の出世地蔵大菩薩さま。


 

専心龍乗観音。

三千年の修業を積んだ龍を従え、地上に現れる観音様なのだとか。
お祈りすれば願い事が必ず叶うのだそうです。
龍の装飾が細かいです。


お大師様と思われる像。


 

恒例の敷地内の鳥居。

奥には弁天さんがお祀りされていました。
前回訪れた琵琶湖の宝厳寺では、弁財天はお寺におられましたが、こちらは鳥居の奥なので神社との位置づけのようです。
仏教-神道を行き来する、弁天さんは何ともフリーダムな神様です。


敷地内には、西国お砂ふみ道場ということで、西国三十三所の全観音様の像がありました。
敷地内に全ての観音様がいるというのは、西国のいくつかのお寺に共通するパターンですが、葛井寺はその中でも最も規模が大きいように思います。
たいていのお寺は1か所に小さくまとまって三十三体いるだとか、参道に沿って小さな三十三体が置かれているだとかのパターンがほとんどです。

第1番青岸渡寺に始まり、


 

第33番華厳寺まで。

結構な大きさで、御詠歌まで刻まれています。

 

その中で5番葛井寺は比較的小さめ。


このお砂ふみ道場は敷地内のあちこちに点在しています。
30番宝厳寺だけ見つけられませんでした。
どこにあったんだろう。


そんな中、高野山奥の院の碑もありました。

中にいるのは弘法大師でしょうか。


南大門。

本来はこちらが正式な入口のようです。
1800年に再建された門です。


商店街のすぐ横にある葛井寺、地域に密着した街の中のお寺という感じで、良い雰囲気のお寺でした。
元々渡来人の信仰の場であったところが、現在は地域住民のためのお寺になっているというのも面白いですね。


お寺の南にあった案内表示。

左側が奈良、右側が吉野。
藤井寺市はちょうど奈良市の南西、吉野町の北西に位置する場所です。


西門を出たところ、周辺の商店街の様子。

 

自分は南河内で生まれ育ったので、この風景は「ああー南河内の商店街やな」という感じがします。(どこがどうとはうまく説明できませんが。)



(2)辛国神社

葛井寺のすぐ近くに、辛国神社(からくにじんじゃ)と呼ばれる神社がありました。
同じく商店街のすぐそばの神社ですが、葛井寺よりも敷地は広く、近代になってからしっかりと整備されたような雰囲気があります。


入口。

鳥居は2つあり、これは2番目の鳥居の写真です。
なので、参道はこの写真よりももう少し長いです。
木々が生い茂り、自然が良い雰囲気の神社です。


拝殿。

解説によると、5世紀後期の雄略天皇の時代に遡る神社のようです。
物部氏ゆかりの神社で、その一族の辛国連(からくにのむらじ)が神社の由来になっているとのこと。

(辛国=からのくに、なので渡来人との関わりがあるとも言われます。)
神社の起源は仏教伝来以前、葛井寺よりさらに昔に遡るようです。
近世までは、春日大明神という名称だったそうですが、明治の復古情勢の中で古代にゆかりのある辛国神社に改名されたという経緯があるそうです。
5世紀~7世紀の古墳時代、畿内の権力の中心地は奈良盆地中南部から河内平野南部にかけて、現在の奈良県桜井市周辺から大阪府堺市周辺にかけての東西のラインであり、葛井寺や辛国神社もその当時の権力者との関わりから誕生した寺社なのだと思われます。
大阪南部は歴史が古い。


開運招福の絵馬。

戌年なので犬のイラスト。
西洋風写実画(右上)の犬と、円山派風の可愛らしい日本画(左下)の犬が混在しているのが面白いです。


プチ庭園。


 

稲荷神社。

これも恒例の(?)コピペ風鳥居になっています。



(3)岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)

葛井寺と辛国神社から南にしばらく歩くと、岡ミサンザイ古墳と呼ばれる5世紀の古墳があります。
全長約245メートルの前方後円墳で、周辺の古市古墳群の中でもそれなりに大きい部類の古墳です。
岡ミサンザイ古墳は仲哀天皇陵とも呼ばれていますが、仲哀天皇(日本武尊の息子とされる)自体実在したかどうか怪しい人物であり、誰が埋葬されているのかは不明であるようです。


住宅地の中を縫って歩くと、前方後円墳の後円の部分が見えてきました。

緑の木々が生い茂っている部分が古墳です。
柵で厳重に覆われています。


西側から撮影。

柵と柵の間にカメラを入れて撮影した写真、実際はこの手前に柵があります。


南西側から撮影。

前方後円墳の前方の部分を、左側から撮影した写真です。
前方の部分(南側)からは古墳が見やすく、お堀の様子も分かり、いい雰囲気です。


お堀に入るなとの看板。

溺れる子供。
古墳とその周辺は宮内庁の管轄であることが分かります。


正面からみたところ。

前方後円墳の前方の真ん中に鳥居が設けられています。
やはり柵があり、入ることはできません。
近代以降は宮内庁が厳重に管理しているようです。
それ以前はぞんざいに扱われていたのか、武士たちにより城郭化されていた形跡もあり、大坂の陣では豊臣方の拠点があったという説もあるようです。
夏に訪れた生野区の御勝山古墳も、大坂の陣の際に徳川方の拠点があり、墳形が破壊されたという経緯がありました。
近世以前、古墳は単なる山のようなもので、単に昔からそこにあるものとしか思われていなかった、ということなのかもしれません。


南東側から松の木とセット。

松の木は明治以降に植えられたようです。


古墳を上から見た写真(古墳周辺にあった解説パネルの写真です)。

現在は周辺が住宅地になっていることがお分かりかと思います。
周辺に住む人たちは、自宅から古墳が見えるという環境の中で生活していることが分かります。
家のそばに古墳があり、毎日目につくという環境で住んでいると、その人の歴史観なり場所に対する感覚なりに、古墳はきっと大きな影響を与ることになるのだと思います。

最近自分は社会や歴史を考える際に、人のルーツよりも場所に注目することの重要性を感じています。
自分は現在大阪府に住んでいますが、両親は和歌山県の出身であり、さらにその前の先祖に遡るとルーツは奈良県や四国方面になるようです。
なので、元々他府県の人間であった人の子孫が大阪府に住んでおり、大阪の史跡などに愛着を持ち、大阪人のように振舞っているということになります。

言うなれば、大阪在住の移民2世のようなものです。
昨今入管法の問題で移民問題がクローズアップされています。
現代社会の経済の維持を考えると、日本においても今後も移民の受け入れは必須、その際に、場所に対する共通感覚を構築することは、移民-日本人の共同性の構築の助けになるのではないか。
古墳やお寺などの史跡は、その場所がどういう場所なのかを再確認し、自分たちが住んでいる場所の共通感覚を構築する助けになります。
場所性を維持することは、実は公共圏を確立するために重要なことなのかもしれません。
どこの国から来ようが、住めば日本人であり大阪人であり、場所を共有している。
その上で共同性を維持するには、場所に対する感覚の共有が大切、日本なり大阪なりの場所性の維持がひとつのキーになるように思います。


さて、岡ミサンザイ古墳の少し北側には、鉢塚古墳と呼ばれる小規模な古墳がありました。

全長約60メートルの小さな前方後円墳。
写真手前が前方、奥が後円になります(たぶん)。
岡ミサンザイ古墳の陪塚と言われていますが、違うという説もあるようです。
古墳にはまだまだ分かっていないことが多いです。

この古墳の周辺は幼稚園になっており、古墳を囲むように教室なり遊具なりが設置されています。
太古の古墳を眺めながら遊ぶ園児たち、このような環境は何らかの形で後々子供たちに影響を与えることになるのかも。


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というこで、葛井寺とその周辺でした。
5世紀に大規模な古墳が作られ、その北にあった物部氏による信仰の場が後に春日大明神となり、現在は辛国神社になっている。
そのそばに6~7世紀に渡来人が住みつき、その信仰の場が葛井寺となり、後に日本の観音信仰の場となり、現在は地域住民のお寺になっている。
歴史の多層性を感じさせる、興味深い町でした。


西国三十三所をまわり終えましたので、近々まとめのような記事を書きたいと思っています。
個人的お気に入りベストのお寺や、お勧めベストのお寺などもまとめてみようと思いますので、ご興味のある方はお読み頂ければと思います。