対談 亀山郁夫×岡田暁生 (+「ゲンロン0」) | れぽれろのブログ

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先週は東浩紀さんの新著「ゲンロン0 観光客の哲学」を読み、そしてほぼ同時に、ゲンロンカフェで開催されていた亀山郁夫さんと岡田暁生さんの対談「オーケストラと近代市民社会のみた(悪)夢-ベートーヴェンからショスタコーヴィチまでの交響曲を考える」と題された動画を鑑賞しました。
今週は初めは「ゲンロン0」の感想を書こうかなとも思っていましたが、この本の感想は多くの人が書いており、様々な形で紹介されている本のようですので、クラシック音楽系ブログである当ブログとしては役割分担的に(?)ゲンロンカフェ初のクラシック音楽の対談である亀山さんと岡田さんの対談から考えたことをメインに、一部「ゲンロン0」との関連も含めて、感想などを残しておこうと思います。
この対談は文学者と音楽学者によるクラシック音楽の対談という点での面白さもさることながら、たまたま同時期に読んだ「ゲンロン0」の内容ともリンクする、非常に興味深い対談になっていました。


亀山郁夫さんはドストエフスキー論などで有名な音楽学者で、過去にゲンロンカフェにも登壇されており、批評史「ゲンロン」にも登場されている方。
一方岡田暁生さんは音楽学者で、ゲンロンカフェには初の登壇となるようです。
我が家の本棚には岡田さんの「オペラの運命」「西洋音楽史」「音楽の聴き方」(以上中公新書)及び「恋愛哲学者モーツァルト」(新潮選書)があり、その他雑誌などで自分は岡田さんの著述はそれなりの頻度で参照しています。
とくに上記の中公新書の音楽三部作は、多くのクラシック音楽ファンにお勧めしたい素晴らしい本です。
一方で亀山さんの著作は「チャイコフスキーがなぜか好き」(PHP新書)を読みましたが、内容はほぼ忘れてしまっており、ロシア文学にあまり触れる機会がないこともあり、自分は亀山さんの良い読者であるとは言えません。

 


対談の内容は多岐にわたりますが、自分が重要だと感じる論点を(一部補足しつつ)ざっとまとめると、およそ以下の通り。


まず、対談は亀山さんと岡田さんの音楽感の相違を中心に話が進められます。
お二人ともドイツ音楽がお好きなようですが、亀山さんにとって音楽とは没入するもの、圧倒されるもの、全体的な力でのしかかってくるものであり、このような力を持つチャイコフスキーやショスタコーヴィチへ等のロシア音楽への関心も非常に強いものがあるとのこと。
一方で岡田さんにとっての音楽とはパーソナルなものであると共に、エロスが表出されるものであり、ショスタコーヴィチの大音響の部分に代表されるようなmass的な音楽は苦手で、人間関係の機微を巧妙に音で表現するモーツァルトのような音楽が至高の音楽であるという考え方のようです。
このお二人の差異が何によるものかという問いに対し、お二人が応答するような形で対話が進んでいきます。


岡田さんから語られる重要な歴史観。
曰く、ベートーヴェン(あるいはモーツァルト)からマーラーに至る独墺系交響曲を中心とした音楽は、「制限選挙の時代の自由主義社会の産物」であるとのこと。
モーツァルトは18世紀末のフランス革命の時代に活躍した音楽家で、この時代はちょうどブルジョワジーの誕生に相当します。
一方でマーラーは第一次大戦の直前に亡くなっており、第一次大戦後に一般化する大衆社会より以前の世代の最後の交響曲作曲家です。
交響曲というジャンルは、貴族社会→ブルジョワジー社会→大衆社会へと社会が移り変わる中での、ブルジョワジー時代の産物である。
貴族社会以前の時代には交響曲は存在せず、大衆社会以降の時代では一部の作曲家を除いて交響曲は書かれなくなります。


このブルジョワジー時代の独墺系交響曲はすべて弦楽四重奏がベースになっており、マーラーの音楽であっても小編成の弦楽編成に基本的に編曲可能。
(一方でチャイコフスキーの、例えば交響曲4番の1楽章冒頭のファンファーレに代表されるような音楽は弦楽編成に編曲困難。)
また、19世紀の交響曲のスコアはピアノ譜(主に連弾用)とセットで販売されていたとのこと。
当時は録音や再生装置はありませんでしたが、その代わりにブルジョワジーの家族の居間にはピアノがありました。
ピアノ譜を買ってきたブルジョワジーの家族は、それがどんな交響曲なのか、母と息子(あるいは父と娘)がピアノで連弾しながら、仲良く楽しく音楽を確認したのだとか。
つまり交響曲とは、公共圏(コンサートホール)と親密圏(ブルジョワジーの家庭)とを媒介する音楽であり、個人→親密圏(コミュニティ)→公共圏(市民社会)という社会構成の中で聴かれる音楽、同時に一部のブルジョワジーのみが味わうことのできるエリート主義的な音楽であり、決して普遍性のある音楽ではなく、極めて限定的な時代のローカルな音楽です。
このような音楽は18世紀以前のきらびやかな貴族社会では存在せず(この時代は主としてバロックオペラの時代)、20世紀以降に居間のピアノがラジオやテレビにとって代わる大衆消費社会にも適合しない音楽です。
故に、現在において交響曲作曲家がいなくなったのは、必然的な流れであるとのことです。


一方でロシアはどうか。
ロシアはブルジョワジー的市民主義社会を経由せずに、封建的貴族社会(ロマノフ朝)から共産主義社会(ソビエト連邦)へと一気にジャンプした社会です。
従って、上記の西欧・中欧のような親密圏-公共圏という構造はなく、ソ連の交響曲、とりわけショスタコーヴィチの交響曲は、公共性を偽装するもの、常に当局との緊張の中で作曲される、極めていびつなものとして表れます。
19世紀西欧の如き愛の音楽(親密圏の音楽)は奏でられず、そこにときどき表れるのは極めて個人的な、暗号のような表出。
また、西欧で重要な人間の主体・個人・内面とその情緒は、ロシアでは重視されません。
亀山さん曰く、これはロシア正教の影響も大きいとのことで、正教では教会の中の全体性に人間が溶け合っているときに初めて人間が立ち現れる、主体・個人・内面よりも全体性が重視されがちであるという考え方があるそうです。
この考え方がスターリニズムの悲劇を生む一方、チャイコフスキーやショスタコーヴィチの音楽の一部にみられる、圧倒的な力でのしかかってくるような音楽の在り様は、ロシア的音楽の一つの魅力であるとも言えます。


大衆社会以降のクラシック音楽とはどのようなものか。
20世紀の冷戦大戦下では、クラシック音楽は東西で違った形で引き継がれていきます。
東側では19世紀ロマン主義の(いびつな形での)延長と20世紀的な前衛表現が入り混じる、上記のショスタコーヴィチに代表されるような音楽がメインで、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ミャスコフスキーらにより引き続き交響曲が量産されます。
一方で西側はどうか。
戦後のケージやシュトックハウゼンらの前衛(雑駁に言うとわけのわからない音楽)は、音楽は何をやってもいいのだという、西側自由主義を象徴する音楽であるとのこと。
ケージやシュトックハウゼンは、プレスリーと同時代の音楽で、極めて自由主義的であると同時に資本主義社会的な音楽であるとのことです。
冷戦終了以降はこのような東西の分裂はなくなり、クラシック音楽は新ロマン主義的なものに回帰しているようですが、グローバル化の今日において音楽は19世紀的なブルジョワジー的親密-公共の音楽である必然性はなく、もっぱら昔の音楽の録音が聞かれるのみで、クラシック音楽というジャンルが力を失うのは歴史の必然であるという形で話が纏められています。
対談の内容はこの記載に留まりませんが、主要な論点はざっとこんなところです。

 


感想、考えたことなど。


東浩紀さんの「ゲンロン0」との関連。
この対談の流れから考えて、モーツァルトからマーラーに至る音楽を巡る環境は、「ゲンロン0」の2章で批判的に言及される、ハンナ・アーレント的、あるいはカール・シュミット的な人間観とかなりリンクするところがあります。
親密圏-公共圏を形成する自立した個人(ブルジョワジー)が音楽を奏で、楽しみ、語り合う、これはアーレントの言う「活動(action)」そのものです。
アーレント曰く、公共空間での「活動(action)」こそが人間の人間たる所以ですが、19世紀においては当然これはプロレタリアートの「労働(labor)」の犠牲の上に成り立っています。
同時に19世紀的な親密圏-公共圏の上位には国民国家があります。
国民国家はその性質上必然的に敵を必要とし、友-敵図式の中での国民国家内における連帯が人間を人間たらしめるという考えが、カール・シュミットの考え方。
国民楽派というジャンルもあるように、19世紀的クラシック音楽は親密圏→公共圏→国民国家へとリンクしやすい音楽、これは言うまでもなく、ナチスドイツ的国家主義へと容易にリンクする構造を持ちます。
(この対談でも、ナチス政権下でのフルトヴェングラーによるベートーヴェン交響曲9番の「名演」について、徹頭徹尾個人が1人に戻って音楽と向き合ったその瞬間、全体性へと一体化してしまう点が強調されています。)


アーレントあるいはシュミットは、「人間らしさ」が失われる大衆消費社会には批判的です。
しかしながら、大衆消費社会(≒グローバリズム)は、豊かさを一部の階級・一部の国に独占させるのではなく、世界中の多くの人たちに豊かさを分散する(人間どうしの全体的な格差を縮小する)側面があります。
一部のローカルな親密圏-公共圏を形成する19世紀クラシック音楽は素晴らしい文化ですが、プロレタリアートや植民地国家の犠牲の上に成り立っていたということは、一つの事実です。
ポピュラー音楽はクラシック音楽の遺産を引き継いだ音楽(平均律や機能和声の上に成り立つ音楽)であり、多くの人に音楽体験の豊かさを享受させる機会を広める音楽です。
自分は「ゲンロン0」の主張と同様、アーレント的あるいはシュミット的な人間観の独占には批判的です。
自分はクラシック音楽ファンですが、ヨーロッパにおけるクラシック音楽からポピュラー音楽への移行、乱暴な言い方をするとクラシック音楽の必然的な衰退については、極めて肯定的です。


翻って日本ではどうか。
日本は明治以降、100年以上にわたる欧州クラシック音楽の受容の歴史があります。
明治期の音楽取調係に始まり、国民皆兵思想に基づく西欧音楽教育の推進、やがて歌曲を中心とした西欧音楽の作曲者が登場し、昭和初期には器楽演奏のレベルが一定に達した結果、管弦楽作品の作曲者も増えていきます。
戦後は高度成長の下で大衆レベルでクラシック音楽が普及、学校教育では合唱部や吹奏楽部が増え、家庭教育ではピアノやヴァイオリンのお稽古が増えていきます。
レコード産業の発展により音楽愛好家が増え、音楽雑誌などで「名曲」「名演」がしきりに語られるようになります。
有名演奏家・有名オーケストラが来日し、「伝説の名演」が上演される。
やがて地方都市に至るまでコンサートホールが乱立しますが、これらのある種の豊かさは冷戦大戦下における第三世界からの間接的な収奪の上に成り立っていたので、冷戦大戦の終焉とグローバル化による国家間格差の縮小の結果、当然の如く衰退していくことになります。


自分は吹奏楽を経由してクラシック音楽ファンになった人間です。
自分が中学生であった90年代当時、地方都市の公立中学校がファゴットを所有しているという驚くべき豊かな環境の中で音楽に触れていましたが、この部活動は、コンクールの地方大会から全国大会を目指すという体育会系的なノリと共にあり、毎日の朝練のうち週3回は5kmのマラソンであるという、19世紀ヨーロッパ的親密圏-公共圏的なものからはかけ離れた、極めていびつなものでもありました。
家庭におけるヴァイオリンやピアノのお稽古においても、戦後日本はスズキ・メソードに代表される、子供の音楽能力を素早く一定レベルにまで引き上げる合理的な教育方法が考案されますが、このような教育は19世紀的親密圏の音楽の在り様とは異なったものであるとも言え、ヴァイオリン・ピアノのお稽古=嫌な思い出という人も多いのではないかと思います。
日本のクラシック音楽受容は、ことによるとソ連下のショスタコーヴィチの交響曲以上にいびつなものであったのかもしれません。
しかし、このような環境から出発して、クラシック音楽を愛聴するように至ったという人は、自分も含め意外と多いのではないかと思います。


「ゲンロン0 観光客の哲学」では、「ナショナリズム/グローバリズムの二層構造を、郵便的誤配の推進により超克する」ということがテーマになっています。
自分なりに超意訳すると、特定の国家や階層や経済的主体に、幸福や不幸が固定化されることに抗うということ。

そのためには、人と人との偶然の関わり合いの可能性を高め、誰かの誰かが誰かの誰かにたまたま出会うことにより、誰かが幸せになったり不幸になったりする可能性を高めることが大切。
日本におけるクラシック音楽文化は、日本近代文学や日本近代美術と同様にそれなりに長い歴史を持ち、たとえそれがいびつなものであったとしても、人と人との偶然の関わり合いを推進する(郵便的誤配を引き起こす)可能性を持った一つの有効なリソースです。
歴史的経緯からたまたま日本で受容されたクラシック音楽文化を引き継ぎ、音楽に取り組み、あるいは音楽について語り、発信してみると、思わぬところで思わぬ人と、思わぬ繋がりを持てるようになるものです。
このようなことは比較的多くの方が経験されていることなのではないでしょうか。


関西ローカルで言うと、ザ・シンフォニーホールの衰退と兵庫県立芸術文化センターの成功が象徴的です。
特定の階層のみが高額な来日公演のチケットを買い「伝説の名演」を堪能する(かつてのザ・シンフォニーホール的傾向)ことよりも、ローカルな楽団が定期公演やオペラの帯公演の安価なチケットを完売し収益を得る(現在の兵庫県立芸術文化センター的傾向)方が、現在においては建設的です。
たとえそれが19世紀の親密圏-公共圏的なものから乖離しているとしても、文化が根付くとは、こういうことなのではないかと考えます。
伝統が正しく後世に伝わる(≒ある階層に伝統が固定化する)ことより、その伝統が本来どうであったかについて一定程度理解しつつ、かつ伝統が変容し拡散していくことを許容する。
このような考え方が、シルクロードの東端、極東という文化の最果ての地にある日本らしい文化の受容の仕方なのでないかと考えます。
これは音楽だけではなく、文芸や美術なども同様であると自分は考えます。

 


ということで、音楽と社会についてあれこれと考えさせられる、興味深い対談でした。
ゲンロンカフェにおかれては、今後も引き続き音楽を扱った企画をを提供して頂けると嬉しく思います。

 

 

 

亀山郁夫 × 岡田暁生
オーケストラと近代市民社会のみた(悪)夢
ベートーヴェンからショスタコーヴィチまでの交響曲を考える
http://genron-cafe.jp/event/20170414/