随分前に、我が子が伊豆へ行ったお土産にと、買ってきてくれたお守りです。

ずっと、パソコンの近くに置いてあったのですが、

ふと、目が合い袋から取り出し握ってみましたら、言葉が降りてきました。

 

 

●4/6 石室神社の塩守りの言葉

振り返れば、いつのことか。この岬にいたのは、はるか昔。

振り返れば、遠い昔。

この土地に過去にあったことを振り返れば、今まで、心の奥底で燃えたとき。

振り返れば…。

(どなたですか?)

恥を忍び、生き延びたことで、過去の過ちを…石廊崎の神の導きが、今もこの土地を理解し続ける。

打ち付ける波が知らせる。

だんだんと、世が変り、今ではその知らせを受け取ることもない。

時が移り人々も変わり、塩が使われなくなり、次第に打ち付ける波も意識を失う。

 

言葉はここまでです。

意味不明な言葉だったので、この神社について調べてみました。

 


石室神社〈ウィキペデア〉

石室神社(いろうじんじゃ、いしむろじんじゃ)は、伊豆半島の最南端に位置する石廊崎の突端付近、静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎にある神社。石廊権現(いろうごんげん)や石廊崎権現(いろうざきごんげん)とも呼ばれる。古くは伊波例命神社(いはれのみことじんじゃ)とも呼ばれていたとされ、また祭神は現在では伊波例命(いわれのみこと)と云われるが、以下に記すように必ずしも定かではない部分もある。伊豆国神階帳「従四位下いわらいの明神」に比定。

社殿は海岸の岩窟上に立てられた帆柱の上に造営され伊豆の七不思議のひとつとされている。

尚、50メートルほど離れた岬の最突端には熊野神社(くまのじんじゃ)があるが、事実上ひとつの神社として扱われることが多く、本項では一緒に記載する。

 

熊野神社の由来と伝説

石廊崎近くの長津呂の郷に住むお静という名主の娘が、漁師の幸吉と恋に落ちたが、身分の違いで許されぬ恋であったため、幸吉は神子元島に流された。幸吉を忘れられないお静は、毎夜石廊崎の先端で火を焚き、神子元島の幸吉と愛を確かめ合っていた。

ある晩、神子元島の火が見えないことを心配したお静は、たまらず小船を出して神子元島に向かったが、折りからの大風で波は高く船は進まず、お静は一心不乱に神に祈った。その甲斐あって神子元島に漂着し、無事二人はめぐりあい結ばれた。その後二人を親たちも許すこととなり、末長く幸せに暮らしたという。

お静が火を焚いたところに熊野権現の祠が祀られ、以来縁結びの神として知られることとなった。明治初期の神仏分離により熊野神社と称するようになった。

 

伊豆七不思議のひとつ、帆柱について です。

 

石廊崎権現の帆柱〈ウィキペデア〉

石廊崎権現の帆柱(いろうざきごんげんのほばしら)とは、伊豆七不思議のひとつで伊豆半島先端の石室神社に、江戸時代から伝わる伝説である。海面から30メートル以上の断崖絶壁の上に、石室神社の社殿が千石船の帆柱を枕に建てられており、これにまつわる不思議な伝説が江戸時代からある。

昔、播州濱田港から塩を運んでいた千石船が石廊崎の沖で嵐に遭い、その帆柱を石廊権現に奉納すると誓って祈ったところ、無事に江戸に到着することができた。その帰途、帆柱奉納のことをすっかり忘れていると、何故か石廊崎の沖で船が進まなくなり、天候が急変して暴風雨となった。往路に誓いを立てたことを思い出した船主が千石船の帆柱を斧で切り倒すと、帆柱はひとりでに波に乗り、断崖絶壁(およそ30メートル)を石廊権現の社殿あたりまで、まるで供えたかのように打ち上げられた。同時に暴風雨も鎮まり、船は無事に播州へ戻ることができたという。

帆柱は明治34年(1901年)に再建した社殿の基礎として使用され今も残っている。材質は檜で長さは約12メートル、現在では社殿の床の一部がガラス張りにされ、直接覗くことができるようになっている。

 

 


 

石室神社には、熊野神社と伊波例命(いわれのみこと)が祀られているようです。

 

普通に考えて、伊波例命(いわれのみこと)=神武天皇(いわれひこのみこと)でしょう?と思ってしまいます。

 

 

神武天皇は日向の地を出発し、大和入りするとき、ナガスネヒコの放った矢が神武天皇の兄にあたり、兄を失います。その後、日神の子孫が太陽に向かって(東に向かって)攻めるのは天道に逆らうことになると言って、熊野の地へ向かうのでした。熊野国から大和国への道案内をしたとされるのが八咫烏です。


 

なぜ、ここに神武天皇が出て来る?
 

 

『伊豆国神階帳「従四位下いわらいの明神」に比定』とありますが、『伊豆国神階帳』とは三嶋大社在庁の伊達家に伝わる書写本らしいです。

 

伊豆国神階帳(いずのくにしんかいちょう)〈ウィキペデア〉

本帳は伊豆国の国内神名帳で、三嶋大社(静岡県三島市)在庁の伊達家に伝わる書写本である。南北朝時代の康永2年(1343年)12月25日の年記を有する。伊豆国の祭祀を考える上で重要視される史料であるが、信憑性については疑義も指摘される。

本帳では総数95所の神々の神名が掲載される。他国の神名帳と異なり神名の多くは平仮名書きで、平安時代の『延喜式』神名帳との相違も少なからず見える[2]。また『延喜式』は「賀茂・那賀・田方」の順で記すのに対して、本帳は「田方・那賀・賀茂」の順で記す。さらに各郡所載の座数も賀茂郡から田方郡に偏ることから、神階帳が書かれた当時には伊豆国が賀茂郡中心から田方郡中心に移ったとする指摘もある。田方郡の神々のうちでも特に、冒頭の「正一位三島大明神」から「正一位天満天神」までは神階の順序が不統一で、后・御子といった神名が並ぶ。これらの神々は三嶋神の一族神または伊豆国の明神として、国府近くに祀られていたと考えられている。

 

 

三嶋大社については、過去にこちらで書きました。三嶋大神は天村雲命(大山祇命)ではないかと。私の物語では八咫烏です。ならば、神武天皇が出てきてもおかしくありませんよ。

 

 

 

 

 

 


 

 

伊波例命(いわれのみこと)が神武天皇であるなら、皇后は三嶋溝樴耳神の娘、活玉依毘売(ヒメタタライスケヨリヒメ)ですよ?ほら、『三嶋』じゃないですか!?

 

天村雲命は義父ですよ!!

 

 

では、「従四位下いわらいの明神」とは誰でしょうねぇ。

 

活玉依毘売のお母さん(第一后)が、三宅島に祀られている『伊賀牟比咩命』ではないかと思われるのです。

 

そして、天村雲命の第二后が、三宅島にある二宮神社の『伊波乃比咩命』ではないかと…。『いわ』ってついているぞよ!

 

どうだろう。

 

 

 

『石廊崎権現の帆柱』ですが、聞いたことあるような伝説ですねぇ。ふーむ。

 

あ!弥彦神社にも似たような伝説がありました。

弥彦神社を建てたのは、天香語山命の御子の 天五田根命(あめのいつたねのみこと)こと 天村雲命でした。

 

 

 

ああ、弥彦神社の方は鳥居を奉納するのを忘れていた津軽の『火の玉石』の話で、似たような話ですが、こちらは、帆柱が飛ぶのではなく、石が飛ぶんですねぇ。

 

 

今回、言葉を降ろした神は、熊野権現化した『伊波乃比咩命』だったかもしれんません。

 

おしまい