若宮神社のご祭神『物忌奈乃命』を調べてみました。

 


 

こちらの続きになります。

 



 

 

ウィキペディアに『物忌奈命神社』がありましたので見てみます。

物忌奈命神社(ものいみなのみことじんじゃ)は、東京都神津島村にある神社。

 

物忌奈命 (ものいみなのみこと)

『続日本後紀』によると、三嶋神(伊豆国一宮の三嶋大社祭神)とその本后の阿波咩命(阿波命神社祭神)の間の御子神という。

 

 

 

ということで、神津島の開拓をしたのが物忌奈命のようです。

伊豆諸島の開発をしていったのでしょう。

古代の伊豆諸島は私の物語においては重要な場所だと思っています。

 


 

 

たしか神津島は黒曜石がよく取れる島で有名だったはずです。

(神津島観光ガイド)

 

 

鉄器が普及する前は、ガラス質の黒曜石を刃物代わりに使っていましたから、本土から黒曜石を採りに神津島へ渡ってきていたようです。

黒曜石も採れる場所が決まっていまして、古代においては重要な鉱物になります。

それが神津島だったということだと思います。

 

鉄器は作るのに高度な技術と、鉄を溶かす高温になる炉が必要で、当時の日本では鉄鉱石や砂鉄の場所も限定されていて採取も大変でしたでしょうから、『たたら』は古代の日本においてはあまり普及はしていなかったようです。

これを普及していったのが、年の神の子孫たちということになります。

 

 

 

 

古代の火山国日本の人々は溶岩の固まった黒曜石などの自然な石を利用して刃物にしていました。

一般人の農業も、当時の脆いさびやすい鉄器を使うよりも、石をうまく利用して行っていたようです。

ですから、鉄器の普及ってずいぶん時代が下がって5,6世紀ごろになってきます。

 

石ですから当然、衝撃に弱くて脆いです。

でも壊れたらまた採ってくればいいのでから、その方が簡単です。

なので、黒曜石の需要というのは大きかったと想像できます。

 


 

以前調べたとき、現代で黒曜石の刃物を使っている方の話をみたことがあったのですが、これが、よく切れるんだそうです。

黒曜石の刃物があれば、何でもよく切れるようです。

今のセラミック包丁よりよく切れるのかもしれません。

 

余談ですが、古代の南米インカ、アステカなどには鉄器は普及していなかった、と何かで読んだことがあります。

金とか青銅などの文化はありましたが、たたらの技術が伝わらなかったのか、鉄に関してはそれほど重要ではなかったのですね。

 

 

伊豆には、もう一つ私の中で重要な産物があります。

 

それは古代の権力者の右腕を飾る、貝でできたブレスレットなんですが、

磨くときれいな紫色になる、オオツタノハという珍しい貝、なんだそうです。

 

東日本ですと伊豆南部の海流の強い岩肌に強固にくっついて生息しています。

波の荒い場所で、採るのは命がけだそうです。

 

 

市原市埋蔵文化財調査センターのサイトを引用します。

オオツタノハ製の貝輪の「特殊性」は、その稀少性にあります。

東日本では、貝の生息域が極めて限定されているのです。

最近の現生貝調査の結果、その生息地が伊豆諸島南部の三宅島・御蔵島・八丈島にあることがわかってきました。

 

縄文時代、ある集団がこの貝の生息場所を知り、貝輪の素材とするために黒潮を横断しながら島へと渡り、まさに命がけで「捕獲」したのち貝輪に仕上げたのです。

そしてこの貝輪は、縄文時代後期の前半には、東海地方から北海道へと広域に分布するようになりました。

 

これをやってのけた集団がいたのが伊豆大島だったのです。

 

 

 

「これをやってのけた集団」というが三嶋大社祭神と阿波咩命との御子である『物忌奈命』の一族ではないでしょうか。

 

 

 

お母さんである『阿波命神社』も調べます。

 

ウィキペディアによれば、『阿波命神社(あわのみことじんじゃ)』は、東京都神津島村長浜にある神社。

阿波咩命 (あわのめのみこと、阿波命/阿波比咩命)

神津島の開拓神であると伝えられる。『続日本後紀』によると、三嶋神(伊豆国一宮の三嶋大社祭神)の本后であるといい、物忌奈命(物忌奈命神社祭神)はその御子神であるという。

鎌倉時代末期の成立とされる『三宅記』では、三嶋神が神集島(神津島)に置いた「長浜の御前」から長子「たゝない王子(たたない王子)」、次子「たふたい王子」が生まれたと記す。これら3神の社はそれぞれ阿波命神社、物忌奈命神社、日向神社に比定される。

 

そのほか、「阿波」の神名から、忌部氏が阿波国から安房国に東遷する際(忌部氏の東遷)、当地に逗留したことに由来するという伝承もある。

平田篤胤は『古史伝』伊古奈比咩命神社項において、阿波咩命を天津羽羽神(あまつはばのかみ、天石門別神の娘神)に比定している。

 

王子ですから生まれたのは男の子でしょうね。

長男が『物忌奈命』のようです。

次男「たふたい王子」は『日向神社』ということで、

九州の日向でしょうか?それとも瓊瓊杵尊の関係か…。

判らないですね。

 

 

 

 

『伊古奈比咩命神社』を調べてみます。

ウィキペディアによれば、

伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)は、静岡県下田市白浜にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。現在は神社本庁の別表神社。通称は「白濱神社(白浜神社)」。

 

主祭神

伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)

三嶋大明神の后神。

 

相殿神

・三嶋大明神(みしまだいみょうじん)

伊豆国一宮の三嶋大社(静岡県三島市)祭神。別名を事代主命(ことしろぬしのみこと)とする。

・見目(みめ、見目大神)

女神。三嶋大明神の随神。

・若宮(わかみや、若宮大神)

男神。三嶋大明神の随神。

・剣の御子(つるぎのみこ、劔御子大神)

男神。三嶋大明神の随神。

 

主祭神の伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)は、三嶋神の后神とされる。『続日本後紀』の記述を基にすると、三嶋神の正后が阿波咩命(神津島の阿波命神社祭神)、後后が伊古奈比咩命神社にあたるとされる。また、『伊豆国神階帳』に見える「一品当きさの宮」や『三宅記』に三嶋神の后として見える「天地今宮后」もまた、伊古奈比咩命に比定される。後述のように、夫神の三嶋神には歴史的に事代主命説・大山祇命説があるため、伊古奈比咩命にも三嶋溝樴姫(事代主命妃)説・大山祇命妃説があった。

 

 

このように今となっては、

事代主命(天香語山命)と、三嶋溝杭であり大山祇命である(天村雲命)と混同してしまっているようです。

 

 

溝杭というのは神社があります。大阪にある神社です。

 

 

溝咋神社 ウキペディア 

溝咋神社(みぞくいじんじゃ)は、大阪府茨木市にある神社。

 

『古事記』神武天皇段では、大物主神が三嶋湟咋の娘である勢夜陀多良比売(玉櫛媛)を見染め、丹塗矢に化して比売の陰部を突く。

そして比売は驚いたが、その矢を床に置いたところたちまち壮夫となり、比売との間に富登多多良伊須須岐比売命(媛蹈鞴五十鈴媛命)が生まれたという。

 

『日本書紀』神代巻では、媛蹈鞴五十鈴媛命が大三輪神の子と記すとともに、事代主神が八尋熊鰐となって三島溝樴姫(玉櫛媛)のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后になったと記す。

『日本書紀』神武天皇即位前庚申年8月16日条にも同様の記載があり、ここでは玉櫛媛は三島溝橛耳(溝咋耳命)の娘と記されている。

 

これらの文献を踏まえた上で、さらに当社の境内社には大物主神でなく事代主神が祀られていることから、事代主神を奉祀する地祇系の鴨氏と三島勢力との交流を指摘する説がある。

周辺には三島鴨神社・鴨神社といった神社や、鴨村・鴨林といった地名が残り、天神系か地祇系の鴨氏の勢力がうかがわれ、後世になってこの交流が記紀神話に再構成され、出雲系の神が上記の様に強調されたと考える説がある。

また、三島鴨神社を奉祀したと見られる三島県主の祖先は少彦名命とされるが、少彦名命は天神系の鴨氏(賀茂県主)の祖先である三島溝咋耳命(鴨建御角身命)と同神と見る説がある。

 

 

 

 

三島神社をウィキペディアで調べてみます。三嶋大社ではなくて三島神社の方です。

三島神社、三嶋神社、三嶌神社(みしまじんじゃ)、あるいは三島社(みしましゃ)は、「三島」を社名とする神社。総本社は伊予の大山祇神社(大三島神社)と伊豆の三嶋大社である。全国に400社余り存在する。

伊予の大山祇神社を総本社とする大山祇・山祇神社(全国に900社前後)と併せ、「大山祇・三島信仰」と総称されることもある。

※以下特に断りのない場合、大山祇神社は愛媛県の大三島にある「大山祇神社」のことである。

 

祭神

三島(嶋)大明神

大山祇神社 : 大山積神

三嶋大社 : 大山祇命、積羽八重事代主神

祭神は伊予の大山祇神社も伊豆の三嶋大社も三島(嶋)大明神とする。両社とも創建の由緒ははっきりしないが、古くより両社の三島大明神は同一視され、『東関紀行』や『源平盛衰記』、『神道集』は三嶋大社の神が伊予の大山祇神社から来たとする伝承を伝える。

 

江戸時代以降に三嶋大社の神は事代主神であると唱えられはじめ、後には記紀神話の神ではなく、本来は伊豆諸島の造島神だったとも主張されるようになった。

 

両社とも双方の影響がみられ、大山祇神社はかつて三嶋大社の神使である鰻を三島神の眷属として食べるのを禁じていた。境内末社の諸山積神社は伊豆の三嶋大明神に関する記述がある。東国でその地で祀るための大山祇神社を創建するにあたり、距離の遠い伊予の大山祇神社から直接勧請する代わりに三嶋大社から二次的に勧請してこれを代わりとすることもあった。伊豆の加畑賀茂神社・伊豆町二条の三嶋神社には、伊予から来た三島神が上陸した地とのいわれがある。

 

その三島大明神の本体はというと、多くの三島神社が大山祇神としている。大山祇神社については、延喜式神名帳でも大山積神社の名で記載されており、祭神が大山祇神であることは確実視される。13世紀の『釈日本紀』に引用される『伊予国風土記』(逸文)にも「御嶋(三島)に座す神は大山積神」という記述がある。三嶋大社についても前述の『東関紀行』や『源平盛衰記』『神道集』のほか、『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』なども大山祇神としている。

 

また、賀茂氏との関係も示唆され、事代主神を祭る三島神社も多い。室町時代の『二十二社本縁』に「伊豆の三島神(現:三嶋大社)は都波八重事代主神で、伊予の三島神(現:大山祇神社)と同じ」という記述がある。三嶋大社は江戸時代以前は主祭神を大山祇神としていたが、明治に国学者の支持を受けたことから主祭神を事代主神に変更し、昭和に再度大山祇神説が浮上すると、大山祇神・事代主神二神同座に改めている。これを受けて、一部の三島神社は事代主神単独、または事代主神を併せて祭っている。

 

 

 

なるほど、三嶋神社で調べてみると、三嶋大社では、このようにいろいろあった末に江戸時代以降、大山祇神と事代主神の二柱を御祭神にしたのが今の三嶋大社らしいです。

再び、三嶋大社のウキペディアを見てみます。

 

三嶋大社のウキペディア

祭神

祭神は次の2柱。

 

大山祇命(おおやまつみのみこと)

積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)

2柱は「三嶋大神(みしまのおおかみ)」または「三嶋大明神(みしまだいみょうじん)」と総称される。

 

祭神について

三嶋大社の祭神に関しては、古くは大山祇命祭神説・事代主神祭神説が存在した。大山祇命説は、鎌倉時代の『東関紀行』に始まって『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』等の諸史料に見える説である。三嶋神が伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)に由来するという伝説に基づき、事代主神説が唱えられるまでは広く定着していた。

 

一方の事代主神説は、江戸時代後期の平田篤胤の『古史伝』での主張に始まる説である。室町時代の『二十二社本縁』に「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」(都波八重事代主神は、伊豆国賀茂郡に坐す三島神で、伊予国に坐す三島神(=大山祇神社)と同じと云う)の記載に基づく。この記述は伊予の国の大山祇神社の主祭神も事代主神としてしまっている。

 

江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、幕末に事代主神説が国学者の支持を得たため、明治6年(1873年)に事代主神に改められた。その後大正期に入って大山祇命説が再浮上したため、2柱説が昭和27年(1952年)に制定されて現在に至っている。

 

 

 

 

このように江戸時代から大山祇神=事代主神となり、大混乱になってしまったようです。

たぶん、どちらも正しいのだと思います。

『大山祇』は取締役のような名前だと思いますから、大勢いてもおかしくありません。

 

それより私が思うに、事代主命(天香語山命)と御子の一言主(天村雲命)を混同してるのかな?


 

 

記紀では味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)が亡くなった天稚彦(あめわかひこ)と間違われるのですね。

 

【味耜高彦根神】コトバンクより

 『古事記』『日本書紀』や『風土記』にみえる神で大国主命の子。『古事記』では阿遅志貴高日子根神と記す。記紀では友人の天稚彦の葬儀に訪れたとき,その家族から死者が生き返ったと勘違いされたことに怒り,葬儀の建物を切り倒して足で蹴とばし,そのまま飛び去ってしまった。そのとき,ふたつの谷に渡るほど長大な姿で光り輝いたという。また『出雲国風土記』は髭が長く伸びるほどに成長しても,昼夜を分かたず泣いていた(言葉を話さない)と伝える。


 

 

 

記紀、風土記をながめていると、味耜高彦根神という名の神がおそらく三柱出てきます。

 

・一柱目、都波八重事代主神である『天香語山命』の弟の味耜高彦根神で、『建御名方神』

 

・二柱目、「出雲国風土記」に出てくる知的障害を持った、『天香語山命』の弟の『味耜高彦根神』

同じように知的障害を持った方の話は第2代垂仁天皇の所に誉津別命として登場します。

 

・三柱目、『建御名方神』といつの間にかすり替わってしまうというか、『建御名方神』の後を引き継いだ『天村雲命』

 

これがいつの間にか混同して、

都波八重事代主神である『天香語山命』

御子である一言主神『天村雲命』

一緒になってしまっているように感じます。

 


 

ちなみに私の物語では、四道将軍のうち北陸道主東海道主がこの二柱になります。

北陸道主が大彦命である『天香語山命』

東海道主が武渟川別である『天村雲命』

 

四道将軍のウキペディアによりますと、

古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。

 

ということで、事代主神である『天香語山命』は日本海側、

三嶋神(大山祇神)である『天村雲命』は太平洋側を平定していますから、

三島大社に祭られるのは当然、『天村雲命』だと思います。

 

 

 

先ほど出てきました、『三嶋溝樴姫』この方を調べます。

ウィキペディアでは『玉櫛媛』が出てきます。

玉櫛媛(たまくしひめ、玉櫛姫)、玉依媛(たまよりひめ、玉依姫)は、日本神話に登場する女性。初代皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命や、三輪氏遠祖の櫛御方命、賀茂別雷神社祭神の賀茂別雷命などの母として知られる。三島溝樴姫(みしまのみぞくいひめ)、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、活玉依毘売(いくたまよりびめ)、奇美加比咩(くしみかひめ)、賀屋鳴比女命(かやなるひめのみこと)ともいう。

 


 

 

このブログを見てくださっている方々にはもう、お分かりかと思います。

大山祇命=天村雲命=賀茂建角身命(八咫烏)=角凝魂命

 

賀茂建角身命の御子が活玉依毘売で、(おそらく)晩年の年の神との間に賀茂別雷命(神武天皇)が生まれています。

 

 

こちらの品川神社の御祭神調べ、

 

 

 

貴船神社の御祭神調べ、

 

 

 

下鴨神社はなし、

 

 

静岡浅間神社はなし

 

 

などから、三嶋大神と阿波咩命の御子である若宮神社の御祭神を考察してみます。

 

 

 

 

↓こちらに続く