(14)IT会社を辞めて、塩の会社を起業した理由
私が、IT企業を辞めて、塩の会社を起業した理由をご紹介しています。
(1) (2) (3) (4) (5) (6) は、父が肝硬変で入院し、その病院で、「病気にならない生き方」と「食品の裏側」を読み、娘の未来の子供達の健康は、娘たちの食事を作る私に責任があるのだと思った。今の会社の顧問・瀬川昌威と出会い、輪島の塩と出会い、ミネラルの重要さを知り、化学で作られたサプリメントの怖さを知り、輪島の塩のユーザになったという話。
(7) (8) (9) (10) (11) はマグネシウムが酵素を活性化し、たんぱく質を分解して、うま味を出し、かつ、消化を助けることがわかったという話。は、リンゴの変色実験をしたことから、乳酸菌の育成実験にいたり、人間の血液の比率によく似ている輪島の塩は、精製塩や岩塩よりも、乳酸菌の育成量が多かったこと。発酵食品の決め手となる乳酸菌発酵には、ナトリウムとマグネシウムの微妙なバランスが関係していること。この発酵を促すミネラルバランスの塩は、輪島特有のものだろうと思ったという話。
(12) (13) は、インターネットでいろいろと検索して調べて、輪島の塩にはまっていき、輪島に旅行に行くことにした。会社の仕事の携帯向けコンテンツの関係で、脱水シート「ピチット」の元事業部長だった瀬川にお願いして、三國清三シェフを紹介していただくことになり、シェフから世界料理オリンピックのための輪島塗の台と器を使いたいと頼まれた、という話でした。続きます。
2007年9月。私ははじめて能登・輪島に行きました。羽田空港から能登空港までは直通で1時間。遠い日本海の地方と思っていたところが案外近くてびっくりしました。
空港には、漆芸家の若宮隆志さんが迎えに来てくれていて、ずっと車で案内してくださいました。
観光では、能登の観光名所・珠洲市の揚げ浜式塩田を見に行きました。あげ浜式製塩法というのは、約500年にこの地方で始められた塩作りの方法。これはそのときに、撮った写真。
桶をかついで、日本海から岩場を登って海水を運び、粘土で固めた砂の上に、霧のように撒き、天日で蒸発させます。これを何度も繰り返し、充分に水分が蒸発した後、砂をかき集めて、海水で洗い、濃い塩水を作ってから、さらに薪を燃やして平釜で焚き、結晶させるという方法です。
ここは、専売法のもと、日本のすべての塩田が廃止されたときにも、古い製塩法が残される観光設備として例外的に許可された、日本唯一の場所で、無形文化財に指定されています。
雨が降れば、作業はできません。朝、天気予報を見て、空を見て、その日の作業を決めます。梅雨が明けてから本格的な製塩作業が始まりますが、最盛期の8月は短く、9月にもなると日差しが弱くなり、10月には乾燥しなくなってしまうので、作業ができません。大変な重労働です。
こんな過酷な環境での塩作りなのに、江戸時代、能登の塩が珍重されたのには、やはりそれだけの理由があったのではないか、と思いました。
輪島の珠洲市には、いくつか、このような揚げ浜式塩田が、観光と土産品を兼ねて出来ていました。
当時、私が出会った輪島の塩は、このような製法ではなく、室内で、40℃の低温で、湯せんのようにして、間接的に下から海水をあたためて、海水を蒸発させ、塩を結晶させるというものでした。天気や季節に関係なく、作れます。中道肇が作った製塩所でしたが、そこで、当時の塩の会社の社長がみずから作っていました。
輪島観光では、能登半島をほぼ一周し、輪島塗の工房長屋で輪島塗の技術を見て、夜には、輪島の塩の会社の社長さんに、新鮮でおいしい魚介類をごちそうしていただき、すっかり輪島を堪能しました。
次回、三國シェフからの依頼の話に戻ります。
