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2010-10-31 21:16:42

第126回_田中角栄_約束を守る政治家

テーマ:田中角栄

昨今、政治家の言葉が軽くなったといわれる。どんないい政策を口にしようと結局のところ信用がなければ実現は難しいのではなかろうか。与野党の政治家とはず、約束は守る。言ったことは実行する。こういったあたり前のことの積み重ねがあって初めて国民が信用し発言にも重みが出て、政策の実行に移せるのではなかろうか。昔の政治家の方がこのことに重きを置いていた、例えば故・田中角栄がそうであった。




自民党副総裁まで登り詰め、87歳まで現役であった二階堂進(にかいどうすすむ)は「趣味は田中角栄」と言い放ったのは有名な話であるが、田中の方が9歳も年下である。9歳も年下の男をそこまで言い放つとはよほどの惚れ込みようといえるが田中との最初の出会いがそうさせたのかもしれない。


二階堂が衆院商工委員長に就任したのは当選5回(旧鹿児島3区)の時で、1963年(昭和38年)池田政権下であった。就任早々、1964年度予算の編成がはじまった。そんな時二階堂のもとにジェトロ(日本貿易振興会)会長の杉道助(すぎみちすけ)が訪れて来た。ジェトロは前々から5億円の政府出資を強く求めていたが、毎年、大蔵省査定(現財務省)はゼロ。杉は、「これだけは是が非でも獲得してほしい。私の冥土のみやげにしたい」と懇願してきた。杉は大阪商工会議所会頭を長年つとめた関西財界の重鎮、ジェトロ生みの親でもある。この時既に79歳の高齢であるがジェトロにかける杉の情熱に心打たれた二階堂は「引受けました」と承諾する。そして若き大蔵大臣(現財務大臣)であった田中角栄を訪ね直談判する。田中は「わかりました。約束しましょう」とあっさりとOKした。「それは男の約束ですね」と二階堂は念を押して別れた。しかし事務次官折衝の段階で削られ、ジェトロ担当官庁の通産省(現経剤産業省)も降りてしまっていた。予算案ができあがり、閣議にガリ版刷りが持ち込まれる直前に、杉会長から「5億円が入っていません」と電話がかかった。二階堂は慌てて大蔵大臣室に駆け込んで「ジェトロの5億円は、男の約束だったのではないか。一体どうしたのか」と詰め寄った。田中は「そうか。すまなかった」と言うなり、直ぐに主計局長を呼び「大臣命令だ」と5億円の計上をその場で指示したのである。この書類訂正のため、予算閣議が約1時間遅れた。


杉は翌年死去し言葉どおり冥土のみやげになった。「あの時の男の約束が田中さんと私の最初の人間的な出会いであった」と後に二階堂は述懐する。竹下登が創政会を旗揚げした時も二階堂はこれに与せず最後まで田中を支えた。


また、休日の東京・目白の田中邸には朝から各界、各層の陳情客が100人単位で列をなしていたというが、田中は一人一人順番に陳情の内容を聞き「よし分かった」「それは出来る」「それは出来ない」とその場で陳情をさばいていった。田中が「分かった」と言ったものに関しては100%実行されたという。


この時代、大勢の聴衆の前で演説をしても私語がなく黙って話を聞かせられるのは田中角栄と中曽根康弘といわれたが、言ったことは守る政治家という認識があるから真剣に話に耳を傾けるのだろう。昨今、大勢の聴衆の前で話しを黙って聞かせられる政治家は残念ながらいないかもしれない。

 


文責 田宮 卓




参考文献

岩見隆夫 「政治家に必要なのは、言葉と想像力と、ほんの少しのお金」

毎日新聞社

小林吉弥 「究極の人間洞察力」 講談社







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2010-10-28 11:38:59

第125回_物言える財界人がいない昨今

テーマ:家電

2003年(平成15年)417日、小泉純一郎が総理の時である。自民党の山崎拓幹事長、堀内光雄総務会長の元へ、経団連、日商、経済同友会の経済三団体が414日にまとめた緊急株価対策の案を導入するよう陳情するため、奥田硯(おくだひろし)、山口信夫、小林陽太郎の三団体の会長が現れた。

そこで総務会長の堀内は「皆さんは首相官邸でこの案が門前払いをされたから、慌てて自民党の方にもってきたのではないですか。こういう提起に国民が過大な期待をもつようになると、かえって経済にマイナスを及ぼす。それに奥田さん、私は時価会計の凍結論者ですが、あなたは凍結に反対していますよね。財界のトップがそれでは困りますよ。一緒に凍結論でやりましょう」と言ってやったという。結局彼らはおとなしく引き上げていったのだが、改めて最近の財界トップの迫力不足を実感させられた一幕だったと堀内は語る。

堀内は鉄道、観光、ホテルなどを経営する富士急行グループの実質的なオーナーの立場にあり、政界入りする以前は文字通り経営者として君臨してきた。それだけに自分が経営者の第一線でやっていたころの財界人は皆、もっと大きな存在であり力強くて、各方面にそれなりの影響力を及ぼしていたという思いが強いのだろう。


政治家のリーダーシップのなさを財界は批判するが財界人も昔に比べて随分と人物が小さくなってしまったかもしれない。いつの間にか政治家や各界に対して物が言える人物がいなくなってしまった感がある。

では昔の財界人はどうであったか。




1974年(昭和49年)、東芝の再建を果たした後、請われて経団連第4代会長に就任した土光敏夫(どこうとしお)は行動する経団連に変身させた。三木武夫首相(当時)と自民党三役とが勢揃いで、土光以下経団連の幹部数名と朝食をした時のことである。オイルショックの後遺症が予想以上に深刻で、至急、然るべき景気対策を打たなければ、日本の経済は底割れをしてしまうことを訥々と説明をした。これに対して三木首相は土光の経済対策の要請には一切応えないで、○○県知事選挙で自民党が当選したとか××市長選でも自民党が大勝したとか政治情勢の話しばかりする。それまで何度か景気対策の提案を経団連から出しており今朝はその返答を戴けるものと思っていた土光は我慢が出来なくなり「経済の底割れが起こったら何となさるか」と首相を一喝した。これには皆驚き顔面蒼白となったが幹事長(当時)の中曽根康弘が慌ててその場が和むように取り計らいなんとか事なきを得た。また経済企画庁長官(当時)だった福田赳夫(後に首相)は「私は土光さんに怒鳴られっ放しだった。土光さんではなくて怒号さんだ」と当時を振り返る。




第一生命、東芝の社長を歴任し経団連の第2代会長に就任した石坂泰三は会長職を412年も務め財界総理の異名をとった。その間総理や大臣に物申す場面が何度もあったという。一例として、経団連ビル建設についてのエピソードがある。経団連は、東京駅前の工業倶楽部(くらぶ)の建物など幾つかのオフィスを間借りして発足したため、不便であり、会議の場所にも困った。石坂が会長に就任し3期目を迎えるにあたり経済団体を代表する顔となっており、世界に向けて日本経済の窓口となっていたのに会長室さえない有り様であった。

そこで自前のビルを建てることにし、敷地として大手町の一画に在る1800坪の国有地払下げを申請したが、大蔵省(現財務省)からは一向に返事がない。場所が場所であるだけに、その土地には28件もの競願者がり、大物政治家がらみのものもあったからだ。石坂は正面から、そして何度も何度も大蔵省へ足を運び、大蔵大臣(現財務大臣)の水田三喜男(みずたみきお)に頭を下げた。それでも大蔵側はぬらりくらりするばかりで煮え切らない。石坂は他の競願者に比べ、経団連の公共性などの点からも最も理に叶った払い下げ先だと信じていただけに、堪忍袋の緒を切らし大蔵大臣に向い雷を落とした「もう、君には頼まない!」水田にとっては災難であった。この場合誰が大蔵大臣でも似たような対応しか出来なかっただろう。それから内閣が代わり、次の佐藤栄作内閣、田中角栄大蔵大臣になった時に用地の払い下げが実現した。


またこんな話もある。大阪万国博会長を政府に頼まれ引き受けたものの、初年度の政府予算が論外の少なさであった。向こうから頼んでおいてどういうことかと、石坂は腹を立て、総理官邸に乗り込んで怒りをぶつける。「いいですか総理。これはもともと政府の事業で、こちらはお手伝いするだけ。予算次第でどんな万博にでも出来る。そこでうまくいったら政府の手柄になるし、失敗した時は恥をかくのはあなた方だ。こちらはどうでもいいんだから」一方的にまくしたて腰を上げて立ち去ろうとすると「わかりました、わかりましたよ、石坂さん」総理は慌てて後を追った。こうした一幕があり、万博予算は要求の95%が認められるようになった。ご承知のとおり万博は大成功した。


関連サイト

土光敏夫語録集

率先垂範編  http://bit.ly/qN4vdU

経営編    http://bit.ly/reMlal

教育編    http://bit.ly/qpMifu

仕事編    http://bit.ly/oiNTxb




 

 

文責 田宮 卓




参考文献

浅川博忠 「戦後政財界三国志」 講談社文庫

城山三郎 「もう、きみには頼まないー石坂泰三の世界」 文春文庫

居林次雄 「財界総理側近録」 新潮社

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2010-10-27 09:33:02

第124回_久原房之助_明治生まれの気骨な精神

テーマ:財閥

物余り時代に生まれ育った現代人は豊かになった反面、昔の人より精神が脆くなってしまったと思うがどうだろうか。とくに明治時代の人達は何もないところから創り上げていったので現代の人とは比べものにならないぐらい気骨な精神を持った人が多くいた。そのことは先人達が残してくれた言葉から伺いしることが出来る。



久原鉱業を創業し鉱山王の異名をとり、政界にも進出し逓信大臣、立憲政友会の総裁を歴任した久原房之助(くはらふさのすけ)(明治2年~昭和40年)は波乱万丈な人生を振り返り「人間は、一度へこたれたら、それでもうおしまいだ。ただ、へこたれるということは自分の心が決めることで、他人の決めるところではない。人が何と言おうが、自分の心がへこたれなければ、へこたれたことにはならない」

どんな状況でもへこたれたと思わなければへこたれたことにはならない。ごもっともである。なんと逞しい精神力であろうか。




浅野財閥を創業しセメント王の異名をとった浅野総一郎(あさのそういちろう)(嘉永元~昭和5年)は郷里の越中富山にいたころ様々な商売に手を出したもののことごとく失敗した。夜逃げ同然の姿で東京に出てきたが、仕事にありつけず食うに困る状況が続いた。その後、石炭の販売をきっかけに大成功をしていくのだが浅野は「私は楽天主義である。元来、物に凝滞(ぎょうたい)しない性質で、いまだかつて失望落胆したことがない」と言った。
何度も商売に失敗し、食うに困る生活が続いても失望落胆したことがないと言い切るのだからこれまた凄い。


日本の段ボールのパイオニア井上貞治郎(いのうえていじろう)(明治14~昭和38)は現レンゴーを創業し成功したが、15歳の時に神戸の商家に丁稚奉公に出てから洋支店、回漕店、活版屋、中華料理店、銭湯、酒場、パン屋、散髪屋、石炭屋・・・と転職は三十数回繰返す。どんな仕事も失敗した。しかし井上は「寝れば一畳、起きれば半畳、五合とっても三合飯」の明るさと「今にえろなったるぞ」このハングリー精神はどんな苦境の時でも持ち続けたという。日本の経営史上、私は井上ほど転職を繰り返した人間は知らない。普通であれば投げ出してしまうところ、何とも粘り強く逞しい精神力であろうか。



文責 田宮 卓






参考文献

日本経済新聞社 「経済人の名言・上」 堺屋太一 監修

日本経済新聞社 「私の履歴書 経済人3」日本経済新聞社

青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社

日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人」日経ビジネス文庫










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